3.11の爪痕を訪ねて(4)
第5章:語り部考
令和6年1月1日元旦。能登地方を襲った大地震と共に長く人々が記憶する日になるだろう。三陸を襲った東日本大震災の爪痕から戻ってちょうど一か月、私にとっては三陸への旅と共に記憶する日になるだろう。この文を認めているこの瞬間にも、未だ多くの人が安否不明、寒さに震えながらの避難を強いられている。
三陸の旅から戻って以来、語り部とは何かを考え続けていた。女川や石巻で見た遺構は何の役割を果たすのか、双葉町を訪れた伝承館のことも頭から離れなかった。女川、石巻の遺構はあまりにすさまじく、ほこりを被り、風雨に褪せてもいまなお生々しさを残している。他方で、双葉の伝承館は現代的な建物の中にいろいろな記録が整理保管されている。
新潟を出発してから仙台空港を飛び立つまでの記憶を思い出す。雪の降る中をローカル線で郡山に向かうほとんど沈黙の時間。翌日仙台駅で乗り換え女川に近づくときの沿線の家々、女川の観光案内所で言葉を交わした若い女性の一言、その近くに遺構として遺された交番、石巻で拾ったタクシーの運転手との会話、そして門脇小学校、最終日の早朝、仙台から双葉まで乗り継いだ常磐線の風景。これらが旅の記憶の太い骨格を作っている。これら太い記憶は、どれもが後の人によって整理され、提示されたものではなかった。あるものは人との会話であり、あるものは残骸であった。双葉の伝承館は整理され、加工されたものの羅列に優れていたというべきかもしれない。伝承館で心に残っているのは、除染が進まないことを打ち明けてくれた、従業員との立ち話であった。そこには国に対する不満とあきらめが募っていた。報道されることない当事者の思いである。
人の受け止め方はさまざまである。私が安全地帯にいて震災の映像を見、記録をどれだけ読むよりも、現地で遺構を見、地元の人と何気ない言葉を交わしたことがはるかに心にのこるものとなった。三陸を訪れる前は、この旅がこれほど長く気が滅入るものになるとは思ってはいなかった。
語り部は物語を語るのである。物語は数字ではなく、説明でもない。誰にでも分かりやすいように整理された事柄は記録と化して、そのものの持つ生々しさを失った残滓になる。失った生々しさとは人々が生きて、うごめいていたということであろう。残滓はそれに接する人たちの想像力を刺激することはできない。何人の犠牲者が出た、何棟の建物が潰れた、という数字ではなく、あの人が、この建物が、このように飲み込まれ、あのように壊れていった、と語る人が語り部なのだ。語り部が残骸や遺構を示しながら、物語を紡いでくれるとき、人たちは想像力を駆使して思いを馳せるだろう。数字は結果を示すだけであるが、物語は情景、状況の流れを描写し彷彿とさせるものとなる。語り部は教訓を語るのではなく、物語を語る人なのだ。