食の賄い -御同輩、出番ですよ-
2021年12月26日
食料、食糧、食材、食品、料理、調理、賄い、食事、食餌、食卓、食器、食具、食育、食悦、食言、食害。これらは全部食べることに関係している。辞書に相談すれば、賄いとは食事などを調えて供すること、とある。私たちの日々の食事は生産、加工、流通、貯蔵、消費の一番川下にある。農業、漁業など一次産業やその生産物の加工、流通産業に携わらないサラリーマンの大方の家庭では、消費の過程のみに関わる、と言ってもよい。スーパーに買い出しに行くことは流通の一部であり、持ち帰った食料を冷蔵庫などに保存するのは貯蔵の一部ではないのか、という反論もありそうであるが、深く考えないことにする。ここで考えたいことは、サラリーマン人生の中で、食を賄うということを、女房殿に任せきりにしてきたわが身を含めた男たちが、第二、第三の人生に入るにあたって、「食を賄う」ことをどう考え直すべきか、可能ならどのように実践していくのかを問うことである。
男子厨房に入らず、とは女性の聖域を侵してはならない、という意味合いがあると理解してきたが、食事を用意するのは女性の終生の義務であるという、男の独善を正当化する強弁のようにも思える。もっとも不用意に料理を手伝おうとすると却って嫌がられるので、男子への警告なのかもしれない。「狭い台所に二人が入ると邪魔!」とは女房殿の言。「小さな親切、大きな迷惑」と相成る。
一昔前と違って、今では食事、介護、医療付きの特別老人ホームが、終の棲家として宣伝されている。私の両親も八十歳を超えたあたりで、公的なケアハウスに入居した。夫婦用の個室もしくは独り身用の個室があり、食事は共同食堂でおさんどんをしてくれる集合生活の場である。二人とも入居時にはそれなりに体も動くし、特段生活に支障があるわけでなかった。息子の私としては、いずれ齢を重ねるうちに他人の手を借りなければ生活できなくなった時のことを考えての準備段階だろうと考えていた。私たち夫婦もいずれはそのような施設に入るのだろう。しかし、高齢者がケアハウスに入居する一番の動機が食を賄うことにある、ということを近頃つとに考えるようになった。
私の両親の場合、ケアハウスへの入居を強く希望したのは母親である、と言うことを女房殿は母親から聞いていた。母親は三度三度の食卓を用意することに疲れたのだと。確かに父親はサラリーマンとして長く働いたが、何度も辞め時があった。それに引き換え、母親には主婦あるいは賄い婦として辞め時が来るあてはなかった。主婦業から解放されたいと考えるのは当然だったと、ようよう思うに至るようになったのは、コロナで外出を控えるようになってからである。
どちらかと言えば庶民的であるが、私が気に入っていたSという割烹が広島市内にあって、そこの女将の曰く「このお店の料理は日本で二番目においしい」と聞いたことある。なぜ二番というのか、それは家庭料理こそ一番であるから、という心である。
私が若いころに聞いた小話。
ある新婚夫婦が生活を始めたとき、旦那さんが、味噌汁の味が濃いから明日から薄めにしてくれと奥さんに頼んだ。翌日の味噌汁もまだ濃かったので、やはり旦那さんは注文を付けた。こうした繰り返しが一か月続いたある日、「ようやく味付けが私の好みになってきたね」と旦那さんは満足げに言った。それを聞いた奥さんはにんまりほくそ笑んだという。奥さんの味付けはこの一か月全く変わってなかったのである。変化したのは旦那の味覚だった。かくして旦那は知らずしらず女房殿の手のひらの上で毎日飼いならされたのである。旨い料理を作り続けてくれる伴侶を得ることは、今日でも結婚相手に望む男性の大きな条件なのかもしれない。その裏で、生活の主導権は女房殿に握られることとなる。
仮に三十歳で結婚し、めでたく五十年間連れ添ったとすれば、一日の食事機会は朝昼晩三食としておよそ五万五千回である。男性が二十歳から六十歳までフルタイムサラリーマンとして働けば年間二百五十日日働いたとして、男性のお昼の外食の機会は約一万回と見積もる。これを差し引くと大雑把に四万五千回ぐらいが家庭内で食事を調える機会となる(お昼のお弁当を一万回分作ってくれる果報は考慮していない)。寿命が延びて金婚式を迎える夫婦はめずらしくない。もし家庭内での食事機会を全て、女性が担当するとすればそれは大変な労働量である。男たちは食事を調えるために、料理すること以外の必要な周辺の労働を見落としている、というかほとんど見ていない。専業主婦の役割は無価値でなく、夫婦共同で築いた財産の半分の権利があると、裁判で認められる流れができたのはごく最近である。今日の問いはここから始まる。
食を賄うためには、料理に取り掛かる以前に買い出しがあり、食材の保存はもちろん不可欠である。料理と平行して食卓のセッティングがある。料理の後には食器、調理器具の洗い物、整頓・収納そして分別ゴミ出しがある。まず最低でも大まかにこれだけのプロセスが必要で、買い出しに引き続く一連のプロセスと労力に思い至る必要がある。
まだまだ男が見落としている重要なことがある。その最重要事項は献立である。献立が決まれば料理の半分は出来たも同然、と大概の主婦は考える。献立は単なるレシピでは決してない。家族の味の好みや食材の好みも、さらには体調や病気も考えなければならない。わが女房殿は山芋のすりおろしが好みであるが、私は苦手である。しかし焼いた山芋は好きである。こうなると同じ山芋を、一つはすりおろし、一つは焼くという二つの調理が必要になる。
ときたま、「今日は何がいい?」と聞いてくるのは、献立のアイデアがまとまらず、「〇〇がいいな」という私の返答が女房殿の考えにはまると、うれしそうである。献立を自分で毎日一つでも、義務として継続してみれば、献立を考えることの大変さが分かる。献立は思い付きの思考実験ではなく、買い出しと、冷蔵庫の中身との相談したものでなければならない。さらに具材の多いもの、手間のかかる料理の要望となれば、献立は一段と大変になる。具材の多い料理は、不足の具材の買い出しが必要になるかもしれず、買い出しを財布と相談して諦めれば、冷蔵庫にある具材をやりくりしてレシピまで変更する必要がある。
日本の家庭の食器類は他国に比べて種類が多いと言われる。女房殿は家の中をモデルルームみたいにしつらえ、整頓したいと口癖であるが、我が家の台所に限ってはおよそ無理であろう。「欧米の家庭では、油を使う料理を嫌がるらしいわよ」と女房殿は言うが、彼の地でディープフライドの食事が旺盛に食べられているのは、外食か、調理済み食品に油料理を委ねているという事情があるのかもしれない。翻って日本の家庭では、和食に加えて、中華料理、西洋料理が家庭料理に入り込んでいる。さらに言えば天ぷらがメインの食卓に、イタリアのスパゲッティの付け合わせがつき、あるいは中華の餃子もつくことなどは珍しくない。融通無碍というか、はたまたキメラ食卓と言うべきか。日本人の食の選好の幅が広いことは食卓を豊かにしているが、それを日々実践することは男性が想像しえない気疲れと労働を必要とする。
食器の種類が多いことは、食器棚の整理・整頓も必然的に大ごとになる。仮に三種類の食器ですべての料理を盛り付けることにすれば、後片付けも格段に軽減できるが、なかなかそうはならない。食事は習慣のたまものであり、掘り下げればその背骨に文化がある(単なる習慣と文化と区別すべきとは承知しているが)。夫婦のサイズ違いのお湯呑み、お箸も含めて食卓にいくつの食器が並ぶのか、数えてみると実感できる。ワンプレートランチなど、後片付けする立場からすれば理想であるが、無神経な男はお子様ランチスタイルと気に喰わない。
料理の種類が増えると調理法も異なるため、調理器具も必然的に増える。伝統的日本食の時代にはフライパンは必要なかったし、グリルもなかった。ジュースを飲まなかった時代にはミキサーは不要であった。包丁技術を助けるスライサーもなかった。もっとも、火吹き竹を必要としたかまどの代わりにコンパクトな電気釜と、自動食洗器は主婦の労力を大いに軽減し、あれ肌用のクリームを不要としたが、おしなべて台所器具の種類はこれでもかと増え続けている。かき氷、アイスクリーム、ケーキなどデザート専用の機器、道具も珍しくない。タコ焼き器は孫のご機嫌取りには必須のアイテムである。一つ一つは小さくとも、多数まとまれば場所は取るし、メンテナンスも増える。
食事には味の他に量も質も必要である。私たちの二人の息子が高校生と中学生の時、我が家のコメの消費量は白米として一週間で十キロであった。中学高校の時代、体は一気に成長する。それは我が身に覚えがある。私が中学三年生のとき、毎朝起きれば体の節々が痛み、「ああ昨日からまた体が一つ大きくなった」と実感した。この時代の子供たちは喰わせても、喰わせても常に腹をすかしている。今となっては確かかどうか、私が中学三年生の時、一食に一升飯を食べたことがあって周りがびっくりしたという。息子たちの食欲を満たし続けるのはこれまた力仕事であるが、教育を終え、社会に出ても、親許での居候が当たりまえになった時代、母親として賄いの苦労にはなかなかピリオドが打てない。子どもの自立、独立年齢が遅くなることは、親の結婚生活に大きな影響を及ぼすことを、小さいうちから子供に教え込んでおく必要がある。
料理の質と言えば真っ先に浮かぶのが栄養素である。たんぱく質、炭水化物、脂肪、ビタミン、ミネラル、食物繊維など考えることが多すぎる。厚生労働省は一日に三十品をバランスよく食べるのが望ましい、と言うが毎日実行するにはとても現実的とは思えない。献立をずっと作り続けてみると、その大変さが分かる。おそらく大方の官僚たちは献立の、いや賄いの大変さを理解していない。机上の空論である。しかし主婦は氾濫する情報の中で、家族の人数と年代に合った食べ物を思いめぐらす。将棋の指し手ではないが、主婦の頭の中は一日中次の献立、その次の献立、そのまた次の、と先読みしているのである。
若い時分と中高年あるいは高齢期の身体と味覚の要求はおのずと異なる。まして家族が持病を持っている場合は、調理技術に加えて栄養学や病態の知識も必要となる。家庭料理の技術レベルを四段階に分けると、最もレベルが高いのは、病人食を作ることであると言われる。お客にふるまうごちそう料理技術よりも上のレベルなのである。
節約、しまつ、もったいないもまた賄いの重要な一部である。毎朝の新聞のちらしに大概、ご近所、近郊のスーパーの特売、大安売りのチラシが入っている。スーパーでチラシを片手に品定めする女性を見かけることはあっても、男性では見かけたことがない。節約、しまつ、もったいない、の場面はあらゆるところにある。チューブに入っているマヨネーズは、最後の一押しで全部を出し切るのが難しい。男は力任せにチューブを押しつぶそうとするがなかなかうまく行かない。わが女房殿はチューブをさかさまに保存して出口付近にマヨネーズを集め、ハサミでチューブの真ん中を切って出口付近に溜まったマヨネーズをスプーンで掻き出すのである。その量は大匙一杯分以上もある。
節約は賄いのあらゆるプロセスで必要である。電気、ガス、水(お湯)、食べ残し、ラップ、袋など、そして何より賄いに必要な時間と労力とお金である。
昔、調味料の会社の黎明期に、商品を多く使ってもらうにはどうしたらよいかと社内会議をした時、知恵者が「振り出しの穴を大きくすればよい」と進言したという。車のタイヤをもっと売るために走行距離を延ばす戦略を採用したミシュランと同じである。マヨネーズのチューブが力まかせに絞りだそうとしてもかなりの量が残ってしまうように作られているのは、節約をあきらめさせる戦略かもしれない。調味料の容器一つにも主婦と企業の攻防が隠されている。ちなみにもったいない、という言葉感覚は日本に特有のものであるらしい。
買い物袋を提げてスーパーに行くという新習慣はあっという間に根付いたように思われるが、とはいえ、日本全体の食料廃棄率は年間六百万トンと、飽食列島の汚名を返上できないのはなぜだろう。その大部分は主婦のせいではなかろう。
このように食を賄う苦労について思いつくところを書き連ねても、主婦にとっては「いまさら何を」であろう。主婦にとって食を賄うことは、かの国の共産党の言葉を拝借すれば、家庭という世界を経営・支配する核心的営為そのものなのである。「家政」とは意味深淵であるが、今日風に言えばマネジメントであり、ないなりに何とかやりくりする、という意味もある。近未来のうちに優秀なマネージャ職には、賄い経験が問われる時代が来るだろう。生半可な学歴より、生活に即した経験がものをいう。
戦後数十年間、寿命は伸び続けてきた。医学・医療の発達もさることながら、衛生環境、栄養の向上が大きな要因とされる。この二つを家族のために実践してきた主婦の営為は長寿化に貢献した最大要因と思うが、健康医学の本格的研究からほとんど抜け落ちている。学者の怠慢であろう。
もし私と同年配の男性が「へえ、そうなのか、知らなかった」と深く真摯に反省するなら、女性と男性が食卓を挟んで全く異なる世界に生きてきたことを思い知る第一歩なのだ。私たちは家族そろっての外食をめったにしないが、たまにファミリーレストランで外食をするときには、若い家族連れが多いことに驚く。それは食を賄う主婦の苦労に対する家族の償いの表れとも、若い夫婦が共同で家事を切り盛りしているからとも理解できる。手ごろな外食チェーン店が流行っているのは、若い世代で食や家庭内の役割分担が私たちの年代と様変わりしていることを示している。熟年離婚が取りざたされるが、その原因の一つは主婦業を卒業したいという、単純だが長年蓄積された想いである。ケアハウスに入ろうという主婦からの提案が来れば、熟年離婚を突き付けない代わりの思いやりであると理解しよう。
料理には切る、煮炊きするという技が不可欠である、と思い込んでいるご同輩は多いだろう。コロナでキャンプが流行っているが、決まって男性が特別の料理に挑戦する映像が出てくる。しかしキャンプの食事係は晴れの舞台での役割か、普段の罪滅ぼしであり毎日実行は出来ない。しかし全く火(熱源)を使わず、包丁も使わずとも毎日の朝餉の賄いぐらいは、調理技術に全く無縁な男でも出来る。シリアルに牛乳を注ぎ、個包装のチーズ、ヨーグルト、細いフィッシュソーセージなど、容器、包装を開けるだけで一応の朝餉が用意できる。マヨネーズをつけたキュウリの丸かじりも悪くない。ミカンも手でむける。最後の仕上げに乾燥した小魚を一つまみ食べれば、栄養的にも胃袋も満足できる。コンビネーションサラダだって、今はコンビニで買える時世である。毎朝、自分の食卓だけでも自ら賄うことにすれば、女房殿は旦那より早く起きる必要はなくなる。それだけ、眠る時間が増えることを主婦がどれほどうれしく思うか。サラリーマン家庭の主婦の多くは、長年家族に先んじて起床し、床に就くのは最後であったのである。
今日、加工食品の種類は豊富で、味も結構なものである。スーパーの売り場を見回れば、日本も豊かになったものとつくづく思う。過去数十年間の加工食品と台所・調理器具の発達は女性の労力と時間を軽減してきたが、実は男性にとっても賄いのハードルを下げているのである。近頃、女房殿の口癖は「残り物のおすそ分けで十分」である。
私の父はサラリーマンを引退したとき、残りの人生の長さを思いやって、残りの人生をどのように送ろうかと思案した。サラリーマン時代、週に五十時間働き、通勤に十時間を費やすとして、それが丸々自由時間として浮いてくるのである。年間であれば三千時間、定年後の健康余生を二十年と見積もると六万時間。一日二四時間として、丸々二千五百日=六年と八か月である。第一線を退いた男性が、食の賄いになんの貢献もしなければ、これだけの自由時間は主婦の労働負担との引き換えに独占していることになる。家庭内の役割分担に、独占禁止法が踏み込む必要がありはしないか。
で、肝心の問いはここである。この歳になっての熟年離婚はご免こうむると家事手伝いに精を出し、それ以上に「おんながすなる食の賄い」にも挑戦してみようと思うか、ご同輩はどう思われますか?