佐渡紀行

 佐渡に来るのは50年ぶりである。社会人になってすぐ、山形は白鷹町と大江町にある工場実習に行った。二か月半、休みなく女工さんに交じって朝から晩まで働きづめであった(工場内の寮に住み込みであった)。加工果物の季節の変わり目に缶詰工場の稼働が一段落し、女工さん、社員一同、バスを仕立てて佐渡に渡りドンちゃん騒ぎの慰労会が行われた。佐渡に渡るのはそれ以来であり、島内を見て回るのは今回が初めてである。

 佐渡は親潮と黒潮が流れるので、マグロも鰤も取れるという。自給自足が可能な島である。島と言っても淡路島の1.5倍の面積がある。沖縄が返還されるまで日本一の大きさであった。太古の昔、佐渡はもともと二つの島に分かれていた。それが地殻変動によってくっついた形になったという。観光タクシーの運転手さんは、サツマイモが二つくっついた形にたとえてくれた。山に入っても遭難することはないという。それはサツマイモが北東に並んで伸びた単純な形のため、低地に向かえば必ず海岸線か、平地に出るからである。低地と高地の方向感覚が狂うということがないのだろう。

 自給自足の島と書いたが、コメ、魚、野菜、果物、肉の全てを生産しているという恵まれた土地である(ただし解体処理場はない)。北陸に位置し、離れた島であるのでさぞかし寒かろうと思いきや、12月初旬でも黒潮のお陰で、新潟市内より暖かかった。北の島としては温暖なのだろう。とは言え北の端を周る海岸線では強風にあおられた白波が、いかにも佐渡の荒海という風景を作っていた。驚いたことに海面から湯気が立って、薄靄がかかっている。これは大気より海の温度が暖かいために発生する現象で、そうそう見られるものではありませんよ、と喜ばせてくれた(「けあらし」というらしい)。黒潮がここまで来ているという証拠なのだろうと思った。

 自給自足できるから、人々には欲がないという。山菜も少し山に分け入ればいくらでも採れる。だからスーパーでも売っていない。釣りをすればアジなど入れ食いも珍しくない。釣りすぎれば、奥さんに自分で始末して、と言われるとタクシーの運転手さんは笑っていた。

 意外なことに柿が名産と言えるほどらしい。柿畑もあちこちに見かけるが、空き地に手入れのしていない柿の木がここかしこにあって、カキの実がどれも鈴なりであった。そういうカキの実は誰もとって食べようとはしないらしい。柿は表と裏の差が最も著しい果物の一つで、今年鈴なりだから、来年は裏になるという。佐渡の柿はほとんどが渋柿で、ヘタを焼酎につけて甘くするのだという。ところ変わればカキの種類も食べ方も変わる。

 島の人口は4万人を切って、減少傾向が続いている。島は自給自足できるほど恵まれているためか、人々の物欲や、企業家精神に乏しいのではないかという。若者が10人島外に出て行けば、佐渡に戻ってくのは1人ぐらいだそうだ。それで高齢者が増え続けている。島の一軒家の4割ほどは空き家になっている。年金生活者が住めば、お金を使うこともないし、いいところですよと、関東からリターンしてきた運転手がいう。気候も比較的穏やかで、新聞の死亡欄はほとんど三桁の年齢だそうだ。

 佐渡は平安から鎌倉時代まで流人の島でもあった。高貴なお方が少なからず住み着いたおかげで、文化も高かった。佐渡にはお寺がおよそ百ある。日蓮上人が流されてきたので、日蓮宗が主流なのかと言えば、主流は真言宗である。佐渡の人びとの娯楽は今でもお能である。佐渡に現在は能楽堂が32か所残っている。金山で働く人々を楽しませるために奉行が広めたとされる。

  その、佐渡の金山の跡に潜った。コースは3コースあるが、時間の関係で江戸時代に掘られた坑道コースを見学した。江戸時代から昭和に至るまで掘った金はおよそ80トンである。坑道は全て手掘りである(素手という意味ではない)。資料館を見学し、佐渡の金山が世界遺産登録に推薦された理由が自分なりに納得できた。一つは江戸時代の貨幣経済を長期に亘って支えてきた源泉であること、二つ目には金銀の貨幣を作るために、実に多くの工夫された技術が使われていたこと。それ以上に国家システムとして運営と体制が確立していたことである。金山と言えば単に流人、罪人が金を掘るというイメージしかなかった不明を恥じた。

  佐渡への船旅は片道二時間半のフェリーであった。フェリーは5200トンもあった。酔い止めを飲んだが必要ないほど揺れがなかった。50年前はどんな船に乗ったのか、記憶は蘇らなかった。

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