未完の地下大本営
義理の妹夫妻から、富士山と桜を愛でる機会に松代の地下大本営跡を見てはどうかと提案された。この戦争遺跡は若い時から関心があったが、そちらの方面に行く機会がなかった。富士山と松代の戦争遺跡はずいぶん落差があって、気持ちの上ではなんだか違和感があったがこういう機会を外せば次はいつになるか、と思った。時期は4月半ば過ぎである。
地下遺跡の入り口は思ったよりも小さかったが空爆を回避するためには当然であろう。入るときはヘルメットをかぶり、案内所の係員から一応の簡単な説明を聴く。公開されている部分は500mぐらいで、全体のほんの一部であるという。私たちが入る前に地下から一人の見学者が出てきたので「地下壕はどうでした?」と尋ねると「涙が出ました」という。聞けば全国の戦争遺跡を巡っているとのこと。私たちと同じ世代の人であるように見えた。地下壕の入り口でさっそく頭をぶつけてしまったが、ヘルメットのお陰で怪我せずに済んだというか、かぶったヘルメット数センチ?背丈が伸びた分、ぶつけてしまったというべきか、ともあれ私たち4人は狭い地下壕に入った。思っていたより中外の温度差はなかった。
緩やかな傾斜の通路を少し歩くとすぐに水平となり、幅、高さとも結構な空間が現れた。車二台が行き交うことができるという。地下壕は上下側面とも切削した岩がそのままむき出しとなっているが、整然とした寸法に掘られている。ダイナマイトで硬い岩盤を崩しながらの突貫工事とは思えない。野戦で見られる粗末な塹壕ではない。行き交う見学者は皆無で、天井の片側につるされた電灯の光だけが頼りであったが、不思議に地下壕という閉塞感はなかった。薄暗い空間であったが、舗装されているわけではない通路を、難儀に感じることなく歩くことができたのは意外であった。それは単なる穴倉ではなく、空間の整然とした広さによるものであろうと思われた。
公開されている通路に直角に掘り進んだ通路がいくつかあったが、それらは金網で閉ざされていた。金網の向こう側にある一つだけの電灯で奥を照らしていたが、通路は10数メートルのところで行き止まりとなっており、ズリと呼ばれる打ち砕かれた岩石の破片が通路を覆っていた。爆砕された大小の岩石はトロッコで運び出されたという、その枕木の跡が見えた。私たちが歩いた通路は、ダイナマイトによる爆砕を除いて全て人力によるものだ。ダイナマイトを仕掛ける穿孔をうがち、爆砕し、ズリを片付け、枕木を置き、レールを敷き延ばし、トロッコにズリを積み込み、トロッコを押し運び出す。
地下壕から出て、改めて周辺の石碑や看板の説明を読んだ。つぎ込まれた労務者は7千人とも言われ、大部分を朝鮮人が占めたという。それなりの給料が支払われた者もいたが、朝鮮半島から陸軍が徴用、さらには誘拐のような形で連れてこられた者もいたという。帰り際になって、受付の傍の小さな資料館に気がついた。資料館というにはささやかな大きさであったが、説明してくれた年配の女性の熱量はかなりなものであった。「15分だけでも話を聞く時間がありますか?」問うので腰を落ち着けて聞くことにした。女性は地元の人であったが、この地下壕のことは高校時代まで知らず、地元でも忘れ去れていた、という。興味深い話をもっと知りたかったので、「松代大本営:戦争の記憶」というDVDを買い求めた。
ぜひ御座所を見るようにと熱心に勧めてくれた女性の言葉に従って御座所に向かった。松代大本営の疎開計画は天皇を引き連れての計画であったことを、初めて教えられたのである。それは資料を読めば分かることであるが、地元の人の口から聞けば印象がまるで異なる。古来日本は統治が分裂するとき、天皇を擁する側が常に正統となった。陸軍は松代大本営に天皇を戴くことで、亡国への戦争遂行に邁進する戦争指導に錦の御旗を立てようとしたとしか言いようがない。天皇が御動座の最終予定を知らされたのは敗戦間際であったという。松代から帰ってから、友人のひとりに今回の体験をメールしたところ、奇しくも彼は松代の出身で松代大本営についてのいくつかの資料を持っているという。それをすぐに送ってくれた。その資料の中に次のような記載がある。
■「本土の全戦力を一か所に集中し、連合軍と戦う。そうすれば一回は勝てる。そのために政府(軍指導部)中枢の安全が必要だった」(大本営移転計画立案者による戦後45年目の証言=読売新聞90年8月17日)。これこそが(松代大本営の)真の軍機であった。
■戦時中を通して天皇に最も近かった木戸幸一内大臣は、この点について(松代へ御動座するようなことになっては)もうおしまいで、結局洞窟の中で自殺する以外になくなってしまう。そんなことはわかりきっていた。…日本が壊滅する…際の手段としてはやむを得ぬが…(昭和史の天皇3読売新聞社)と述べている。
本土を焦土とする代償を払って連合国に一回だけでも勝つことを、最後の戦争指導方針として掲げる陸軍を突き動かしていたものは何であったのであろう。これが松代大本営跡という戦争遺跡から湧き上がってきた素朴な疑問であった。