エッセイと評伝
大阪文學学校に2年間在学したことがある。クラスはエッセイ・ノンフィクションであった。その2年間で何度も話題に上っていたのが、エッセイとはなんだ、ということであった。ある人は、エッセイは何でもあり、という主張であったし、別の人はようわからん(もの)、という。かくいう私もあまりはっきりと答えられなかった。エッセイと評伝の関係について考えてみようと思ったのは、文學学校仲間のMさんが、地元の作家について書いた評伝が、文學学校応募作品として佳作を受賞し、その文章を送ってくれたからである。応募作品のジャンルはエッセイ・ノンフィクションであった。Mさんが評伝に挑戦していたことは、私が在学中からであったと記憶しているが、評伝がエッセイ・ノンフィクションのジャンルに含まれているとはっきり認識したのは今回である。
さて、さて。新聞にはエッセイというものの文章が結構沢山載っている。おそらくエッセイなるものが掲載されない日はない。題材も多種多様、多彩であるから、エッセイは何でもあり、という定義?もそれなりに説得力がある。半年ほど前に、エッセイは3通りあるという記事(それ自体がエッセイ?)を見つけた。そのうちはっきりと覚えている二つはこんなものである。一つは「あるある」エッセイ。その心は、そういうことってよくあるんだよね、と読者の共感を引き出すものである。細かい観察が必要である、二つ目は「なるほど」エッセイ。書き手の引き出しの多さで勝負するタイプで、読者が普段は深く考えていないような、ちょっとした物事の道理、持論を説くものである。三つめは忘れてしまったが、物事、感傷を描写するものではなかったかと思う。古くは「春はあけぼの」はその典型であろうし、徒然草もそうであろう。いわゆる随筆である。今日、いずれの3つも軽い文章で肩が凝らない。日々読み過ごす文章として格好である。
ところで、エッセイについて手元の英語イメージ事典(三省堂)に当たってみると、「Essay試論」という小見出しがついており、「測る」という意味のラテン語から、動詞のEssayは「試みる、試す」、とある。16世紀に出版されたモンテーニュの著書『エセー』(Essais:随想録)以後、「試論」の意味合いが強くなったという。随想録を読まずしてエッセイを語ることなかれ、と言われそうであるが、ここでは「試論」という本来の意味に焦点を当ててみたい。それは日本文学に特徴的な随筆という語ではなく、エッセイというカタカナ語を使っているからである。
「試」とは、何を試すか、何を試みるか、という素朴な疑問がある。他方、論とは「論を張る」という意味である。難くなるが、学位論文の論であり、研究論文の論である。こうした論文、それがいわゆる理系であれ、文系であれ、を端的に言えば、己の持つ疑問について、こういうことが言えるのではないか、という仮説を立て、その仮説が正しい、あるいは妥当であることを、筋道を立てて論じていくのである。つまり試すものは己の疑問に対する自分なりの仮説(当面の答え)である。その論じる過程を文章に書き著したものが論文となるのである。「我思う、ゆえに我あり」とは、デカルトがこれ以上ない簡潔さで、自問自答を表現した言葉ではないかと思う。
評伝について考えてみる。Mさんが書いた評伝を読んで、まず思ったことはMさんの(評伝の対象とした人物への)思い入れは何であったか、ということであった。評伝は人について書くのであるから、なぜその人のことを書くのか、という自問が必要であり、自答しなければならない。もちろん自問が最初に来て、自答が続くのであるが、「自問自答」とセットで仮説が出来るとは限らない。書き進める間に自答が変化、展開し続けることは稀ではない。時に自問ですらそうである。書き手は自答が出来たと思うところでようやく筆を置くのである。このことは評伝に限らない。一つの作品で自答が収め切れないときに、「続編」とか「三部作」が生まれる。とは言え、優れた作品ほど、最初の自問の如何に拠っている。
自問自答は知的格闘であり、体力勝負、根気を必要とする作業である。なぜか?これこそ自答が出来たと思って読み返すと、それは青い鳥ならぬ黒い鳥で、落胆することは常であるからである。アカデミアの世界で、Writing is rewriting, rewriting and rewriting.という表現がある。「論文を書くことは何度も何度も書き直しすることである」ということである。書くことで何かを発見し、整理し、積み上げていく。そのように考えると、評伝を書くことは他者が人物の魅力を発見し、人となりを描くこという作業であり、その作品であるという理解に到る。筆を運ぶ技術だけでは決して書けない何ものかがある。それを見つけて向き合う作業は格闘とならざるを得ない。もし、評伝された人物がその評伝を読んだとすれば、納得するであろうか、自分の知らない自分に説得されるであろうか?人となりの評価はそれほどの難事であると思う。
現代は軽く、心地よいものが選ばれる時代である。知的格闘を要する文章、作品はその対極にある。評伝とは、本来の意味でのエッセイに最も近いところにあるジャンルの一つではないかと思うのである。