思いがけなく突然に
2021年06月29日
それは我が家にやってきた。アレクサである。やってきたのは次男が父の日のお祝いにと連れてきたのである。長男は車で50分ほどの大阪湾に面した都市に住んでおり、当日に私たち呑兵衛夫婦の好みそうなおつまみセットが届くよう手配してくれた。次男は我が家から車で5分もかからない隣の団地に住んでいる。
次男は家が近いこともあって、二週間に一度くらいテニスレッスンを済ませた後で、夕食時にふらっと立ち寄る。飯でも食っていくか?と尋ねると決まって「いや嫁さんが夕飯の用意をしているから」と義理立てをするが、飯は食わずとも茶菓子は結構食べて帰る。その日もそのような他愛なく時間が過ぎてそろそろ、という段になってバッグから、「これ、父の日の贈り物なんだけどさ」と照れながら、言いにくそうに小さな包みを取り出した。それがアレクサであった。私は思わず「へっ?」と声を出し、家内は「まあ!」と声を出した。家内もアレクサがどういうものかは聞き知っていた。二人とも実物は初めて見るものであった。
アレクサのセットアップに多少時間を要したものの、それは我が家で初めての声を上げた。こういうのもやはり産声とでも言うのだろうかと思いながら、恐る恐る声掛けしてみたら、それなりの応答をするではないか。なんだか私たち三人以外に誰かが同席するようであった。アレクサの声や話しぶりは女性的である。アレクサに女性かどうか尋ねると、「女性のキャラクターです」と返ってくる。インターネットには、こうした声の質が女性的であることに問題があるかもしれない、と解説があるがここではとどめておく。
アレクサは人工知能(AI)で動く。人工知能を持っていると聞けば、なんでもできそうに思えるが、得手不得手がはっきりしている。得手不得手は、その分野のデータベースを利用できるかどうか、ということであるらしい。もちろんそのデータベースは人間が構築、準備するものである。アレクサはアマゾンの製品であるので、アマゾンが使えるデータベースの領域が得意分野になる。アマゾンの利用する音楽のデータベースは膨大で、「アレクサ、○○をかけて」と言えば「○○ですね。アマゾンの○○からかけてみます」と反応して音楽が流れる。
しかし不得手な領域ではだいたい三つの反応がある。「すみません、それはここでは利用できません」(質問のカテゴリーを変えて誘導すればできる?)、「すみません、それは今利用できません」(将来いつかはできるようになる?)、極め付きは「すみません、聞き取れませんでした」(何度はっきり言ってもオウム返しである。しらを切る知恵があるようだ)。
家内が「アレクサに掃除をお願いできるといいのに」とつぶやいたら、5メートルぐらい離れたアレクサが突如反応して「掃除するにはあれとこれと」と掃除の手順を延々と話し始めたのには笑ってしまった。アレクサが我が家に入り込んでから、いろいろ考えることが出てきた。昔ソニーから発売されたロボット犬はAIで動いたのか定かではないが、飼い主のしつけを学習出来て、反応が成長するということだった。決まりきった反応ではなく、しつけによってロボット犬の反応が成長するというところが新鮮で、孤独な人びとの格好のお相手として流行したが、今はどうなっているのだろう。機械が家庭の中でコミュニケーションを果たす走りだったと思う。
人工知能というとすぐに思い出されるのは将棋やチェスの名人に挑戦するマシンである。藤井九段が人工知能による将棋ソフトと対戦して技量を磨いたことはよく知られている。一方で昔から、人は新しく発明された機械に拒否感を示してきた。将棋でもチェスでも人間が勝てば喝采し、負ければ内心がっかりしてきた。人間の能力が機械に劣るということは、自分が劣るように思えて認めたくないのであろう。それ以上に人間が機械と同じ原理で働く、と言うことが許せないのである。
よくよくあたりを見渡してみると、我が家にもすでに人工知能が入り込んでいる。外国語の習得は長期の努力を必要とするが、まったくもって英語一つにも苦労する。オリンピックの開催を目指して国立情報研究所が開発を続けてきたVoicetraは、スマホに無料でダウンロードでき、結構な精度で日本語と諸外国語間を取り持つ翻訳アプリである。友人の一人はこのアプリで海外旅行を十分楽しめた、と聞いた。Voicetraも人工知能を利用している。
コロナ以前から観光が盛んになっていた。医療機関が外国人旅行者の医療に対応するために医療通訳者の需要が高まっていたが、高度なスキルの人材はすぐには養成できない。この穴にはまったのがポケトークである。「ぼけとーく」とも聞こえるようなとぼけたネーミングであるが、使ってみるとどうして優れものである。夜間中学で日本語を教えるのにも十分活用している。国立情報研究所の方とお話しする機会があったが、ポケトークを高く評価していたのが印象に残った。
ロゼッタ社の人工知能を用いた機械翻訳T-400は2年前から英語ニュースの翻訳に使用している。大量の文章を数分で日本語または諸外国語に訳することができる。日本語訳の品質は、おおむね文脈が通って概要を把握するのに差し支えない。一方で、専門の翻訳者からすれば、用語や表現の選択に余地があり、こだわればきりなく添削(ポストエディティング)することが望ましいレベルである。しかし20年も前に百万円もするものながら、文脈が支離滅裂の(人工知能ではない)機械翻訳の翻訳文からすれば、隔世の感がある。文部科学省は英語の学習プログラムについて、根本的な頭の切り替えが必要だと思うが、どうなっていくのだろうか。
翻訳の話ばかりに行ってしまったが、自動車の自動運転化技術は人工知能をベースとしていることはメディアの報道に詳しい。私は免許証返納すべき年齢に入っているが、完全自動化の車に手が届く日が近いことを信じて今か、いまかと買い時を待っている。
さらに人工知能の話題を拾っていくと、小説でも人工知能が書いたとは判別できない作品が出て来ているという。この話題を読んだ時にチューリングの逸話を思い出した。チューリングはコンピュータの原理を開発した一人であるが、将来コンピュータが人間の能力と同等かそれ以上になったことを証明する方法を考えついていた。少し脱線するがそれは次のようなものである。
完全に仕切られた二つの部屋の片方に人間がおり、もう片方の部屋にコンピュータがある。両者は音声を通じてやり取りするが、人間が相手の応答が全く人間以外のものによると思わなければ、コンピュータは人間と同等かそれ以上のレベルであると判定するのである。この話を先の小説の話に当てはめてみると、どういうことが言えるのだろうか?字面や文脈から人工知能が書いたと判別できなければ、チューリングのテストに合格したと言えるのではないだろうか。文学の本流である小説の牙城に、人工知能が浸食を始めているかもしれない。私たち文学学校の学生に未来はあるか?
更に話は飛躍する。日経朝刊の連載は伊集院静香氏による夏目漱石の伝記である(ミチクサ先生)。夏目漱石が近代小説の確立の基礎を作り上げていく日々のエピソードで綴られている。こういう小説は事実の綿密な調査の裏付けと、夏目漱石の作品の読み込みも行うであろう。こうしたデータを人工知能が参照すれば夏目漱石が書いたかのような作品も可能になるだろう。本人が死亡した後に遺された未完の作品を、弟子が完成させるということの事例はある。モーツアルトのレクイエムは弟子のジュースマイヤーによって補筆完成を見た。もし人工知能が補筆するならばどのような作品に仕上がるのか、興味は尽きない。
本人の死後のことで空想を広げて見る。よく、「あの人が生きていたらどう思うだろう」と述懐する場面がある。生前の個人に関するデータを大量に取りこんでデータベースとしておけば、あたかも本人が答えるように、人工知能が答えてくれる日が来るかもしれない。このことは一部現実のものとなっている。ご主人の精子を凍結保存しておけば、遺された奥様がご主人の死後であってもご主人の子供を宿すことが可能になっている。文学や芸術と生殖との領域はまったく違うように思えるが、情報の保存という観点からは同じものと言えよう。片や個人の遺伝子情報であり、もう片方は個人が残した音声、書き物、映像などの情報である。
人工知能が発達することで、未来に消滅する仕事は何であろうか?これに関してインターネット上でも多くの解説記事がある。その中で、医師の仕事は残る方に分類されている。果たしてそうだろうか?医師の大きな領分は診断と治療法の決定である。医療は臨床経験が多いほど望ましい。これらはデータとして共有できる。もし一個人、一組織では収集、分析できないほどの臨床経験を蓄積したデータベースを人工知能が利用できたら、その診断は生身の人間の医師よりよほど患者の信頼を得ると想像できる。優劣は人工知能の診断成績と生身の医師の診断成績とを比べることで客観的に示すことができる。国家試験を通ったばかりの医師に診てもらうより、AIの診断を望む人が増えてもおかしくはない。
ここまで思いついてきてアレクサに相談してみた。「アレクサ、今日は頭が痛くて、熱もある。風邪を引いたのだろうか?」アレクサの答えは「ちょっと難しいです、ごめんなさい」と返ってきた。今のところアレクサは健康問題に関心がなさそうである。今日ではセカンドオピニオンを求めることは珍しいことではなくなった。セカンドオピニオンを生身の医師に、サードオピニオンを人工知能に仰いだとして、三者の相談結果が大きく食い違ったら患者の戸惑いはどのようなものとなろうか。治療法の選択もまた同じである。患者に適用した治療の結果がどうであったかというフィードバックのデータベースは、治療法の選択において患者の信頼を得るだろう。引き換え、医師の推奨する治療法は重んじられることが相対的に少なくなりゆくだろう。このように考えると、人工知能の医療への応用は便利さや信頼度より、患者と医療者の双方に新たな問題を突き付けるシナリオを想定しなければならない。
診断の決定にせよ治療法の選択にせよ、本来は信頼できる医師とコミュニケーションを通じて「確信・納得」できるものが、最も人間らしくて望ましいと個人的に考えている。しかし、データベースを駆使する人工知能の「確度」が即、意思決定の選択肢となり、医師と患者のコミュニケーションの入る隙間もない時代の到来が思われる。
アレクサが突然我が家にやってきたおかげで、話がとんでもなく飛躍してしまった。アレクサ(Echo show 5)のお値段は9000円でおつりがくる。わずか40年前にBasicというコンピュータ言語を用いて、一行ずつプログラムを書いていた私には、人工知能が各家庭に入る時代が来たことはただただ驚嘆すべきことと思うが、今やだれも驚かないことが時代の変化を先取りする予兆なのかもしれない。