「コミュニケーション」と言語の性格

日本語にはCommunicationに相当する言葉がないと常々思って来た。漢語から敢えて引っ張ってくると「意思疎通」ぐらいか。相当する言葉がないから、カタカナ語でそのままコミュニケーションと書いて日本語に取り込まざるを得なかったとしか思えない。Communicationの語源はラテン語のcommunis(共有する)だという。共有するという意味からcommunity(共同社会)も派生している。では何を共有するのか?現代社会では効率、効果という物差しが優先するのでこれらの二つの指標の改善に寄与する「情報」の共有は不可欠となっている。情報の欠落は即、コミュニケーションに不備があるとされる。

「情報」にまつわる言葉は「事実」「要約(要旨、論旨)」「分析」「判断」「意思決定」などであろう。Informed consentは十分な医学的情報を受けたうえで患者が治療法の選択を「意思決定」するのである。このような思考スタイルがコミュニケーションと考えて大きな間違いはない。それは典型的な現代の西欧ビジネス言語のありようを反映している。

 冒頭に日本語には相当する言葉がない、と書いたが昔の日本人はコミュニケーションに相当する行為はなかったのだろうか?おそらくそうではないだろう。人が生きていく上で他者との関係を創り維持するための行為は不可欠であるからである。人間関係と言えば日本語は尊敬語、謙譲語、丁寧語などで人称を明示しなくとも誰が誰に向かって話しているかがおのずと分かる言語である。それゆえに意味するところは多義性や思わせぶりに富むようになる。語調は基本的に柔らかい(上品だとか粗野だということではない)。日本語は文字を持たず、口語のみの言語であった。第三者的な事実を理解し合うための言語であるより、直接相対する相手との関係性を重視してきた言語であるように思われる。そのことは歌に現れている。上から下まで、相手を気遣い想うことが歌に込められた。万葉集には高貴な身分の者から、一庶民の歌までが収録されていることがその一端を示している。源氏物語は作中人物の情感の揺らぎを描かなければ物語として成立しえなかったであろう。物語に挿入された和歌は、あたかも作中人物の情感の陰影が一層しみじみとしたものとなるように働いている。

紀貫之はかくの如く記している。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

このように考えていくと、言語による相互理解の機能には、英語と日本語では根本的な性格の違いが隠れていると思わざるを得ない。英語の性格は論理的に重きを置くがためにレトリックやロジックの優劣を競うところがあり、昂じればDebateとなる。本質的に論理の力によって相手をねじ伏せるのである。

対して日本語のそれは感情や感性の伝達と共有に重きを置いていると言えよう。日本語の本質は歌である。それゆえに、歌のやり取りの先には、何ものかが「自然に発露すること」が待っている。そこまでたどり着かなければ日本語の「コミュニケーション」は、はなはだ不本意なものに終わってしまう。日英の言語の性格にこれほどの違いがあるならば、英語のCommunicationに相当する和語(やまとことば)が見つからないのは当然のことかもしれない。

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