揖保川と思い出

コロナで、長い間踏ん切りがつかなかった播州を旅することとした。姫路から姫新線が北西に延び、途中揖保川を渡ってからは、ほぼ真北に向かう。姫路から播磨高岡、余部、太市、本竜野、東觜崎を経て播磨新宮に着く。今では気動車で約三〇分の短い行程である。鉄路はさらに播磨新宮から大きく西にそれ、佐用、津山を経て岡山の新見に至る。姫新線は未だ電化されておらず、しかも単線である。長い間姫新線には蒸気機関車が走っていた。私は蒸気機関車が好きで、そのこともあって高校時代にはよく一人で大阪から新宮町に遊びに行った。蒸気機関車はゆっくりとトンネルを抜けるので、車内には黒煙のにおいと煤が充満した。今と違って客車のデッキは開放で、トンネルに入ると乗客自身が車窓の開け閉めをしていた。だから黒煙のにおいは揖保川の記憶と結びついている。播州平野に稲穂が実る時は、一層郷愁に誘われたが、地元に人にとっては電化が待ち遠しい時代であったに違いない。不便な土地にあこがれを感じるのは、決まって都会からのよそ者なのだ。

新宮は、ほとんどよそ者である私にとって、懐かしい土地である。私は家庭の諸事情で、中学二年生から以降ずっとこれまで、親兄弟と一緒の生活はほとんどなかった。高校を卒業するまで、親戚に預けられていた。大学では下宿生活であった。多感で不安定な時期にあって、新宮の親戚は突然に訪ねても、何の詮索をすることなく受け入れてくれたのである。

その町を久しぶりに訪れたのは、私を可愛がってくれた親戚が相次いで亡くなった跡形を確かめたかったのだ。新宮は、今はたつの市となっているが、以前は揖保郡新宮町で、隣接する龍野市その他の町と合併してたつの市になった。ひらがなの名前が付けられて違和感を覚えるが、龍野と書けば三木露風の赤トンボの石碑を思い出す。

 

新宮町は揖保川の思い出と結びついている。揖保川にまつわる記憶をたどることは、故郷らしきものがない私にとって、古里の親しかった人々を思い出すことである。

私が姫路で生まれて間もないころ、半年か一年ほど新宮町に移り住んだと聞かされていた。もちろんその記憶はない。新宮町には親の代の親戚が住んでおり、私の両親が神戸に移り住んでからも、小学校に上がる前から連れられて新宮町に遊びに行っていた。私の母方の祖母の妹が戦後中国から引き揚げて、揖保川の東岸に入植し、猫の額ほどの土地を開墾して住み着いたと聞いていた。もともと一族は新宮をルーツとしていたのかもしれない。

私の祖母は広島の原爆で亡くなっていたために、祖母の妹のことを、私の両親は新宮のばあさんと呼んでいた。ばあさんは気丈な人で、戦前は中国の大連で商売を大きく営んでいた遣り手であった。戦時中、零戦を何機だか日本海軍に寄付したという話をばあさんから聞いたが、本当かどうか今となっては分からない。ばあさん一家が戦後まもなく拓いた土地は、揖保川の川べりまで東側から山が迫っているところである。このあたりの揖保川こそ幼い時から今に至るまで、新宮町を思い出すときの原風景である。

 

揖保川は、昔は水量豊かであった。過去に何度か大きな氾濫があり、暴れ川と言ってよい。播州平野をほぼ南北に貫く七十キロの一級河川である。私が高校時代までばあさんの家にたどり着くには、播磨新宮駅から十分ほど東に歩き、出雲街道に沿う揖保川の西岸に出ると、堤防の上に立って対岸に向い、大声で「お~い、お~い」と何度も叫ぶ。すると対岸のばあさんの家人が川に棹さしながら、小舟で迎えに来る。その川幅は、私が野球をやっていた高校時代、手ごろな小石を川べりから思い切り投げても、やっと対岸に届くかどうかであった。おそらく百メートルはあった。昼間でも大声を出してその声が届いたということは、辺りがずいぶん静寂であったのだ。

川に水量豊かであった時代、ばあさんの家の付近の揖保川には、水遊びに格好の淀みがあった。今ではダムが出来たために川が情けないほど無粋に干上がってしまったが、ダムが出来る前は、近くに三ツ石と呼ばれる大きな岩が水面から数十センチほど頭を出していて、泳ぎ疲れるとその石にしがみついて休んだものであった。子どもの足が立たないほどの深みであった。十年ほどまえに行ったとき、その石は完全に姿を現していた。はるか昔に大水害で上流から運ばれたか、山崎断層が揺らぎ、裏山のてっぺんから転がり落ちたかであろう。

揖保川ではアユが捕れる。時期になると、アユ料理を食べさせる数隻の屋形船が、ゆったりと浮かぶ、静けさに満ちた川面であった。今では水量が減って川石に水流が砕けるところでは、波立って川は騒がしい。陽が落ち夜になると、船中のろうそくの頼りない灯が屋形船の影を浮かび上がらせた。それだけあたりは暗かったのだ。

ばあさんの連れ合いであるじいさんには、ほとんど記憶はない。ばあさんの迫力、存在感が圧倒的だったのと、戦後の引き上げの苦労からか、ばあさんより早くに亡くなったためである。温厚な性格と柔和な顔立ちであったと、わずかに記憶している。そのじいさんが不治の病に臥せったとき、私たち一家はじいさんを見舞いに行った。当時の医療は国民皆保険制度ではなく、その上片田舎であったので、不治の病にかかったと分かれば、自宅で最期を看取るのが普通であった。私にはじいさんが臥せっていた部屋に入った記憶がない。多分私と弟は外で遊んでいるように言われたのだと思う。その日の記憶は、まだ小学校入る前の弟が、岸につないであった渡し船に一人乗り込み、あろうことか小船の友綱を解いてしまって、舟ごと流れて行ったことである。結局、船は下流の岸に引っかかっていたのを発見されて、無事に連れ戻されたが親、親戚一同は肝を冷やしたと後に何度も聞いた。その唯一人の弟は若くして異国の地で自死してしまった。

 ばあさんの家は土間のあるかやぶきの一軒家であった。天井からネズミをくわえた青大将が部屋の中に落ちてきたこともあった。周囲には一軒の家もなく、夜は真っ暗になった。農家のようでもあるが、まともな田畑があるわけではない、開墾した小さな畑に頼るほとんど自給自足の生計であったのだろう。

かまどにまきをくべて炊く麦飯は格別であった。お釜の木の蓋がぶ厚くて重かったのは、少しでもお釜の中の圧力を高めるため、と知ったのはずいぶん後のことである。ヤギを飼っていて、その乳は鶏の卵と共に貴重なたんぱく源であった。ヤギは気が荒く、後ろ足を木に括りつけて乳しぼりをした。時にはヤギの乳をお茶代わりに麦飯にぶっかけてかき込む、というような食事であった。家の前には井戸があった。夏にはスイカを丸ごと冷やし、大きなやかんにかち割り氷と井戸水を入れた砂糖水を涼とした。家の周りに柿の木が数本あって、柿の実を堪能したのはむろん、五月頃、陽の光が柿の葉を通して放つ初々しい緑は目に焼き付いている。柿の実に曰く言い難い感傷を持つのは、この時代、柿の木に登る悪戯のお陰であった。ばあさんとは何度か一緒に五右衛門風呂に入ったことがある。五右衛門風呂は下駄をはいて入るか、浮き板を足で押し込みながら鉄釜に膚が触れないようにする。ばあさんの垂れ切った乳を引っ張っては怒られ、醤油樽の木栓を、これはなんぞ?と引き抜いたら、吹き出した醤油を顔面に浴びて、大目玉を食らったこともある。悪戯は日常茶飯事であった。餓鬼っ子にとって故郷とは、幼い時期に存分悪戯ができた土地なのだ。

ばあさん一家は子供たちが自立して、なにがしかの生活費を入れるようになるまで、現金収入はほとんどなかったと思う。その中でばあさん一家はウズラを飼い、その卵を売りに出して現金収入を図っていた時期があった。ウズラの卵が茶わん蒸しに入っていると、必ず新宮を思い出すのは、味覚もまた記憶となるからである。裏手の山は、昔はまつたけがよく取れたという。ばあさんたちの息子たちが、まつたけをかご一杯山から持ち帰った記憶がある。

 

ばあさんは四男二女に恵まれた。しかし、うち一人の娘は結婚して一女をもうけて後、若くして夫婦とも相次いで中国で亡くなってしまった。私の母とは従姉妹で後年、思い出の一文を残している。ばあさんはその娘を引き取って育てていた。えみちゃんといい、母の一文によれば優しい顔立ちはお母さん譲りだという。私より二つばかり年上で、私にはおっとりと姉のように接してくれた。

息子たちの一人である聖二さんのお嫁さんは、津山から嫁いできた。さゑさんといい、美容師の資格を活かして、すぐに美容院を始めた。戦後間もない時で、田舎町であったから繁盛したが、看板は掲げても美容室はなく、ばあさんの家の前の庭先に、椅子と洗髪のための洗面器や金たらいを用意しただけの青空営業であったという。お客さんには相変わらず、対岸から大声を出してもらい、小舟で送り迎えするという有様であった。しかし仕事ぶりはてきぱきとして、ばあさんのように商売上手であった。後年、お客が川を渡らなくてもよいように、揖保川の西岸に立派な美容院兼結婚衣装を貸出す店を構えるまでになった。さゑさんは文学の才があり、忙しい合間に短歌に親しんだ。それだけではなく、美容院が軌道に乗ると、見習いの若い女子を何人も美容院に住まわせて、仕事を覚えさせ、美容師の資格を取らせては独立を促した。ばあさんの商売の才覚を受け継いだような人であったが、血のつながっていない私を、さとるちゃんと呼んで、たいそう可愛がってくれた。

さゑさんのつれあいである聖二さんは母方の血筋で、亡くなった私の母と一つ違いの従弟であった。私の母を玲ちゃんと呼び、中国は大連での生活をいつも昨日のことのように話してくれた。その話には若い時の私の母親だけでなく、私のじいさんのことも中国での日常もよく登場した。聖二さんは地元にある会社を勤め上げた実直で人懐こく、純朴な人柄であった。聖二さんは新宮町をこよなく愛していた。近くの山あいの平坦な土地を新宮町の公園にするのだと、小型のブルドーザーを買い、自ら運転して整地し、花木を植えた。そういうお金はさゑさんの理解とお財布がなければ叶わなかったであろうが、なにより夫婦の合同事業であったのだろう。新宮町からもらった感謝状を見せてくれたのは、二人の町への恩返しが認められたという、純な嬉しさからであったと思う。

 

新宮を訪ねなければ、という思いが募り始めたのは、さゑさんが数年前に亡くなってしまったことがきっかけであった。そのことを遠縁から知らされたのは、さゑさんが亡くなってしばらくしてからであったが、コロナで規制と自粛が強まった時で、弔問はもちろん墓参りにも行くことができなかった。さゑさんが亡くなった後、年老いた聖二さんは、市の公的な老人ホームに、これまた連れ合いに先立たれた妹ののぶ子さんと一緒に入居した。コロナがいっとき収まりを見せたときにその施設を訪ねたが、面会制限のために顔を見ることもかなわなかった。そうこうしているうちに、聖二さんも、近くに住んでいた聖数さんの兄の孝一さんも亡くなったと、訃報を相次いで聞くこととなった。いつまでもあると思っていた古里とのつながりが、気がつけばほとんどなくなりつつあった。急がねばならないと思った。

 

ばあさん一家が開拓した小さな土地は少しずつ広がっていたが、町が国民宿舎を建設するということで、裏手の土地の一部を買い取ったと聞いている。その国民宿舎は昭和三十八年に建設された。いっときは日本で一番の規模と言われたと記憶している。その国民宿舎に今回一泊した。車中泊かキャンプも考えただが、ずいぶん前に私の両親家族で宿泊したときの記憶と比較してみたかったのである。

山陽自動車道を降りて出雲街道を車で北上し、新宮に向かう途中、揖保川沿いに建つ老人ホームに立ち寄った。そこはさゑさんに先立たれた聖二さんが、妹ののぶ子さんと一緒に入居していたところである。聖二さんが亡くなった後、九十歳を超えて一人入居しているのぶ子さんにもう一度会おうと思い立った。飛び込みで施設に立ち寄ったら、コロナ制限は緩和されていて、部屋の中で面談できたのは幸いであった。数十年ぶりの再会に、私の顔は覚えていないと何度も言うが、その都度、私の名前は覚えているよ、と繰り返す。小ぎれいに整理された机の上に聖書、讃美歌と卓上キーボードが置いてあった。話が弾んで所望すると、讃美歌を開き、いつくしみ深き三百十二番と、聖しこの夜の二曲を弾いてくれた。「入居者から、ピアノを弾くのは珍しがられるのよ」と可愛く笑う。もとより穏やかな性格の人であった。認知症が入っていると人から聞いていたが、それは苦労多き人生に対する神の恵みと思えた。人生の晩年を穏やかに過ごせるのは幸せである。それを認知症という、無味乾燥な言葉で片付けることはどうであろう。

 

目当ての国民宿舎は当初からの本館に加え、別館、新館と建て増しされていたが、その日の客は私を含めて三組であった。広すぎる食堂で夕食の席を用意してくれた配膳係の女性に尋ねると、「土日などは結構お客さんがいらっしゃいますよ。今は県民割もありますから」とのことであった。配膳係の女性は姫路市内から通いとのことであった。夕陽が山の端に隠れ、対岸の町並みと揖保川が翳ってほどなく、新宮駅に向かう下り列車が見えた。昔は新宮と姫路の間は通勤圏内だと考えたことはなかった、とふと思った。

翌朝早くに、国民宿舎の周りを歩いた。あたり一帯見覚えのある風景であった。聖二さん、さゑさんと揖保川沿いを歩いた日はいつだったか。揖保川水系にダムが出来て以来、川底の石が見えるほど平時の水量が細っていたが、それは今回も同じであった。子どものころ何メートルもの高さと思った三ツ石は、思っていたよりも低く見えた。記憶は、己の身体感覚を抜きには刻まれないものと思い知る。国民宿舎を真ん中に挟んで上流約百メートル、下流約二百メートルの二か所に橋が架かっているので、今は渡し小舟などのあるはずもない。西側の堤防の内側には、十数メートル幅の河原が背丈の低い雑草に覆われていた。水位が定常的に低下したたことで出来た河原なのだろう。

国民宿舎のすぐ裏手に迫るまつたけの採れた裏山一帯は、公園となって整備されていた。ばあさんは熱心を通り越した熱烈なキリスト教徒で、開拓した土地の一部を教会建設のために寄付したと聞いていた。その教会は今でも国民宿舎の前に健在で、ばあさんの志と信仰を引き継いでいるように思われた。教会の小さな庭の片隅には、小さなバラが植えられていた。「一九七二年にアンネの父オットー・フランク氏より聖イエス会に送られてきた形見のバラを株分けしたもの」、と案内板に書かれていた。異国の記憶を世界のこんな片隅まで運ぶ使者としてやってきたのだ。

ばあさんのかやぶき屋根の家はとうの昔になくなった。その後に建てたかわらぶきの家が空き家のまま今も残っていて、その隣に住むばあさんの孫の一家が管理していた。孝一さんは百歳で去年のうちに亡くなっていたが、その息子の慎さんがマスク顔の私を見るなり、さとるちゃん?と声をかけてきた。何十年かが巻き戻された一瞬であった。慎さんは、ばあさん一族のお墓に案内してくれた。望外のことであった。新宮のじいさん、ばあさんそして息子娘六人は、先の一女を残して全て泉下に旅立ってしまった。長命を全うした人も、不幸な死を遂げた人もいたが、ばあさん一族が戦前、戦中、戦後、そして中国大陸と日本の両方に生きた軌跡はどのようなものであったか。

 

記憶は風土の情景と、人とつながった経験と共にある。それらは絡み合い、身体に刻み込まれているが、歳月と共に風景は変わり、人も亡くなる。故人につながる断片化していた記憶はつながりを始め、あるいは埋もれていた記憶の破片が這い出てくる。消し難いたい痛みと後悔の念もまた生きてきたことの証と思いたい。誰しも隠し戸棚に押し込んだ骸骨を持っている。鋭角であった記憶の細部はしだいに丸みを帯び、おぼろな思い出となるが、却って募る。記憶が思い出となるには歳月による風化が必要なのだろう。新宮に別れを告げて、車を次の目的地に走らせながら、古里とは、記憶とは、そして思い出とは何かを改めて自問する旅となったことを思った。

(注)登場人物は全て仮名である。

 

Previous
Previous

逃げるは恥だが役に立つのか

Next
Next

ナーズム・オラトリオ 朗読の力を観る、聴く