3.11の爪痕を訪ねて(3)

第4章 常磐線を走る

その日の予定は、仙台から双葉町にある東日本大震災伝承館を訪ねてから仙台に取って返し、そのまま奈良の自宅に戻ることであった。ここは東北在住の知人に勧められたところであったが、交通の便がなかなか思案する計画にはまらず、いっときは見学をあきらめようかと思っていたのである。

朝7時過ぎ、仙台駅のホームに折り返し運転のローカル列車が入って来た。乗客は思っていた以上に混んでいて、「ああ、通勤列車なんだ」と気づいた。時刻表では仙台始発であったので、閑散とした列車だとばかり思い込んでいたのだ。考えてみれば仙台という大都会に朝、働く人々が大勢向かうのは何の不思議もない。当たり前だが、小さなビックリであった。

双葉まで、途中原ノ町で乗り継ぎして約100km、2時間10分の行程である。2日前に新潟から郡山までローカル線で4時間ほどの行程をこなし、昨日は郡山~仙台~女川~石巻~仙台と移動したばかりである。2日前は夜の暗闇を走ったが、今日は快晴である。高齢の身には応えるかもしれないと思ったものの、沿線の様子を確認したいという期待が勝った。この路線を往くのは初めてであると思っていたら、家内が「この路線は常磐線なのね」と時刻表を確認して言う。40年ほど前のこと、私たちは短い期間ではあったが千葉県柏市に住んでいたことがある。常磐線の沿線都市である。水戸より先に行ったことがなかったので、常磐線が仙台まで通じているとは思っていなかった。首都圏に住んでいるという意識のために、三陸までつながっているとは思っていなかった不明を、これまた発見するという次第であった。常磐線が津波のために壊滅的な被害を受け、全線が再開通したのは震災から9年後、2020年3月であるという。道理で、鉄路は海岸からかなり距離を取ってあり、停車する各駅は新築されたものであったことに合点がいった。列車の進行右方向、海岸沿いの広い土地にほとんど建物はなかった。津波の被害から回復するために、鉄路を内陸側に移したという。鉄路が高架で直線的に敷かれているのはそのためだったのに違いない。

海岸ぞいを走っているうちに不意によみがえった記憶がある。

1990年台の8年間、私はスエーデンに本社を置く製薬会社の日本法人(子会社)に勤めていた。その会社は年に一度海外の子会社から担当者をスエーデンに集めて会議をしていた。当時でも電子メールが十分に普及していたが、一堂に会して互いに顔を合せ、直に話をすることの大事さをよく心得た会社であった。スエーデンへの出張に使う航空会社は北極回りの空路であったが、日本に帰るときは、決まって朝明るくなったときに三陸の海岸線に沿って飛んだ。海岸線に沿うといっても大部の距離があり、数十キロは離れていたであろう。建物や家屋などは見えなかったからだ。ただ、海と陸地を分ける平坦で直線的な海岸線が窓越しに見る目線と同じ高さで続くのが印象的であった。毎回その光景を見るたびに、もし津波が来ればいとも簡単に陸地に駆け上がるのだろう、と思ったものだった。今その海岸線を走っていることが、実に不思議なことと思えた。

第5章 東日本大震災・原子力災害伝承館

双葉町は津波に加えて原子力災害が加わった伝承を行っていることが女川、石巻と異なる。伝承館は大きく、海辺に面したガラス張りの壁面は円の一部をなすようなデザインの建物である。門脇小学校の時と同じようでもあるが、それ以上に堤防までの土地に建築物は何もなく、砂地に道路が走っているだけであった。福島第一原子力発電所は伝承館から3kmほど離れているがそこからは見えない。災害を受けた場所というには想像しがたいほど、あたりに人気がない。

中に入ってみると、吹き抜けを思わせる円形の空間に、ここらあたり一帯の被害をまとめた5分間の映像が映し出された。初めに、「津波の映像が含まれています」という注意が映し出された。想像を超える被害は、映像と雖もいつまでたっても心理的ダメージを呼び起こす。5分の映像の後、円形スクリーンを外側から取り巻くように作られたスロープをゆっくりと登っていく。スロープの壁には災害の様子を写したパネルが貼られてあった。スロープを登り切ると最上階から順路になる。

途中、災害の語り部のコーナーで話を聴いた。聴衆は私たち二人だけであった。語り部は当時役場に勤めており、災害対応に尽力した生き証人である。話は映像を交え、津波と原子炉事故とが複合する状況を時系列で整理されたものだった。時系列で説明することは、いかに事態が切迫したものであったかということであろう。津波の引いた後は、発生した被害の回復に集中できるが、原子炉の事故はそうではない。そのことは恐らく時間が経つにつれてその深刻度が分かって行ったのだ。被害が拡大していくのが原子力事故である。

語り部の話は、災害発生直後の退去指示と、その後に何度も繰り返される強制避難に移って行く。12年を経て未だに帰宅困難者は総数で3万8千人、うち福島県出身者が大部を占める。原子力発電の誘致は地元にとって大いなる恵みであったはずだった。誘致がなった時、人々は町を挙げて喜んだ。語り部は言う「原子力発電関連の税収でここらあたりは潤い、県下で一番裕福となった」と。それがあの日を境にして、悔やんでも悔やみきれず、耐えるに堪えがたい苦難の道を否応なく歩むことになったのだ。

帰宅困難にはいくつかの理由が同時的に存在すると語り部は言う。一つは除染が進んでいないこと、二つには、強制移住させられた人たちが落ち着いた先で生活の基盤が出来てしまっていることである。除染が進んでいなければ地元に産業誘致もできない、人も住めない。帰還したいという気持ちと帰還できる条件が同時的にそろわなければならない。語り部はさらに言葉を続ける「除染について政府には方針を明確にして欲しい」「汚染水の放出についても地元の声を尊重していない」。語り部は政府と東電に対する人々の恨みを敢えて代表して語ろうとしている。いまだに二次被害、三次被害があと何十年と進行しようとするとき、語り部は過去を語るのではなく、今を怒らなければならないのだ。話が終わった時、予定とされた40分を過ぎて小一時間ほどになっていた。

一通りの順路を巡り終えると、先を歩いていた家内が伝承館の窓を拭いているスタッフと言葉を交わしていた。スタッフは指さして「あそこの住宅は廃屋です。あそこはまだ除染が済んでいないのです」と言った。その住宅はこの伝承館からわずか100~200mほどのところであっただろうか。この地に住む一人として彼もまた、除染が進んでいないことに触れた。人は暗闇の先にかすかであっても光を見たいと思う。繰り返されるうつろな答弁と反故にされる約束、被災者の思いを金の問題にすり替えて、さらに値切ろうとする姿勢。被災者は未だに暗闇の中に留め置かれていることを飲み込みながら生きている。

奈良の自宅に戻ったのは夜10半を過ぎていた。伝承とは何か、遺構とは何か、語り部とは何かなどを帰路ずっと考えながら3泊4日の旅を無事に終えた。震災の爪痕を訪ねることができたのはわずかに2日間足らずであった。沖縄、広島、長崎などはもちろん地方の小都市、町、村落、そうした地域の犠牲と負担の上に戦後から今日まで、大都会の華やかな生活が成り立っていることを自覚した旅であった。

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以下は伝承館での震災の語り部の録音です。話者の許可を頂いています。録音状態はあまり良くありません。ボリュームを調節し、イヤホンで聞くとましになるかもしれません。

伝承館2階から海を臨む。かろうじて水平線が見える。堤防は大きくかさ上げされたのだろう。

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