3.11の爪痕を訪ねて(2)

第二章:石巻市

女川を後にして石巻に向かう。石巻地区は大震災の津波が最も広範囲に襲った地域であるという。震災遺構は三陸沿岸に各所にあるが、最も広範に被害を受けた地区ということ、そして詰め込んだ日程の関係上、女川と仙台を結ぶ線上にある石巻が次の訪ねるべき候補地となった。この日はそう遅くならないうちに仙台に投宿することになっている。翌日は朝早く出立しなければならない。

石巻は私が社会人になって入社した会社の水産加工工場があったところである。仕事で何度も石巻工場を訪れたことがあるが、入社の同期生の話では、津波で工場がやられたために新たに高台に移ったという。その会社は2007年に吸収合併されたが、石巻工場が津波で被害を受けながらも、存続しているということに言いようのない安堵感と懐かしさを覚える。

石巻駅をおりてすぐにタクシーを拾う。運転手さんに震災当時の話を聴きながら、遺構として保存されている門脇小学校に向かった。知らない土地を回るには、ガイドをお願いするか、地元のタクシー運転手さんに話を聴くことが、多少のお金はかかるが一番良い。それは移動が確実、効率的であるというだけではなく、整理された情報では得られない話を聴くことができ、それだけで現地に来たかいがあると思えるのである。知識ではなく、後になっても五感を通じた何ものかとしてよみがえるのである。タクシーの運転手さんはラジオをつけたままで門脇小学校への道すがら、当時の状況を話してくれた。その時ラジオが、幼稚園のバスから降ろした幼稚園児が自宅に戻る途中、津波に襲われ死亡した事件が和解に至ったというニュースを伝えた。それを聞いた運転手さんはすぐに、「それはちょうどここのところですよ」と言った。たしかにそこら一帯は周りの地形より小高くなっており、津波で浸水したときはまるで島状に取り残されたという。園児たちは津波が来るとも知らず、そこから三々五々歩いて自宅に戻ろうとしたのであろう。

門脇小学校は海岸線から数百メートル離れたところにあり、その広い前庭は石巻南浜津波復興祈念公園となって、堤防まで見通せる空間であるが海は見えない。門脇小学校の門にタクシーが着いたとき、ふと海が見たくなった。3.11の日に荒れ狂った海はどんな表情をしているのか。運転手さんにお願いして、車を堤防のすぐ脇まで寄せてもらい、二人して堤防の階段を上がった。海は午後の陽を映してまぶしく穏やかであった。私たちには海が荒れ狂うところに遭遇し、生死を危うくしたという体験がない。台風で海が荒れたときは常に安全なところにいた。荒れ狂う海や現場はテレビ画面の中だけの情景でしかなかった。震災の現場に立ちながら、残骸はかけらもなく、整備された公園、作り直された巨大で立派な堤防の上に立ってみると、想像を絶したであろう状況を想像しようとする力が働いてこない自分に気がついた。それは震災の爪痕がこの空間に痕跡として何も残っていないためであろうか。それとも同様の体験を持たないためだろうか?そんなことを思いながら、私たちは遺構と化した門脇小学校に入った。

第三章:門脇小学校

小学校は県営の施設として、民間に運営が委託されている。中に入ると目の前に津波に押しつぶされた消防自動車が置かれている。押しつぶされたというよりまるで紙細工の模型自動車をくしゃくしゃにした、というようである。津波に呑まれて、流れと渦にもみくちゃにされ、何ものかと衝突を繰り返した末の姿に違いない。車体に描かれた、牡鹿町消防団第七分団という文字は褪せてはない。現在の牡鹿消防団は女川から突き出る牡鹿半島の先端のあたり石巻湾に面したところに位置している。津波が最も激しかったところであろう。この車は、車庫に入っているところを津波に襲われたのか、緊急事態に走り回っていたのかどちらであろう。

順路に沿って次に進むと、津波に襲われた教室、通路、職員室の内部が、当時のままに残されていた。むろん内部に入ることは出来ず、外側から金網越しにのぞき込むだけであるが、それにしても津波がすべてを蹴散らかして去って行った跡が生々しい。学校内部はおそらく当時の状態のまま手を加えないで保存すべきとされたのだ。この小学校に当時とどまっていた生徒は全員難を逃れたことが、奇跡と言われるゆえんである。

エレベータに乗って三階に上がってから、順路に沿って下って行くことにした。小学校の裏手はすぐ山というか台地の崖に近い急斜面が迫っている。生徒たちを逃すために、教壇を持ち出し校舎と斜面の間の橋渡しとしたという。階上から下を覗きこめば、小さな生徒が急斜面を這い上がるのはとても無理であろうことが分かる。命を救う窮余の一策であった。

順路の壁には子供たちの思いがパネルになって壁に並べて貼り付けてあった。その一つ一つを丁寧に読み、途中にある写真、動画を見ていくうちに、だんだんと気持ちが重くなっていく自分に気がついた。ほどなく途中家内は、気分がすぐれないと言って、一階の受付の待合スペースに戻って行った。順路の展示全てを観て、待合スペースに戻ると家内が「ずいぶんじっくりと見てきたのね」と言った。

時計はすでに4時半をまわっていた。遺構の開館時間は5時までである。門脇小学校の前にある、みやぎ東日本大震災津波伝承館はすぐそこにあったが、閉館の時間が迫っていたこととから石巻駅に向かうことにした。何より二人は重たい気持ちであった。それは、安全地帯にいて映像や新聞で知ったつもりの知識と、遺構が語り、私たちに想像を迫る現場の実相、それが例え風化しつつあるものであっても、その落差こそが生じさせたものであろう。最後の訪問地双葉町を翌日に残すのみとなった。

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