旅と縁

20240207

 

縁をえん、と読むか、えにし、と読むか、ゆかりと読むか、世間ではどう読むことが多いのだろうか?

鳥取に是非おいでください、とのお誘いを知人から受けていたことがきっかけで、鳥取県に小旅行をした。鳥取駅は私が学生時代に、広島、三次と回り、山陰本線沿って大阪まで帰ったときに、汽車が停車したところ、という以上のことはなかった。ほとんど誰もいなかった夜行列車の座席を占有して眠っていた私は、がやがやする周囲の声に目を覚まして、慌てて身を起こして座席に座り直した。広島を夜遅くに出発したので、鳥取あたりを通過するときには朝を迎え、夜行列車は通勤通学列車となっていたのだ。鳥取に旅すると決めたときに真っ先に浮かんだのは、その50年以上も前の一コマであった。

鳥取県に行くなら、カニのおいしい時期、温泉が極楽に思える季節は外せない、となると冬になる。それはいいのだが、雪は困る。雪道を軽自動車で乗り切るのは無謀ということで、思案した挙句にJRで行くこととした。知人からは、JRならスーパーはくと、と聞いていたので、行程は京都から山陰本線に入って、一直線に鳥取へ、というイメージであった。

 大阪駅からはくと3号に乗る。はくとは気動車である。そのことに違和感はなかった。山陰に行くには単線の、電化されていない鉄路を走ることは、姫新線のことを知っていたからである。とはいえ、大阪から神戸までは東海道本線であり、その先上郡までは山陽本線でいずれも電化されている。そこを気動車で往くというのはなんだか不思議な気持ちであった。

 

山陽本線が分岐する上郡から、はくとは智頭急行線に移って北に向かう。気動車の面目躍如という所か。途中停車した佐用駅で「なぜ姫新線にある佐用とここで交差するのだろう」と思った。私にとって佐用は姫新線で来るものと思い込んでいたのである。反対側のプラットフォームにある行先表示を見ると、佐用の次は播磨徳久となっている。播磨徳久をさらに行けば、懐かしい播磨新宮までわずか4駅である。それでも確かに姫新線と交わっているのだと納得するのに数分を要した。帰奈して分かったのだが、智頭急行線は、国鉄時代に立案された建設計画が赤字、民営化への動きの中で中断となり、その後紆余曲折を経て第三セクターとして完成したのが1994年12月であるという。道理で分からないはずである。智頭急行線は私が若かったころには無かったのである。山陰への鉄道ルートは、私のイメージの中には新線建設の前の京都発の山陰本線しかなかったのだ。

 

はくとの終着駅倉吉で下車するまで、私は若かりし頃に縁のあった播磨新宮と人々のことを思い出していた。

 

三朝温泉で三回朝を向えれば万病が治る、と言われていると聞いた。私はこれまで温泉湯治を目的として旅したことがない。楽しみで巡ったこともないのである。思い出すのは母親が毛糸のために、長年顔が酷いアレルギーとなってしまったが、顔を包帯ですっかりぐるぐる巻きにしてまで、編み物の先生をやっていたことである。あまりに酷い時は数日間、温泉で湯治した。家は貧乏であったから、旅費滞在費のやりくりは大変であったと思う。それでも湯治に行かねばならぬほど、母親の顔は酷かったのだ。後年父親は当時を振り返って、妻は可哀そうであった、と書き残している。

 

宿泊した旅館の大浴場に飾ってあったものの中に、作家A氏の色紙があった。その揮毫は次のようであった。

歳々年々人不同 平成十一年七月十四日 志賀直哉先生ゆかりの宿に泊して A

たちまちに思い出したことは、私が広島の中学生時代であった時の国語の時間の場面であった。その日の授業は、志賀直哉の城崎にて、の一文をノートに書きうつすことであった。その国語の先生は確か宮崎先生といい、中肉中背の穏やかな物言いの先生であった。先生は生徒の机の間をゆっくり行き来しながら、生徒の書きぶりを見て回っていたが、私の机の前で立ち止まり、ノートをのぞき込んで「いい字を書いているね」とボソッと言ってくれた。私がその場面をいまだ覚えているのは、先生に褒められるということのめったになかったからである。そのこともあったであろう、書きうつしていた部分は、なにやら昆虫が死んでいた情景だったのではないかとおぼろに思い出した。城崎にて、を改めて読み返すと、それは蜂の死骸を見つけたところであった。何気ない場面や先生の名前をこれほどまで永く記憶している自分にちょっとした驚きであった。

 A氏は私の父親と台湾の高雄で海軍士官育成の教育を受けた同期の戦友であった。私の母親とは広島市内で同郷のよしみであったと聞いていた。だから戦後すぐの母親と父親の結婚写真をA氏が見て、「あいつがあの娘さんと一緒になったのか」と周囲に言ったという。私の両親は年老いて広島にある施設にお世話になった。その施設にはA氏のお姉さんが入所されていたことは後で知ることになったのだが、お姉さんは当時で100歳をとうに超えた長寿であった。さらに因縁めいたことにお姉さんが結婚するとき、仲人を務めたのが私の母方の祖父であったという。

 

この一文に登場した人物は皆、とうに泉下に下った。まさに「歳々年々人不同」である。これまで縁らしき縁のなかった鳥取県で、唯一人の知人の縁が、故人達とのささやかな縁を思い出す旅にしてくれたのである。「袖触れ合うも他生の縁」とは生者の間のつながりや記憶というだけではなく、死者同士もまた各々に縁しを持ったまま眠っているに過ぎず、時に時空を超え、生者と交感しようとすることを言うのであろうと思った。

Previous
Previous

ねこまんま考

Next
Next

3.11の爪痕を訪ねて(4)