3.11の爪痕をたずねて(1)
202321203
思うところあって家内と二人で東日本大震災の爪痕を訪ねた。たまさか新潟市で仕事があり、その機会に便乗して三陸海岸を訪ねた。限られた日数での小旅行にあれもこれも詰め込んだので、最終の旅程が決まったのは出発の前日である。新潟市での仕事を済ませ、夕刻のローカル線で新津から郡山に向かう。いよいよ三陸への旅である。郡山まで約4時間半。途中会津若松で乗り換え、郡山に到着したときは20時半を回っていた。奥羽山脈越え途中の駅のホームは雪化粧で、乗降客の足跡は不明であった。列車の発着の間隔が長いので、その間に降る雪にかき消されるのであろう。
第一章:女川にて
郡山の駅すぐのホテルに投宿し、翌日は仙台を経由してそのまま女川へ向かう。列車が女川に近づくと目に入る線路沿いの家々は全て新しい。新しいというより、新建材でもってコンパクトに建て直された家々だと思えば、女川を襲った津波から復興するときに全て取り潰され、復興した地区であることが想像できる。
女川駅の観光案内所で対応してくれた若い女性は、「そうなんです。良く気がつかれましたね」と胸にぐっと来るものがあったように見えた。20第前半の人生にとって10年は人生の半分であっても、記憶はまだ生々しい。彼女が言うには、女川は元来漁港であって、今では漁業も回復し、震災の遺構というものはほとんど残っていない、と申し訳なさそうに言葉を繋いだ。「震災の時、私は小学校6年生でした。その当時、私は津波という言葉を知りませんでした」という。
そうなのか、海から糧を得る人々の中に、津波をいう言葉を知らない子供もいたのか。それは子供たちの責任ではなく、日常生活における大人たちの伝承活動が十分ではなかったのかもしれない。近くは1896年(明治29年)の明治三陸地震の津波によって県内で4700名もの死傷者が出ているのだから。日々生きていくための漁業の忙しさに追われ続けてきたためであろうか。いやそれよりも伝承活動以前に、なぜ繰り返される災害経験の言い伝えが人々の生活に根付かなかったのか、私にはそちらの方がもっと大事なことのように思えた。伝承という改まった言葉や活動を定義するよりも、日々の生活に溶け込んだ言い伝えと習慣が、人々を謙虚にするのではないのか?
観光案内所の女性は、「女川には震災遺構がほとんど残っていないが、すぐ近くにあった鉄筋コンクリート造りの交番の残骸が津波の恐ろしさを伝える遺構であり、その他に、どうしても外部からの人びとに見てもらいたい」という、「いのちの石碑」のことを教えてくれた。震災遺構となった交番は観光案内所からすぐ目の前にあった。津波が引くときの力がどれほどにすさまじいものであるか、この中にいた人々は目の前に迫る津波にどれほどの戦慄にかられ、そしてどうなったのだろうか、朽ち果てつつある遺構はいつまで震災の記憶をとどめ得るのだろうか、そんなことを考えながら、駅の近くの高台にある町役場の駐車場にあるいのちの石碑の一つを訪れた。いのちの石碑は女川中学校の生徒たちが、1000年後までの伝承として残るようにと願って取り組んだプロジェクトであるという。
女川の駅を出ると、真っすぐに海が見える。海に続く広く舗装された道の両側は、洒落た土産物や海鮮料理の店がモダンな商店長屋になっている。一方で、人々が住む住宅や役所、公共施設は女川漁港を眼下に見下ろす高台に移築されている。この対照的な形として復興した町作りに、家内は、女川は漁業と共に生きる道を選んだのね、と漏らした。漁港に堤防がないのは、漁業や海の傍で日常を生きることを人々が優先したと思えたのであろう。石巻の門脇小学校、双葉の東日本大災害の伝承館の周囲と全く異なるものであった。広く舗装された直線状の道路は、津波の襲来時に働く人はもちろん、大勢のお客も難を確実に逃れることを考慮したものだと思えた。
交番の遺構といい、いのちの石碑といい、これらが未来永劫最後のものとなるわけではない。人の行動は流されやすく、記憶は容易に上書きされる。遺構にはそれぞれの確たる役目と寿命が与えられている。その寿命の続く限り、新たな遺構に取って代わられるまで、自然に翻弄される人間の営為のはかなさを心して生きよ、と私たちに語るものであるかのように思えた。