決戦思想と国体護持

長野県松代町にある幻の大本営跡を訪れる機会があった。幻と言われるのは戦時機関として対連合国戦争(第二次大戦)においては東京に設置された。しかし戦況の悪化によって松代への移転が計画され、実現途中で未完に終わったからである。壮大ではあるが日本軍の狂ったあがきの証ではある。移転ではなく大本営の疎開、とも揶揄された。この壮大な計画は松代町にある皆神山、象山、舞鶴山の三山に地下壕を張り巡らし、大本営、政府諸機関、そして天皇を移して本土決戦の砦とするものであった。地下壕建設は計画80%近くまで進捗したところで敗戦となった。この大計画では三山合計で13,096m及ぶ。政府機関がそっくり入るとされた象山の地下壕だけをとってみても、本坑は高さ2~2.7m、幅4mで総面積23,404平方m、後楽園球場の2倍以上の広さである。三山全体を見渡せば地下壕というにはあまりにかけ離れた規模である。それらは地下都市と呼ぶべきものであり、同時に首都移転構想に等しかった。掘り出した岩石の総量は144,400立方m、東京駅前の丸ビルの約半分の量に上る。掘り出した岩石量や坑道の長さでは実感が湧かないだろう。移転する人員の詳細計画までは決まっていなかったが、大本営を始めとして、参謀本部、政府諸官庁、NHKさらに皇居と近衛師団、そしてその家族となると数万人規模という無謀なものであった。大本営が松代に移る計画が実行に移されたのは、軍部が本土決戦という妄想に憑りつかれていたとしか言いようがない。

事実は無数の人と出来事が絡み合って動き、現れる。単純化することはこの上なく危険な罠であるが、物事の本質もまたそぎ落としたところに現れると承知する。このエッセイは敗戦直後に生まれた者が、戦争遺跡を目の当たりにして、戦争の愚かさの一端に迫りたいと思案した短文に過ぎない。

明治以降、大日本帝国は大規模な近代戦争として日清、日露戦争を経験してきた。日清戦争は5つの陸上戦闘と黄海海戦という軍隊同士が会敵して戦争の行く末が決まった。日露戦争ではバルチック艦隊と聯合艦隊が激突した日本海海戦の大勝利が、薄氷ではあっても日本に勝利を呼び込んだ。第一大戦後の軍縮会議において、日本は米国を仮想敵国とした艦隊決戦の思想の下で建艦計画が策定されていた。しかし欧州では第一次世界大戦は会敵による決戦というより、前例のない消耗戦にいかに耐え抜くかという総力戦が繰り広げられた。大日本帝国は今日でいう継戦能力を国家防衛の根幹とするべき教訓を、第一次世界大戦から真の意味で学ばなかったのであろう。それは兵站という軍隊機能にも端的に現れているがここでは詳しくは触れない。二つの近代戦争の勝利によって日本は決戦思想の呪縛に嵌ったのだ。

大本営移転とそれに続く本土決戦を構想するという戦争指導のおぞましさは決戦思想の極みというべきものであった。本土決戦は陸軍の構想であった。したがって大本営の松代移転計画と実行も陸軍によってなされた。戦争は始めるより、終結させることの方が格段に難事である。米国との開戦に当たって、山本五十六が天皇の御前で「半年やそこらは暴れまわってみせます」と言い、講和に持ち込む緻密な戦略を欠いたまま海軍が開戦の主役を担った。米国との戦場は太平洋である。海軍が主役であることは当然であった。

戦争末期に向かって陸軍が巡らした策略は、国体を護持することを条件とした降伏もしくは講和を結ぶために、本土決戦で連合軍に打撃を与えるというものであった。本土決戦は陸戦である。松代に大本営を移転させ、本土を焦土とする企てには陸軍が主導でなければできないことであった。開戦時と異なることは、陸軍が政府はおろか天皇、海軍にも極秘で計画を策定したことであった。国体護持は対連合国戦争の究極の目的となったといえよう。

本来、国体とは字義通り国家の形態や体面を意味したが、幕末の対外危機をきっかけに水戸学が日本独自の国柄という意味で国体概念を打ち立て、一つの思想として独立したとされる。国体論は帝国憲法と教育勅語により制度面と思想面の両面において枠組みが定まった。帝国憲法は次のように定める。大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第一条)、皇位は皇男子孫が継承し(第二条)、天皇は神にして侵すべからず(第三条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第四条)。すなわち天皇とその歴史的系譜は大日本帝国の国家秩序と統治を体現するものとして歴史上はじめて統一国家の法制の中に取り込まれたのである。これに対して、教育勅語は社会思想の統一化を、教育を通じて行おうとするものであった。勅語の大部分は勉学の奨励、憲法、法律の遵守、家庭、友人との友愛などを説いているが、「万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるい、一身を捧げて皇室国家の為につくせ」という一文が挟み込まれている。勅語の真の目的は「皇室国家のために尽くす」人材を育成することであったと言えよう。明治政府は全ての国民に義務教育を与えることとした。幼少の時から教育勅語を叩きこむことは思想の統一化に極めて大きな力をもったに違いない。

このように整理しながらも、未だ国体という言葉にはつかみ切れないところが残っている。それは思想であったのか、概念であったのか、ということである。私の疑問は、「国体護持」そのものに、本土決戦に向けて戦争指導を行い、降伏もしくは講和においても絶対に譲れないものとする価値、言い換えれば日本国の全てを賭けさせる魔力があったのか、という一点である。

皇統について考えてみる。

皇統を正当化するものは三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あまものむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)である。天皇の践祚に際して、この八尺瓊勾玉と鏡と剣の形代(カタシロ:模造品もしくはレプリカではなく神器に準ずるもの)が継承される。実物は天皇でさえ実見を許されないので、現存は確認できない。誰も見たことがなく、言い伝えのみで継承される存在や営為は自ずと神秘性を帯びる。帝国憲法は、天皇は神にして侵すべからずと定めるが、神秘性が自ずと備わるわけではない。三種の神器に護られた天皇の言葉に対して、臣が「恐懼」するのは神秘性という得体のしれないものにひれ伏している。国の指導者層は「国体」という言葉の底に天皇と天皇制に対する恐懼するべき神秘性を見よう、否、見たいとしたのではなかったか。近代国家となるべく西欧諸国の最後尾に付けようとした日本は、国体が神秘に満ちた他国のそれとは異なる独自のものである必要があった。それは国民に特異な心理的エネルギーを供給し続けた源泉であった。皇統は神話に包まれている。皇統を憲法に取り込んだことはそれを可能にするものであった。

 

昭和天皇の人間宣言は天皇制の神格を否定するために出された詔勅であったが、占領下にあって民主主義国家として再出発するためには、神格否定のみならず神秘性をも剥がねばならなかった。昭和天皇の人間宣言は1946年1月1日に発表された。その中心部分は以下の通りである。

「朕は、今や非常時局下に於ける臨時的措置として行われたる諸政策が一般国民の間に誤解を生じさせたることを深く憂慮する。すなわち、天皇が神格化されていたかの如き誤解である。天皇は神ではなく人間であり、日本国民総体の象徴であり且つ日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は帝国憲法に依りて定められたものである。」

国体論は政府、軍部、知識人、学者、マスコミ、宗教団体、右翼団体など、支配階級あるいは社会に影響力を持ちうる階層の中で変化、変遷してきた。それは帝国たらんとするための思想の作為であったが、結局のところ机上の遊びでしかなかった。支配される側には無縁のものであった。支配される側の言葉は「お国のため」であった。しかしそれは強要された自己犠牲を自らのものとして納得させるものであった。開戦の詔勅は他国からの干渉に対する「自存自衛の為」を大義名分とした。敗戦必至になって「自存自衛」は「国体護持」にとって代わった。支配階級にとって「国体護持」とは国民の命と引き換えにしてよい自己保身そのものと化していた。こうも言えよう。軍部の唱える国体とは軍部が造り上げてきた自己そのものであった、と。本土決戦のための大本営松代移転は支配階級が滅びること必至の中での自己陶酔でしかなかった。彼らは敗戦必至を半ば自覚していても、自己陶酔という自覚とは無縁であった。

昭和天皇にとって国体とは何であったか。

ポツダム宣言を受けて天皇は木戸内大臣に次のように語った。たとい連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意志によって決めてもらっても少しも差し支えない。

御前会議では重臣を前にして降伏を説得した。

国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があることは一応もっともでだが、私はそう疑いたくない。要はわが国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れをよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。

更に玉音放送では国民に「国体を護持しえた」と呼びかけた。

朕は茲(ここ)に国体を護持しえて、忠良なる爾(なんじ)臣民に信倚(しんい=頼りにする)し、常に爾臣民と共に在り。

これらをつなぐ文脈は明白である、昭和天皇の国体観は軍部や支配階級のそれとはまったく異なっている。軍部は無条件降伏が国体を喪失させるものと捉えたが、昭和天皇にとっては国のありようを亡国の瀬戸際で護る最後の機会と捉えたであろう。「国体を護持しえた」との文言を入れたのは、無条件降伏と国体護持を巡る抵抗勢力に対して天皇が思う所を明確にするためであったと思われる。対連合国開戦も松代への御動座も不本意であった昭和天皇の最後の戦争指導であった。松代移転の完了予定日は奇しくも敗戦の日となった1945年8月15日であった。

結局のところ、国体とは思想でも概念でもなく、軍部の作り上げてきた戦時体制であり、戦争指導層の自己そのものであった。無条件降伏は自己否定に繋がる。それゆえに陸軍は「国体護持」に狂気となった。松代大本営は、時代遅れの決戦思想と国体護持という自己保身を大義とした奇怪なるものの集大成であったが、狂気に憑りつかれた軍部には至極まっとうな計画であった。

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