函館五稜郭

函館五稜郭:戊辰戦争と明治維新のイメージ

 役、事変、戦い、いくさ、乱など軍事衝突を表現する言葉は一つではないが、「戦争」という言葉は私にとって第二次大戦や太平洋戦争に直結する言葉である。だから戦争という言葉以外で表現される軍事衝突は小さな規模のものをイメージさせるものであった。「あった」というのは、それはある時点までの過去のことで、今はそうではない。そのある時点とはこの夏に函館を訪れたときのことである。函館は若いころに何回か仕事で訪れたことがあったが、観光目的で訪ねたのは今回が初めてであった。初めて五稜郭タワーに上り、五稜郭を眼下に見下ろし、タワー展望台に展示してある戊辰戦争の説明を丁寧に読んだ。タワーを降りて、五稜郭に入るまでに函館戦争に使われた大砲と函館戦争慰霊碑を見、五稜郭内に再建された奉行所を見学した。歴史の一端を頭に入れて、現場を歩けば感慨と実感がわき上がる。

  恥ずかしながら、明治元年(1868年)に勃発した戊辰戦争は日本近代史における最大の内乱であったということを思い知ったのはこのときであった。明治維新は大政奉還と江戸城の無血開城のイメージが強く、国内各地の動揺や争乱、小競り合いがあったにせよ、欧州各国の革命などとは異なり、平和裏に政権移行、成就したものと思い込んでいた。それが西日本から軍事勢力が興り、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、信州、関東、東北、そして函館まで、一連の戦いが続いた。戊辰戦争が終結して日本は分裂を回避して、近代国家に統一されたという歴史的評価である。明治維新は世界でもまれなる革命であったという見方もある。

  五稜郭の名前は昔から知っていたし、そこで戦さがあったことも知っていた。しかし五稜郭(函館)での戦争が日本最大の内乱に終止符をうつターニングポイントとなったことは、それまで抱いていた明治維新成就のイメージと大きくかけ離れていた。そのギャップは大げさに言えばガツンと来た衝撃であり、日本の近現代史に無頓着な不明を恥じることとなった。

 私たちは歴史を見るに、政治、軍事、経済の中心部での動きしか見ていない。函館は日本統治の周辺域にあったが、北方外交の重要拠点として諸外国とのせめぎあったところであった。日本が近代化に向かう蝦夷地開発と産業誕生の起点でもあった。同時にそれはアイヌ民族とその異文化、歴史を本格的に飲み込もうとする時代と重なっていく。函館への旅は、歴史が幾重にも層をなして作られていくことを学ぶものとなった。

おせっかいな注:戊辰とは十二支の一つで、西暦を60で割って8余る年を言う。1986年に勃発したので、1868÷60=31余り8となり戊辰となる。

Previous
Previous

未完の地下大本営

Next
Next

佐渡紀行