Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(16)
神話の継承から尊重される倫理基盤へ
原始人は常に、目には見えない何ものかが持つ力を認識してきた。彼らは自分たちが、途方もないもの、驚異的なもの、不気味なものに脅かされていると考えていたのである。この何ものかは、王や魔術師の力だけでなく、職人や技術者の力にも限界を設けていた。マリノフスキーは、産業化された社会だけは、使える道具は何であっても最大限に効率よく使うことを許容し、それ以外の社会では、剣や鋤の使用に神聖な限界を認めることが倫理の必要な基盤であったと主張している。科学技術が放縦となって数世代にわたった今、自然が有限であることを再び私たちは意識するようになっている。宇宙の限界は厳密、かつ操作可能な範囲の観測で決まっている。しかし、この危機に際して、自然のもつ神話的な神聖さを現代化するような、いくばくかでも実体性を持つ生態学的イデオロギーに、人間の行動を制限する何ものかを見出そうとするのは愚かなことである。
環境志向となった宗教と言えるものを工学的に改変することは、連綿と続いてきた傲慢さを戯画とするものになるだけだろう。産業革命以降にあっては人間の自主性を公正に、理性的に保証する方策について広く合意することだけが、人間の活動になくてはならない限度というものを認識することにつながる。すべての倫理に共通するのは、人間の行為は人間的条件の下で行われるという前提である。さまざまな倫理体系が、暗黙的であれ明示的であれ、この人間的条件は多かれ少なかれ与えられたものという仮定を置いているため、人間の行為の範囲は狭く限定されていた。
今日、産業化された時代では目的だけでなく、人間の行動の本質そのものが新しくなっている。神々と向き合う代わりに、私たちは自然のやみくもな力と対峙し、私たちが理解するようになった宇宙のダイナミックな境界と向き合う代わりに、私たちはこの境界が人間の行動にとって決定的な限界に変化しないように対処する。伝統的に、定言命法は行動に制限を課し、真に人間として正しいかどうか確認するものであった。自分の行動に直接制限を課すことで、他者の自由を等しく尊重することを求めていた。後天的に獲得した「人間の条件」を喪失したことによって、人間の行為が変わるだけでなく、人の行為の枠組みに対する人間の態度も変ってしまうのである。
枠組みがその神聖な性格を失った後も、人の行為が人間的であり続けるためには、新たな義務として承認される倫理的基盤が必要となる。この義務は、次のように要約することができる: "あなたの行為の結果が、まっとうな人間の生命の永続を妨げないように行動しなさい"。端的に言えば、次のようになる: 「孫の代まで影響が及ばないことが分っていなければ、放射線レベルを上げてはならない」。このような命令は、「正真正銘の人間の生命」という概念がどこまで行っても定まらないものと考えられている限り、明確化できないものである。
聖なるものの領域を回復することなく、人類がこの新しい命令形式の厳格な規律を包含する倫理に到達することは可能なのだろうか?しかしそうならなければ、どのような非道な行為にも尤もな理由を言い立てることができるだろう。例えば「バックグラウンドの放射線量をなぜ上げないのか?私たちの孫の世代はそれに耐えられるようになるだろう」と。恐怖がギリギリの正気を保つのに役立つ場合もあるが、それは結果がかなり差し迫っている場合だけである。増殖炉はマフィアが一年後の恐喝に使ったり、操作員がガンになって死ぬことを恐れて、稼働させないかもしれない。しかし、絶対の力を持つ聖なるものへの畏敬の念だけが、現実的で利己的な打算や、遠く先々のことがどうなるか分からないという不安に対する気休めとは袂を分かつものであることは明らかである。
このことは、まっとうな人間の生命は現在も将来も尊重に値するという命令文として、再び顧慮されうるものとなる。しかし、聖なるものへの回帰は、現在の危機においては阻まれている。信仰に頼ることは、信じる者に逃げ道を与えるが、倫理的命令の基礎にはなりえない。信仰はあるか、ないかのどちらかであり、相手に信仰がなければ、信仰者は不信心者を非難できないからである。最近の歴史は伝統文化のタブーというものが、行き過ぎた工業生産に対抗するには無力であることを示している。タブーとは、ある社会とその生産形態の価値観に結びついていたものであり、工業化の過程で不可逆的に失われたものなのである。
産業社会に限度を設けるにあたっては、それを共通財とすることを目的にして、警察権力が強制する重要な信念の共有体系に基盤を置く必要はなく、それはおそらく実現不可能であり、決して望ましいことではない。現在流行しているエコロジー的なドグマの共有に拠ることことなく、倫理的な人間行動に必要な基盤を見出すことはできる。新たなエコロジー的な宗教やイデオロギーに代わるこの選択肢は、基本的価値観と倫理基盤の原則についての合意に基づくものである。
どれほど大きな価値を持つ分野においても、工業生産の拡大がある段階を超えると、限界効用は公平に分配されなくなり、同時に全体的な有効性が低下し始めることを示すことができる。工業的生産様式がある段階を越えて拡大し、自立した生活様式を侵害し続けると、人々の苦しみが増え、社会的解体が生じる。工業的生産と自律的生産の最適な相乗効果が得られるポイントと、産業支配を最大限に許容しうるポイントの中間では、産業の拡大を逆転させるために政治的・法的手続きが必要となる。もし倫理が、自己研鑽と生存を希求する精神を根底として、社会の生産する物が公平に分配され、社会が公平に統制されるという前提で再構築されるならば、その結果は、環境が許容する限度というものの理解となり、一人ひとりの目標を達成するために必要な自立的行動に対して、産業は最適な補完とはずである。
公平な分配と参加を条件とし、生き抜くことに意義を見出そうとする倫理の政治的再構築は、エコロジーの名の下にすべてを管理しようとする動きに対して、唯一つ考えられる道理をわきまえた答えである。個人の自律性を回復することは、倫理的覚醒を強化しようとするこのような政治的行動に拠るだろう。効率よく、自由に、公平に移動したいからこそ、人々は交通手段を規制したいと思うだろう。世界についてではなく、世界の中で学ぶ機会、時間、意欲を平等に共有したいからこそ、人々は学校教育を律するだろう。治癒する機会と力を守りたいからこそ、人々は医学と治療法を律するだろう。力を克己的に制御することでしか、満足感は公平に共有できないことを認めるだろう。
自律に向けた行動を回復することは、特定の目標を新たに共有することではなく、さまざまな個人や集団がそれぞれに異なる目標を追い求めることから生じる対立を、解決可能とする倫理を法的・政治的に再構築することにかかっている。移動が良くなるということは、何か新しい形態の交通システムではなく、個人の裁量によってその人の旅が一層の価値あるものになる条件にかかっている。学習機会が良くなるということは、世の中に関する多くの情報が流通することではなく、興味の持てる労働環境のために、資本集約的な生産活動に限度を設けることである。健康ケアを良くすることは、新しい治療基準ではなく、自立的なケアに取り組む意欲と能力のレベルにかかっている。この力の回復は、私たちが誤った考えに囚われていることを理解することにかかっている。
健康を志向する権利
現在、あらゆる分野で産業が拡大するのに伴い、取り返しのつかない損害が増大している。医学の世界では、この損害は「医原病」として発現する。医療によって痛み、病気になり、死に至る場合場合、それは臨床レベルにあり、医療政策が不健康をもたらす産業組織を強化する場合、それは社会レベルにあり、医学に負う行動や考え違いによって、成長、介護、老いにおける人々の能力が損なわれ、人間としての極めて重要な自律性が抑圧される場合、あるいは医療介入のために痛み、障害、障害、苦悩、死に対する個人の反応が鈍化する場合、それは文化的レベルにあり、象徴的なものである。
現在、社会工学者や経済学者が提唱する、医原病を減らすための対策のほとんどは、医療を一層管理強化することを含めている。これらのいわゆる救済策というべき対策には、三つの重要なレベルにおいて、二次的にも医原性による問題を生み出している。すなわち、臨床的、社会的、文化的医原性を自己強化するのである。医療の技術構造から生じる最も根本的な医原性の影響は、価値観が制度によって固定化していくという、医療の技術的機能以外の部分にある。制度化された医療の技術的要素とそれ以外の要素は合体して、新たな問題を生む。つまり、病棟という世界で、麻酔をかけられ、無力になり、孤独に生き延びるのである。
医療のネメシスとは、自然や隣人や夢と上手く付き合っていく、そのような自律した能力の全てを奪われた人々が、環境的、社会的、象徴的システムの中で技術的に生命を維持されるという体験である。医療のネメシスを測定することはできないが、その経験は共有できる。その体験の強さは、それぞれの独立性、活力、関連性に左右されるものである。ネメシスというものを理解すると、ある選択が生まれる。人間の努力に自ずと生じる限界を推し測り、認め、政治的な限度を設けるか、あるいは、死に絶えることに代わって、技術的に計画され、作りだされた地獄の中で生き残ることを、受け入れられるかのどちらかである。
つい最近まで、自ら不足に甘んじようという政治と、システムエンジニアリングによる地獄のどちらかを選択するということは、科学者や政治家の言葉にはなじむものではなかった。医療のネメシスにますます向き合わざるを得なくなって、代替の選択肢に新たな意味が加わった。それはいずれの社会にあってもどの成員にも平等な自由が保証されるように、生産財には全て厳格な限度を設けなければならないのか、あるいは、社会は、福祉官僚が社会のひとり一人に必要だと決定するものを提供するためには、前例を見ない階級による統制を受け入れなければならないかのどちらかである。
いくつかの国では、公に、医療制度を見直そうとしている。これからの論争によっては、現在でも苛立たしい生命の医療化というものを一層深刻なものとなる危険があるが、医療のネメシスや、医療に対するひとり一人の責任の回復をどうするかを主題とし、また専門家の独占に歯止めをかけることを立法の重要な目標とするならば、その議論はまだ実りあるものになるだろう。医師や医療機関の資源を制限する代わりに、こうした法制化は、一般人でも扱える医療資源を誰もが本当の意味で使えるようになるまで、医療技術と専門家の活動に課税するだろう。
仕事や生活が原因で体調を悪くした人々に、何らかの病人役割を与える専門家を増やす代わりに、新しい法律は、人々がそうした役割を放棄し、環境を適切に変えていくことできるような、破滅的でない生き方を準備できる権利を保証する。習慣性のある薬物、危険な薬物、あるいは効果のない薬物や治療法を禁じる代わりに、こうした法律は、責任を持って使用し、その全責任を病人とその近親者に負わせることになるだろう。そのような法律は、市民の身体的・精神的な健康状態を行政官に報告して委ねる代わりに、他者の権利を尊重することから生まれる制約にのみ縛られるがそれ以外は、それぞれが自分の健康を定義する権利を認めるのである。専門家や政府機関の許認可権を強化する代わりに、新たな法律は、税金で賄われる医療従事者の選出に市民の声を反映させるだろう。新しい法律では、医療従事者の業績を専門家の評価機関に提出する代わりに、彼らが貢献している地域社会が評価するようにするだろう。
美徳としての健康
健康とは、適応のプロセスを意味する。それは本能の結果ではなく、社会の現実に対する、自律的でありながら文化的に形作られた反応のなせる業である。環境の変化に適応し、成長し、老いに適応し、傷を負ったときの治癒に適応し、苦しみに適応し、死を穏やかに予期する能力を指す。健康は未来をも包含するものであり、したがって苦悩と、それとともに共生する内なる資質も含むのである。
健康とは、一人ひとりが責任を負うプロセスを意味し、他者に負うところは限られている。責任を負うということは、2つのことを意味する。人は自分がなしたことに対して責任を負うと同時に、他人や他のグループに対しても責任を負う。責任を自覚し、他者に対して責任を感じるときに、失敗のもたらすものは批判や非難、罰ではなく、後悔や反省、真の悔い改めとなるのである。それに続く悲嘆と苦痛は、回復と癒しの兆しであり、現れる様相としても罪悪感とはまったく異なるものである。健康とは自ら挑まなければならない営為であり、動物の生理的バランスと比べられるものではない。各人がこの挑戦に成功するかは、自己認識、自己規律、内なる資源に多くを負っており、それによって日々の生活のリズムや行動、食事、性生活を律しているのである。好ましい活動についての知識、良い生活ぶり、他者の健康増進に関わること、これらはすべて、仲間や年長者の模範から学ぶものである。仕事と余暇、お祝い事と眠ること、食べ物と飲み物を作ることと用意、家族関係と政治などの事例である。地理的な地域や特定の技術的状況に適合する、長い間試行錯誤されてきた健康パターンは、長期にわたる政治的自律性に大きく依存している。つまり、文化の動的安定性に依存する。
地理的に、また技術的な状況に適合し、長い歴史の間に確立してきた健康のありようは、長い時間のうちに育まれた政治の自律性に大きく負うている。つまり、文化の動的安定性に依存しているのである。公衆衛生の水準は、病気に対処する手段と責任がどの程度、すべての人々をカバーできているかということである。この対処能力は、医療介入や環境衛生の特徴によって強化されることはあっても、それらが決して取って代わることはない。専門家による介入を最小限することができる社会は、健康に向けた最もよい条件を整えることができる。自己、他者、環境に対して自立的に適応していく力が大きければ大きいほど、適応のための管理は必要も我慢することも少なくて済むだろう。健康が最適なものとなって広がった世界では明らかに、医療の介入を最小限度に抑え、必要な時のみ以外には行わない世界である。健康な人々とは、出産、成長、仕事、癒し、そして死に対して偏りなく向き合う環境の中で、健全な食生活を送り、健全な家庭で暮らす人々のことである。そのような人々は、人口の抑制、老化、不完全な回復、迫りくる死を意識的に受容する文化によって支えられている。健康な人々が結婚し、出産し、人間的な状況を共有し、死んでいくためには、官僚による干渉は最小限にとどめなければならない。
人が意識を持ちながらも生きることの脆さ、個であること、他者と関係を持つことは、苦痛、病、死の経験を人生にとって不可欠なものとしている。この三つの宿命に自ら立ち向かう力は、健康の大本である。他者との関係に強く依存するようになると、人は自発性を放棄し、健康は衰えざるを得なくなる。現代医学の真の奇跡は悪魔的でさえある。一人ひとりの個人にとどまらず人類全体を人間らしさとは程遠い、あわれな健康状態のまま長生きのびさせるのである。Medical Nemesis(医学・医療に対する懲罰)とは、一人ひとりが自発的に宿命に立ち向かう機会の意義を高め、また平等にする社会を志向して始まったものでありながら、それ自体を破壊して終焉させてしまった負のフィードバックなのである。