魚を捕る方法を学ぶ

ある日のこと、夜間中学の授業が始まろうという、生徒さんたちが三々五々集まり始めたとき、久しぶりに生徒のフランス人のFさんの顔があった。彼をサポートしていたスタッフは一か月ぐらい前に辞めたので彼もしばらく姿を見せなかったのだ。思いがけなくその日は手の空いていた私がお相手をすることになった。彼は以前のスタッフとかなり流暢な日本語を話し、受け答えをすることができる生徒さんであったので、どういう動機で夜間中学に来るようになったのか、ということから話を始めた。

彼は飲食関係の会社で仕事をしているのだが、雇用契約書やオファーなどを含む日本語ビジネス文書を読み、あるいは作成することができるようになりたい、という。それも単に文書を理解できるだけでなく、例えば契約書のどのあたりの部分があいまいであるか(彼はそれを「胡散臭い部分」と言い直した)、を指摘するだけの力量を目指しているという。それには漢字の理解が必須であると思って夜中に来たが、彼にとって今の夜中のサポートは少なからずフラストレーションを感じるものであることが、言葉の端々に感じられた。彼のはっきりした目的に沿った日本語ではなく、どちらかと言えば夜中のサポートが日本語検定をパスするための、幅広い一般的な日本語学習に傾いていることがその理由なのだ(もっともそれは雇用主が求める要求であるからであるのだが)。

彼は日常的に日本語で話すこと、聞くことにほぼ不自由がないため、読み書きに困難が生じると、それを一つずつ会得しようとするより、彼にとって楽なところに逃避してしまう、つまり直接日本人の誰かと話をする中で、なんとなくその意味するところを感じ取ってしまうことで済ませてしまうのである。彼はその処世が安易であり、それを誰かにはっきりと指摘される必要があると自覚して、夜中にそのことを期待しているのだという。

こんな話を聞きながら、私自身が30歳半ばで日本企業から外資系に転職した経験を話した。40年前、転職はまだ白い目で見られていた時代である。東京で買った家をわずか1年で手放して関西に移住し、食品業界から医薬品業界へと転職することは人生の大きなかけであった。しかも外資系であるから英語の力は必須である。しかし、大学受験のために勉強した英語は20年近くお蔵入りしていた。私は二つのことに絞った。一つは自分がこれから生きていこうとする専門領域の言葉(日本語、英語とも)を優先して習得すること、二つ目にはNHKのラジオ講座の続基礎英語からやり直すことであった。Fさんは、私のこうした経験を話すると、フランスでは「貧しい人に魚を差し出すのではなく、魚を捕る方法を教える」という諺があると話してくれた。つまり生きる術を学ぶことが最も重要なことであると。

今の夜中には外国人技能労働者の生徒さんが増え続けている。彼らは来日するために莫大な費用が必要である。彼らは多額の借金をすることで、後にはたやすく後戻りできない状況にある。私は自分の転職の経験に重ねてそれを、「背水の陣」というと、Fさんはフランスの表現では「壁を背にする」と教えてくれた。外国からの技能労働者はとてつもなく大きな「壁を背にして」日本で生き延びようとしているのだが、私たちはそれがどれほどのものか想像できていないかもしれない。日本が求める技能の職種はさらに多種多様になりつつある。それらに個別に応える可能性を持つのは自主夜中の強みであろう。彼らが生きていくための学習を優先することは、これからの夜中の課題になるのだろうと、Fさんから教えられた。

彼の話には続きがある。日本語を良く習得することで、他人(日本人、とりわけ彼の奥様や仕事仲間)への依存を減らすことができ、その分多くの自己責任を持つことができる、そのための出発点として漢字交じりの日本語を学びたいという。学ぶことの動機の持つ意味を考えさせられる機会であった。

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