研究ノート4:医学モデル

20200516

 

 恩師鈴木良次先生から著書「医工計測技術」という本を贈呈いただいた。この本は、顕微鏡を始めとして医学医療の発達に寄与してきた計測技術のうち、最新の超音波エコー、内視鏡、X線CT、MRIなどを取り上げて解説したものである。私たちは、人体を切り裂くことなくその内部を観察する技術を獲得してきたのである。

 ところで中川米造が環境医学の中で引用しているRobert M. Veatchによる医学モデルは次の4特性で構成されるという。

1)    非自発性 2)    器質性 3)    専門家としての医師の介入 4)    認容しうる社会的最低基準までの回復への期待

  中川の解説によると、非自発性とは、医師という専門家によって病名がつけられるということで、患者が自らに責任を持てない存在となる、ということを意味している。その非自発性を物質化したものが器質性である。例えば、胃潰瘍という病気は、体内の胃に存在する疾患として理解され、実感される。つまり体内に病気の実態が存在する、と理解されるのである。

  一方、臓器の機能性は実態が見えない働きの不調であり、重大なもの、病気らしさも少ないと考えられる。そこで医学モデルに入れるために躍起になって器質性の存在を証明しようと努力することになる。多くの場合、器質性の異常発見には画像診断が有用な武器になる。それでもなお、器質性の異常が確認されなければ次のようなことになるであろう。

・検査した結果、異状は見られませんでした。しばらく様子を見ましょう。

・検査した結果、異状は見られませんでした。気のせいかもしれませんね。

  不調を訴える病人(患者)は、「異常なし」すなわち気のせいか、そのうち消失するであろうと期待するか、病名が付かないことに納得できないまま医師の許を辞するであろう。本人は体の不調あるいは異常を実感しているにも関わらず、である。

  医学の歴史には病気を考える場合に、歴史的に大きく二つの見方があるという。もっとも一般的に紹介されるものは液体病理学と固体病理学である。固体病理学は病気を固体あるいは団塊として可視化する、あるいは可視的なものであると想定すると理解される。典型は病変部位を外科的に切除、摘出することであり、その立場は現在でも全く変わっていない。放射線治療も画像診断で得られた病変部位に高エネルギーを集中させる技術であり、固体病理学の発展的応用である。触診で異常を感じ取ることは、異常な固体を体感することである。人体の中に画像として異常を認めることは、病気の存在をまずは器質の異常として捉えることである。人は目で見えるものを重要と考える傾向があることは古くから指摘されている[1]。それゆえに異常を外科的に除去するか、修復することが患者にとっても治療の有力、かつ分かりやすい選択肢となる。

  他方で、液体病理学の代表はヒポクラテスの四体液説(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)である。この病理学の主張は機能の全体性と調和概念を軸としていると言われる。固体病理学の立場として器質に可視化された異常が現れてなくとも、機能性が不調で異常を感じることがある。今日、血液検査データの異常値は機能性の異常を検出する有力な手段である。血液やホルモンなど体液成分を数値データとして定量化することは一種の可視化である。これは液体病理学を延長した立場であり、現代に至って固体病理学との一体化(融合というべきか?)が実現したともいえるかもしれない。さらには生体の動的状態をバイタルサインとして定量化することにも成功した。しかしこれらのデータの解釈は専門性と高度の技能を要する。

  現代の医療技術は画像診断とデータ解釈を併せ持って行われるが、それだけに医師から付けられる病名そのものはもちろん、病態の本質について患者が十分な理解をすることは極めて困難なレベルに達している。その結果、治療の選択について患者は無条件に医療側にゆだねざるを得ない。氾濫するインターネット情報の素人解釈は極端な不安と楽観を招来している。

 医療技術の高度化は患者の理解と納得を置き去りにしたまま進み、比例するように医療への依存度はおのずと高まる。医学モデルは医療技術の高度化とともに先鋭化している。同時に病気や治療を理解しえなくなった患者は、医療者への信頼の有無が医療とは無縁のものとしているかもしれない。

[1] カエサルは「人は世界を見たいと思うようにしか理解しない」と述べた。逆に言えば見たこと(見えること)が人の理解を支配すると言えるだろう。

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