楽器博物館を訪ねる

2024年11月2日

今年も浜松市を訪れた。前年から気になっていた浜松市立楽器博物館を訪れた。70歳以上は無料とのこと、ありがたいことである。私は音楽が趣味であるが知識や見聞は広くはない。楽器と言えばバロック音楽やジャズで使われる楽器を中心に思い浮かべるぐらいなのだが、この博物館はむしろ世界各地の、それもアジア各国やアフリカ諸国の民族楽器が豊富に展示されている。新幹線浜松駅北口から東に歩いて10分ぐらいのところにあるので、楽器博物館で2時間、浜松城に移動して2時間、合計で4,5時間の立ち寄りを当て込んでいたが、見るもの多く歩き疲れて楽器博物館だけで満腹となってしまった。浜松城散策は来年のお楽しみにとっておくことにしよう。

アクセス | 浜松市楽器博物館

私たちは音楽と言えば大きな空間で、荘厳あるいはきらびやかな音で奏でられるものを思い浮かべる。しかし音楽は本来小さく静かな空間で楽しむものであったのだろう。ジプシーのフラメンコについて、「ギタリスト、カンテ(歌い手)、踊り手の3人が入る小さな傘(空間のたとえ)があればよい」という言い伝えがある。奏でる音も、ギターの音色、手拍子、歌、カスタネットそしてサパテアート(床を踏み鳴らす音)といった素朴なものである。

西欧では権威者の空間(教会)で音楽は大規模、大音量、荘厳化の道をたどったが、同時に比較的狭い空間(宮廷やサロン)では小編成のアンサンブルが愛好された。翻って今日では、大規模の演奏会場でマイクやイコライザーを多用した音響工学を抜きにできない人工操作が加えられた音楽が生の素材の音楽を圧倒している。私たちの音楽体験はすっかり変質しているに違いない。もはや倍音を聞き取れる静謐な空間も、私たちの聴力もない。こうした楽器が製作され、実際に演奏されていたそれぞれの土地にはどのような空間と場面があったのかと想う。

音楽と言葉と踊りは密接なつながりがある。嘆きや喜びの言葉が調べになって原始の音楽と踊りが生まれ、それに音程を操ることができる楽器が加わったのだろう。全ての楽器の中で最高のものは人の歌声だという。楽器は歌声を補完するものとして誕生したに違いない。

楽器は音を出すものである。音は空気の振動であるから、原理的には固いものを叩く、張力のあるもの(弦など)をこする(たたく、ひっかく)、息で空気の流れを作るの3種類の発音体になる。人の歌声は声帯を震わして空気を振動させる。管楽器のクラリネットが人の歌が歌声に最も近いとされるのは、リード(原型は葦笛)を息で振動させるというメカニズムによるところもあると思う。

展示されている民族楽器は驚くほど多種多様で、装飾性、形状、色もきわめて豊かなものであることに感嘆する。楽器の装飾性が豊かになったことは、次第に大人数の祭りや儀式に使われるようになって、人目に触れることを意識されてことを示していると思う。楽器の装飾性は文化の歴史を体現している。

こうした多種多様な楽器のアンサンブルはどのようなものになるか、想像してみると楽しい。国も文化も違えば楽器も多様である。音の基準があってないような時代に、世界のあちこちで作られた楽器のアンサンブルは成立するのだろうか?アンサンブルやオーケストラはいわゆる音合わせが必要である。音叉が発明されたのは1711年イギリスのジョン・ショアというトランペット奏者によるとされ、それまでの音合わせは人の感覚に頼る誤差の大きいものであった。現代の音楽は非常に緻密に演奏できる理論と技術に裏打ちされているが、少しずつ音がずれた楽器が一斉にアンサンブルに使われたとしたらどんな混沌、カオスが待ち受けているだろうか?調和と秩序に慣れ切った私たちには、春の祭典の初演をしのぐ興奮のるつぼになるかもしれない。

人形たちが夜毎に目を覚まし、好きな楽器をあれこれ演奏しては大騒ぎ、夜明けとともに素知らぬ顔で元の陳列場所に帰っていく、そんなメルヘンを誰か書かないてくれないかな~と思いながら楽器博物館を後にした。

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