Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(17)

Ivan Illich

Limits to Medicine

Medical Nemesis: The Expropriation of Health 

1995年版への序文

 

 

病原性、免疫システム、公衆衛生の質

ペンシルバニア州ハーシーで開催された健康についての質的研究会議での講演。1994年6月13日

 

ジャニス・モース教授へ

ヘルスケアの質に関し、学識あるとして活動するために組織された看護師の第2回の集まりにお招きいただき、講演する機会を与えられたことを光栄に思います。私は、20年ほど前に出版された「医学に限界を置く-医学のネメシス」の著者として招かれました。私は看護師ではありませんし、さらに言えば(私自身の)健康(そのもの)には関心がありません。私は友情の歴史と苦悩に関する芸術の歴史について教えています。私は中世についての歴史家であり、哲学者でもあります。私はカール・ミッチャム教授にここに来るよう勧められました。私たちは工学技術の象徴的効果について研究しています。工学技術で何ができるかではなく、工学技術は何を語ろうとしているかを研究しているのです。あなた方がこの第2回会合で取り上げている難問は、私たち二人の研究テーマと関連しているように思えます。

 皆さんは医療の質を研究しています。その焦点は何でしょう?サービスの提供なのか、それともメッセージなのでしょうか?私は、皆さんの関心には、多くの人々に、良くて安い、それでいて劣悪とはならないサービスの提供をめざすことと、慣例化した医療のための資金調達や組織化から生じる健全ではない神話に過ぎない話や、確かだと思えることについて研究することの二つがあると思います。これは微妙な話題であり、理解していただくために、私は自分の話をしようと思います。「医療におけるネメシス」の出版以後に私が知的成長したことについてのお話しです。

私は、あの本の内容のいくつかを公に修正するこの機会を喜ばしく思っています。私は「Medical Nemesis」を、私たちが信じるに足る基本的な事柄を形作っている、現代技術の内部に潜む象徴的な力を考察する4つのエッセイの1つとして書きました。それぞれのエッセイで、私は異なる方法を用いて4つの主なる制度を検証し、それぞれが私の観察したものを投影するスクリーンとなりました。「Nmesis」では、1970年代の医療を取り上げ、専横的な医療技術に内在する、皮肉にも非生産的効果と呼ぶべきものを実証的に研究しました。

私は臨床的、社会的、文化的な医原性、すなわちいくつもの苦悩が生じることを明らかにしたが、医療の権威を対象としてその改革を試みたわけではないのです。私は医療を、人間の状態を間違いなく変容させるであろう巨大技術のパラダイムとして用いました。私は、幸福の技術的追求によって、苦悩に対処する技芸の必要は事実上なくなるのだと主張する、あらゆる企てのモデルの一つとして、医療を検証したのです。保健医療が制度化されると、幸福の追求が「健康」の追求に変質していくということを意識しながら、教育、交通、人体の修理などの進展と並行して、ヘルスケアの「進展」の分析を行いました。

 四半世紀近く経った今でも、私は「Nemesis」の内容とレトリックには満足しています。この本は、非生産的なものとニーズの歴史についての議論を切り開きました。しかしそれ以上の意義もあります。つまり医学を哲学の領域に引き戻したのです。私が苦悩の文化に焦点を当てたことは、生命倫理が装い新たに登場し、流行していることに対する一服の清涼剤でありました。ひとりの人間を「一個の生命」に還元したところで、今やシステムへと化した生命倫理が人間を完璧に管理しようとすることは防ぐことはできません。しかし、私は今になって、自分の意図を損なうような大きな欠点が(本書に)あることに気づきました。私は当時、健康とは「自律的な対応力の強さ」だと考えていました。そのように言及したときには、私はシステムを分析的に考察することが、すぐさま物の見方や概念に道徳的な悪影響を及ぼすということに気がついていなかったのです。

このように自分自身に言及するような、サイバネティックな方法で健康を解釈することで、苦しんでいる人が身体・肉体的にさらに疎くなってしまう世界観の素地を、私は知らず知らずのうちに整えていたのです。機能、フィードバック、調節といったことを意味する言葉で幸せを表現するとき、私は身体と魂が経験する変容を無視していたのです。バーバラ・ドゥーデンとの10年にわたる、身体が経験を積むことについての歴史に関する研究、そしてヴィッセンシャフト大学(ベルリン)、マールブルク、ペンシルバニア州立大学でのジェンダーとしての自己の歴史に関する数回のセミナーは、今も私の眼前に課題としてあります。

「Limits to Medicine」は数か国語に翻訳されていますが、その売り上げのほとんどが、医学校からの大量注文に拠っているという事実から、私が心配するのにはその課題のためなのです。この本は、ケーキを食べながら、本書を手に入れることができるという証左として読まれているのです。自分自身を、責任ある管理を必要とする自己規制的で自己構築的なシステムと考えることによって、生き、経験してきた感覚を持つ身体を記憶から消し去り、その実体性を失っているにも関わらず、己は苦悩の芸術と死の芸術の伝統の内に在るのだと主張することができるのです。「ネメシス」を書いたのは、医療システムが意味するところを説明するためでしたが、私たちの反応をパターン化し、私たちをシステムの一部に変えてしまうという、その微妙なメカニズムを十分に強調しなかったのです。

 

質的研究

皆さんは、私の話を聞き、教訓として理解するのに申し分のない聴衆だと思っています。皆さんの多くは、大学院を卒業した看護師です。私が朝食や昼食を共にした人々から、大きな感銘を受けました。看護師として何が求められるのか、という質問に衝撃を受けた人々は、このシステムを何とかするべく大学院に進みました。そして民族学、社会学、人類学、心理学などの研究を修めました。80年代後半、皆さんは自身のための組織を結成しました。医療制度との出会いの経験に関する研究を相互に支援するためでしたね。医療界では、あなた方の主体性はあまり歓迎されませんでした。とはいえ、数年間は実り多い日々を送り、制度面でも確かな影響を与えました。しかし、これも変わっていかなければなりません。私は、あなた方の主体性が吸収されかねない気配を感じています。米国医師会は現在、米国のどの産業よりも多くの広告費を費やしています。タイム誌やニューズウィーク誌の見開き10ページのカラー広告を見ればわかるでしょう。このように広告を競い合うのであれば、医師会の圧勝です。この会議で発表される330の論文に対する助成金は、それが真実であろうとなかろうと、ケアの専門家が実際に患者をケアしていることを証明するものとして、正当化されるのです。

ここで知り合いになった皆さんは、看護の現場を離れて、ケア提供に善意のエネルギーを注ぐことに人生を費やしているわけでも、もっとシンプルな方法で患者が有用と感じるための工学的研究をしているわけでもありません。私は、ケアシステムが私たちに教え込もうとする心地よい調べとはどういうものか、解読しようとする人たちにお会いしました。そのような人達は皮肉たっぷりの哲学者を訓練して、ためらうことなく現代のパラドックスを声高に攻撃させようという考えを持っています。つまり健康を組織的に追求することは、尊厳に満ち、意味のある、忍耐強く、愛に満ちた、美しく、諦観に溢れた、さらには喜びに満ちたものを体現するという、苦悩する経験を妨げる大きな障害となったことです。

 皆さんが最初から制度にしばられない状態に置かれてきたならば、私たちの医療システムが、病的なまでに健康を制度的に追及する構造体となることが想像出来たのです。私がホストを務めた、ペンシルバニア州立大学で開催した、健康に関する言葉や概念の歴史に関するセミナーが良い例です。しかし、ひとたび制度の中で専門職としての地位を享受すれば、皆さんはその自由を失うのです。そうなると、ポストモダンの健康よりは、現代文化における苦悩の術について研究したいと思う人は、ますます困難な時間を費やすでしょう。私が特にこの話をしたいのはそのような人たちであり、医療コングロマリットの象徴的機能について研究をお願いしたい人たちなのです。その象徴的機能から私たちがどれだけ健康を追い求めているかよりも、むしろ私たちが何者であるかについて分かることがあるでしょう。

 

医療のネメシス

Limits to Medicineの冒頭の一文は、「医療体制は健康にとって大きな脅威となっている」という警告でした。1975年当時、この一文が衝撃と怒りを招いたことは、今となっては奇妙に思えます。今となっては、陳腐な言葉になっています。私の論点は「医師ではなく、一般市民こそ洞察力があり、医原病の蔓延を食い止めることができるのだ」というものでした。今、クリントン夫妻は、「世間一般に喧伝されている利点や恩恵に対して、進歩の裏側に隠された面を評価する概念的枠組み」と私が呼んだものを探索しています。スーパーコライダー(注:音響技術のコンピュータ言語)の研究に取り組んでいた2300人の物理学者を事実上解雇した同じ議会が、今、私が論じてきたことを行っています。そのこととは「医学の認識、分類、意思決定に対する自らのコントロールを取り戻す」ことなのです。では、今私が後悔していることは何でしょう?私が悔やんでいることは、苦悩と死の技芸に関する重要で筋を通した言明を、還元主義者の言う身体離脱の概念で明確化したことです。

私はLimits to Medicineの中で、現代の病原性の本質は、後期産業社会で文化的に表象されるようになった健康の追求であることを論じました。システム・マネジメントの時代になって、健康を病的に追求することが広く一般に押しつけられるようになろうとは思っていなかったのです。私は健康について、個人の自律性という観点から、また「対応能力の強さ」という観点から、自由に語ることができると考えていました。私は健康を、「集団の遺伝的構成、歴史、環境に適応した文化的規範」に従う「社会の台本における応答の結果」と考えていました。私は、健康の追求に熱心な世代に対して、歴史的に人間の状態は「苦しんできた」のだということを、一貫して伝えたかったのです。しかし、私には当時グレゴリー・ベイトソンの影響が残っていて、フィードバック、ポグロム、検死、情報といった概念は、巧みに使えば問題を明確にできると信じていました。

私は、苦しみと私自身のバランスを取ることを同一視できると考えていたのです。私は間違っていました。苦悩するとは、それに対応する過程であると理解するや否や、重大な一歩を踏み出すことになります。自分の肉体(の痛み)に耐えることから、感情、知覚、そしてシステムとして考えられた自己の状態を管理する方向に向かうのです。 

対処すること

copingという英単語が使われるようになったのは、ごく最近のことなのです。これは、昨年秋に開催された第1回医療史国際会議で指摘されています。近代以前の時代に「病気への対処」について語るのは、乱用か恣意的な先入観のどちらかと言えます。痛み、障害、疲労、恐怖といった病気は、苦しみ、耐え忍び、共有し、緩和し、恐れおののき、治すものでした。どの言語にも、災い、不快、苦悩、そしてあらゆる発作を表現する、豊かで精緻な語彙があるものです。偉大な伝統は、この人間の状態の暗黒面に対処する一連の概念と実践において、互いに根本的な違いがあります。それぞれの伝統において、不快感や苦悩の解釈は時代とともに変化しますが、社会階級に特有のものなのです。Copingという言葉を用いて、苦しみに関するこの豊かな文化的構成を一くくりにしようとすることは、現代的な概念を根底から押し付けることであって、過去の歴史の植民地化なのです。

15世紀以来、「to cope」という動詞の意味は証明されており、「誰かと衝突する」という意味でした。17世紀末までに、この動詞(の語感)は穏やかなものに変化しました。これについては、バイロン卿を例にとって、「女性と対処するには、やはり爽やかな自信が一番だ」と示されています。第二次世界大戦後、この言葉は世俗の表現に取り入れられ、子供たちは恋愛に「対処」するようになりました。人々は、夫、仕事、治療、失業、インフルエンザに「対処」することを学びました。しかし、1967年においても、アメリカン・ヘリテージ誌の用法委員会は、この言葉を、スラングではないにしても、カジュアルな文章では許される一種のニュースピーク(注:あいまいな表現)の一種であると考えていました。

ベイトソンは、人類学にシステム理論を導入するためにこの言葉を取り上げました。彼は世俗的なイデオムに対して秀でた耳を持っていました。ちょうどその頃、少なくともカリフォルニアでは、「to cope」が初めて自動詞として使われています。この言葉は、伝統的な言語の中に適切な語彙がないほど、新しい生活様式のあり方を示しているのです。この言葉が歓迎されたのは、「物事の描写が混乱する中で生じた空白を埋めたからだ」と、用法パネルのメンバーの一人である音楽学者は判断しています。

Copingは、こうした認識の空白部分での中で多用されています。認識の空白部分が世に広がったことから、私自身を今の時代に合わせて、明晰な文章に書き記すことが可能となりました。この空白の中で、語彙や図表は、今や自己を象徴するエンブレム、すなわち新しい種類のブラックボックスを作り出したのです。

倫理的儀式か、それとも認識論的儀式か?

50歳を過ぎた頃、私が健康を「自律的な対処能力の強さ」と定義したのは、「徳の後」の時代に、道徳的な「自我」を志向する現代的な方法を求めてのことでした。しかし、私は知らず知らずのうちに、責任、オートポイエーシス、自己認識を自我の耐性と自己防御(免疫)という視点から提案していたのです。かつてブラックボックスと考えられていた人間が、どのように振る舞うかを語るのに、これ以上適切な一般動詞はありません。

70歳を間近に控えた今、脱構築というテキスト分析手法に毒された風潮の下で、自分の書いた小冊子を読み直しました。私は、己の人生に対処するという、新しい種類の自動詞的に形容される活動によって、暗に示されるシステム分析の枠組みの範疇では、伝統に沿って生きる術は追求できないことを痛感したのです。システム論の用語で自己認識することは楽しむ術(晴れやかな局面)も、苦悩する術(陰の局面)のどちらも実践できる肉体を雲散霧消させてしまうのです。

「Medical Nmesis」は、進歩、快適、ケア、保険によって形成される文化の中にあっても、生活する芸術、楽しみと苦しみの芸術は正しいものであり、苦痛を減じ、回復し、最終的には安寧のうちに世を去ることの権利を与えようとする試みでありました。医療化という危険性、社会の活力を奪うプロフェッショナリズム、そして忘却、麻痺、不死という神話を生む儀式が衰えいくことが、この本の三つのテーマでした。この本が書かれたのは、予防の概念と新しい魔術が本格的に普及する前のことで、今日のように当たり前となっている禁煙ルールも、公的費用で服役中の薬物中毒者に鍼治療を行うことも、当時は議題にはなっていませんでした。歴史的な観点から、私は文化の腐敗を指摘し、究極の倫理の問題を提起したのです。

今、私たちが直面している課題は、真実を問うことです。私が医療を告発するのは、それが人々の気力萎えさせるものとしてではなく、政治的・宗教的権威を否定するビジネスの代理機関としてなのです。今日、医療制度を改善しようとする諸策は、知識によって自我を作り直そうとすることは明らかです。T細胞検査から安全なセックスまで、尿検査から禅道まで、健康を追求する行為は、己をどのようなものとして捉えるかという解釈として自分に舞い戻ってきます。

1994年には、こうした日常の行為が、病気から逃れるシステムという対処能力を増強させています。そういう私の証拠は逸話的なものなのですが、ツィンマーマン医師は診療を終えたある日のこと、T細胞数を検査するように紹介されてきた11人の患者のうち3人を思い出していました。一人は髪が抜けたから、二人目はニキビができたからというものでした。三人目はどんな症状が理由だったか、私は忘れてしまいましたが。ツィンマーマン医師は、医業が成り立つ過程について次のように振り返っています。1850年代のプロテスタント・ドイツでは、男性はマスターベーション、女性はヒステリーが第一位でした。数十年後には結核、ついで梅毒となりました。今日、彼女は、システム・イデオロギーを流布させているセルフケア雑誌の購読だと考えています。

タイムテーブル、大学案内、コンピューターゲームもそうなのですが、医療にも同じく反作用があります。自己防衛システムとしての自我は、試練にあって初めてどのように感じるのかというような複雑なものなのです。がん専門医が(患者の)ジムの化学療法を断念したとき、私はジムの気持ちを尋ねたことがあります。彼は私に、臨床検査結果が返ってくる翌日の午前11時以降に来るように言いました。オルフィックス(注:orphicは知性を超えた何ものか、の意)の「汝自身を知れ」にはこうあります: 己のシステムがどう対処しているかをチェックせよ」と。

 1972年以前の生物学の教科書の索引には、「免疫系」という言葉はひとつも出てきていません。それから10年後、免疫に関する学術論文で、この用語を使用していないものを見つけるのは至難のことです。80年代初頭には、市場、文化の単位、家族の心理的構成などを扱う教科書に、免疫システムもつ実体、たとえ単純にそのようには呼べないとしても、この概念が登場してきます。ダナ・ハラウェイはこの「なにものか」を信念、知識、実践を多形的に機能するものと呼んでいます。それは(注:immune systemの概念)西洋の生物学に立脚した政治における、自己の認識方法であり、同時に誤った認識に導くものなのです。

 事実、受精卵を人間として法的に認めようとする方向に動いています。というのはローマ法王と憲法学者たちが、そのゲノムと細胞質は他者、つまりこの場合は母親を認識することによって、自己へと成長する力を有していると暗に示唆しているからなのです。生物を免疫システムとして考えることで、人間を倫理委員会が判断を下すことのできる「生命」とすることに、正当性らしきものを与えることになるのです。

 システムで構成された世界では、免疫システムが、今まで個人あるいは人間と呼ばれていたものに取って代わっていきます。20世紀前半にあっては、ホモ・エコノミクス(注:経済合理性に基づいて活動する現代人)を自然界における事実として受け入れることで、アニミズムを実践し、希少な酸素をめぐってバクテリアが「競争」しているのを観察することが正当化されましたが、20世紀後半は、悩み喜ぶために生まれた人間を、システムという概念に実体を与え、自己保存(注=immune system)の情報ループに還元するという生気を殺す術を実践しているのです。この会議の準備として、皆んさんが読まれた「Limits to Medicine -Medical Nemesis」を書いたときには、私は以上のようなことを知る由もなかったのです。

 

 

謝辞

 

医療体制についての私の考えは、ロスリン・リンドハイムとジョン・マクナイトとの数年にわたる定期的な対話の中で形成されたものである。カリフォルニア大学バークレー校の建築学教授であるリンドハイム女史は間もなく「空間のホスピタリゼーション(The Hospitalization of  Space)」を出版する予定であり、ノースウェスタン大学の都市研究ディレクターであるジョン・マックナイトは「サービス社会(The Serviced Society)」の執筆に取り組んでいる。この二人の友人による動機づけがなければ、ポール・グッドマンとの最後の対話を本書として出版する勇気はなかっただろう。その他にも何人かが、このテキストの成長に深く関わってくれた: ジャン・ロベールとジャン・P・デュピュイは、本書で取り上げた経済学的命題を、時間を冒涜し、空間を歪める交通システムの例で説明してくれた。アンドレ・ゴルツは健康の政治学について第一の指南役であり、マリソン・ボイヤースは驚嘆すべき能力の持ち主で、本書の草稿をロンドンで出版してくれた。おかげで幅広く、重要な様々な対応に関して最終原稿の基礎を築くことが可能となった。彼ら、そして私に対する批評家や助力者たち、とりわけ貴重な解釈へと導いてくれた人々に、私は深く感謝したい。ヴァレンティーナ・ボレマンスがいなければ、本書は書けなかっただろう。彼女が本書のベースとなる資料を根気よく集め、絶えず批評してくれたおかげで、私の判断力は洗練され、覚醒し、文章は落ち着いたものとなった。死の産業化に関する章は、彼女が死の顔の歴史に関する自著のためにまとめたノートの要約である。

 

 

著者ノート

私は「Ideas In Progress」のシリーズの草稿として「Medical Nemesis」を書き、並行して刊行された「Techno-Critique」シリーズ用にフランス語で、また「Rowohlt Verlag」用にドイツ語で書き直した。その他の翻訳は、イタリア語、スペイン語、オランダ語、スウェーデン語、ノルウェー語、セルビア語である。私の草稿が回覧された結果、いただいた批評、助言、資料のおかげで本書を完成させることができた。批評家諸氏に感謝の意を込めて捧げる。

 

イヴァン・イリッチ

1976年2月27日

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