読書ノート もの食う人々  

もの食う人々 辺見庸著

 

2021年12月5日

 

この本には三十の短編が詰まっている。通底するテーマは「食う」ということ。短編のそれぞれは世界の片隅を歩きまわったルポルタージュで、ストーリーは一編ごとに完結している。こういう類の本は読みやすいが、読書ノートを書くのは難しい。本書の推薦者が、通常のドキュメンタリーとは方法論が違うと、注意を促しているのは、そのあたりだろうか。

昔、と言っても、数十年前に私がFM放送の音楽番組の録音に凝っていたある日、フォスターの曲がメドレーで流れた。その時のキャスターが「メドレーは車窓に流れ行く風景を楽しむような愉しさがある」と話した記憶が目次のページを開いた瞬間に蘇ってきた。私はこれまでいくつか食に関するエッセイの本を読んできた。書棚にある食の関係の本を探すと十五人ぐらいの著者を確認した。この本を読書ノートの推薦リストに見つけたときは、親しんできた食に関するテーマの類であると思ったのである。しかし、これまで読んだ本とは異なるところがあった。それは本の題名である。一種、おどろおどろしさを予感させるような、あるいは好奇心に駆られるような雰囲気の題名であった。それがこの本を選択した決定的な要因であった。果たして、三十の短編はどれも食の愉しさとは全く無関係なものであった。

この本を受け止めるには、題名を「もの」、「食う」、「人々」に分解してみるとよい。世界の無数にある片隅でどういう「人々」が、どんな「もの」をどのような状況下で「食」っているのかという一瞬を切り取った写実と、そこに至る人々を翻弄してきた世界と時の流れ、その中を生き抜こうとする、あるいは死に逝く個としての人びとが描かれている。その風景をドラマという言葉で済ますことはできない。世界を歩いた「食」のテーマと言えば、世界各地の伝統食の探検を連想する。しかし本書の「食う」とは「食うものがない」という極限までを含めている。さらに、この世に生まれ落ちて、「食うもの」がないまま、死に逝くだけの、はかなく哀しい命も描いている。この短編集にはメドレーの愉しさはもちろん微塵もなく、世界の無数の隅々にある残酷な営為を取り上げ描いている。人は生きるために、なにがしかを「食」わねばならない。人倫に外れたものを食わざるをえないという極限状況の中にも、ズボンを下げて列をなす日本兵の性処理の汚辱の中にも「食う」行為はある。三十の短編の中で、この二つの話は特に心に残った。しかし二つの話の行く末は違う。前者の悪夢は第二次大戦中フィリピンの奥深い山中で起きたこと。今となっては、極限においてヒトは人たりえないことを教える、忌まわしい出来事として記憶にとどめ置かれるだけなのかもしれない。とは言え、カニバリズムという一言で済ますことはできない。歴史の底に沈んで浮かびあがらない事実を、ルポルタージュの手法で掬い挙げている。

後者の話は日本軍が韓国女性に強いた、唾棄すべき営為であった。怨念というか恨(ハン)と言うべきか、今も消えずにいる。その記憶を消すためには自裁に走る企てが必要であった。彼女たちは「天皇を連れてきて、謝ってほしい」と嘆く。日韓の条約や従軍慰安婦の解釈がどうであろうと、贖罪と救済が当の本人に届かなければ、国家間の合意の解釈の正当性を主張しあっても不毛に終わる。当の本人たちに届いていない、ということの責任を日韓のどちらが負うのか。それはとりあえず横に置き、両国政府のみならず両国民は、彼女たちに何ものも「届いていない」という事実を認識することからやり直さなければならない。歴史観は恣意的に作られる。両国の歴史観のいずれが正しいかという話では決してない。この短編は、国家間の賠償問題ではなく、個に対する贖罪がなされたかどうかを問うている。ルポルタージュでなければ手の届くことができない個の事実である。

この本には、著者によるあとがき、文庫版のあとがき、そして識者による解説が付けられている。この二つのあとがきには、著者が自己の回復という挑戦に踏み切る動機が明確に、そして率直に語られている。著者は通信社の外信部デスクの要職にあった。その仕事の本質は著者に言わせれば、世界をたかだか数十行、数百行で解釈し、あらゆる情勢や風景もデータベースに入れ込むことであった。そうした毎日の継続が著者の感性を劣化させてきたことに著者自身が気づき、その修復を図ろうとしたのである。「窒息していた感覚器官の全てをよみがえらせたくなったのである」とは、まず身体的なものから出発することが人間性の回復の道筋であると著者の体が言ったのであろう。知性や理性の以前に全身五感の健全性が人間性の原点である。

サラリーマン生活を人生の大半として過ごしてきたわが身を振り返って、このやりきれない窒息状況あるいは閉塞状況はよく理解できる。大半のサラリーマンはそれに耐えながら、あるいは自分をだましだましながら、時になだめながら定年までを過ごすのである。定年後に貸農園に日参し、土にまみれて野菜や花を作る人のほとんどが、よい歳をした男性であることを認識する人は少ないであろう。おそらく彼らはサラリーマンを卒業した人々なのだ。彼らが作物を作るのは、ささやかな自己の修復作業であり、回復の試みであるのであろう。その意味では著者の挑戦と変わるところはない。

この本について、解説した識者は次のように指摘している。

辺見は「風景が反逆してくる。それは解釈されることに、意味化されることに、ではないか。無意味が許されないことに、無意味が余りに掬われないこと憤怒するのではないか」と思弁するのである、と。確かに、今日の文明社会はありとあらゆるものを価値の有無、意味の有無によって物事を判断する。「無用の用」の思想はとうに廃れている。とりわけサラリーマンは会社や組織に貢献したかという判断基準で査定される。貢献するとは企業や組織にとっての価値と意味を具体化することにほかならない。それは第三者による優劣の判定を己の評価基準とすることである。それがために意に沿わない境遇にあっては自分を殺し続けなければならない。他人への迎合とは基準への屈服であり、屈折は生きていくためのやむない知恵である。解説者はさらに「実存は本質に先行する」と踏み込む。実存が体感で認識するものとすれば、本質とは何者かによって意味づけされた概念に過ぎない。現代社会の生きざまは、常に誰かが作った尺度・観念に合わせて、思考、行動、価値観までを律していく。それが昂じれば実存である「自己」は霧散する。だからこそ、サルトルは、実存は本質に先行しなければならない、と哲学したのだろう。

「働き方改革」と言うことが盛んに言われるようになって久しい。労働者、勤労者のメンタルヘルスが悪化し、自殺者が増えたことを背景としている。それを、働き方が良くないとでも言いたげな「働き方改革」というのはおかしいであろう。「働き方改革」ではなく、問われるべきは「働かせ方改革」である。「働き方改革」は労働者に責任を押し付けることに他ならない。労働者は、マルクスが指摘するまでもなく、自己の意思にかかわらず、強制的に働かせられてきたのである。その根底には、全てに意味づけを行うという文明の陥穽がある。近代から現代にいたる文明の発達は、人間性の消耗と犠牲の上に成り立っている。

著者の描いた「個」の風景の細部は、政治、ビジネスや歴史の概観、響き良い言葉で言い直せば大局観というマクロな視点に立てば全て意味がない。しかし全体は無意味とされる一つひとつの細事から成り立っている。マクロな立場が拠り所にする統計手法は、一見無意味なこれら細事の集合を分析対象として意味のありそうな部分だけを切り出し、さらにその切り分けた部分の中で反逆した異分子を抹殺・排除した上で、意味づけを行うのである。そこで排除された分子に反逆の声を上げる機会はない。しかも統計的な判断の切り分けの本質は分析者の恣意なのである。著者に向かって細事のことごとくが反逆を示したのは統計手法によるのではなく、著者の五感で受容しそれらを個別に掬い取ろうとしたからである。著者は反逆という言葉を使ったが、それら細事は聞こうとする者にしか聞こえない声を上げ続けているのである。事実をして語らしめよ、と言うのはこのようなことを指すのかもしれない。

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