読書ノート:日本が売られる

日本が売られる  堤未果 幻冬舎新書

本書は日本が侵食されていく状況のルポルタージュである。第一章では、日本人の資産が売られる10の事象が、第二章の、日本人の未来が売られるでは8つの事象が取り上げられている。第三章は売られたものは取り返せ、である。ここでは第一章と第二章に焦点を当てる。

第一章の事象は、主として農水産物の生産に関わること、そして第二章の事象は生活に直結するサービスに関わることである。これら二つの領域に生じている事象によって、日本の社会は他国のものとなるのか、グローバル企業に食い荒らされるのか。堤はあとがきで、経済が国家の枠をはみ出して暴れまわっている、と書いた。彼女の言う経済とは、グローバリズムを標榜したそれであろう。グローバリズムは1980年代に始まって瞬く間に、世界を席巻した。その行き過ぎが、格差拡大を生んだことは周知のとおりである。2000年に入って、グローバリズムのさらなる進展は格差ばかりでなく、地球を荒廃させるものとして、持続可能な開発SDGsという概念が出てきた。それはグローバリズムに大きな転換をもたらすうねりになるのだろうか?

 堤のジャーナリストとしての問題意識は、彼女の著作である「貧困大国アメリカ」(2008年)にも示されている。米国が貧困大国であるという意表を突く題名は、アメリカの医療制度によって、中産階級の人々が貧困に転落する状況と、利益第一に動く医療保健会社、そして医療機関を暴いている。堤は、彼女の父親が日本の医療制度(国民皆保険制度)の恩恵を受けたことから、何としてもこの日本の制度(注1)のよいところを守り抜くという意識を強くしたという。しかし、本書の第二部では、その日本の医療制度が売られることを取り上げている。私たちはこうした事象を個々に論じるべきなのか、それらに通底する問題は何なのか、どちらに軸足を置いて考えるべきなのであろうか。堤が本書で問題提起していることの底には、国家経営という難問があるように思われる。国家の経営は国の形をまず考えることである。本書のタイトルである、日本が売られる、とは国家の経営権が誰かの手に渡るということである。それを未然に防ぐことは政治の第一の責務である。ここでは堤の取り上げた個々の事象からいったん離れて、国家経営という切り口から話を進めることにしよう。

 国家経営は主権の問題と不可分である。ほんの百数十年前、日本は亡国の瀬戸際にあった。明治維新(1868年)はその瀬戸際に立たされた日本の選択であった。中国では清王朝が列強に食い荒らされ(アヘン戦争1840年勃発)、次の植民地化は日本であると誰もが危機感を持った。日本は富国強兵というスローガンを以て、国家経営の基盤すなわち経済力を作り上げなければ、独立国家として生き延び得なかったに違いない。そのことは時代が下るにつれて大いなる厄災を招き、他国への侵略と収奪に繋がっていく。富国強兵の路線選択が正しかったか、過ちであったかはここでは問わない。ただ言えることは、生き延びるために、あらまほしい国家像と国家経営、そこを裏打ちする主権意識を持とうとしたことは間違いない。司馬遼太郎はその過程に生きた人々を描いた。

国家の主権意識は国民の自我意識の総体でもあることを歴史が教えている。国民全体が過熱すれば他国に対する昂った驕りとなり、主権意識をもたなければ他国への盲従となる。日本は日清、日露戦争を経て強烈な国家意識をもち、太平洋戦争の敗戦でそれは粉々に散った。戦後の外交が対米追従とされるゆえんであろう。それはそれで敗戦後の世界を生き抜く一つの戦略ではあった。日本は明確な国家像、ひいては国家主権の確立を独自に志向する、という姿勢をあいまいにしたまま、米国追従という戦略に依拠する国になったのである。

 次に国家主権という言葉から身近に想起するのは、北朝鮮による拉致問題である。日本政府は拉致問題を人道問題として一貫して扱おうとしている。マスコミも人道上の問題として報道し続けている。しかしこの拉致は、日本の国家主権の侵害である。拉致を主権の侵害と明確にした政府の姿勢も報道も寡聞にして知らない。他国に違法に侵入し、一般人を拉致することが国家主権の侵害でなくてなんであろう。仮に人道上の問題としても、あたかも他国で生じた問題であるかのような取り組みでは、何代政権が代わっても解決しない。今までの経緯がそれを示している。世界の耳目を集めるロシアによる暴挙で、ゼレンスキー大統領の国家主権意識ほど強く心に響いたものはなかった。

 話を国家経営に移そう。国家の経営には金が要る。もし必要にして不足するなら借金をしなければならない。日露戦争を決断するにあたり、時の日本は莫大な戦費を必要とした。近代国家になるために、避けて通れない戦争を選択した日本は、英国に借金を申し込んだ。ここでは借金できる国の信用もまた財産であった。今日、国の借金はほとんどが国債で賄われている。いま日本国の借金は1240兆円を超え、GDP(国内総生産)比は260パーセントに迫り、先進国の中で二位のイタリアに100ポイントもの差を付けてダントツ一位である。赤ん坊や年金生活者まで全ての国民を含めて一人当たりの借金は1000万円を超す。もし生産人口一人当たりにすると、1300万円ぐらいになる。国家予算ならば16年分相当だという。問題は借金の残高も、その返済原資もさることながら、それだけの借金はこれまで何に使われてきたのか、という根源的な問いに誰も答えていないことであろう。そのことを避けて、減税だの、ばらまき政策などを公約とされると、国民は口当たりの良いことしか耳には入らない。ポピュリズムの一形態である。

国の支出予算を家計にたとえると、耐久消費財への投資と日々の家計の運転資金である。耐久消費財への投資は、家を買うなど生活環境の整備に一番金がかかる。国家経営で言えば、国土に張り巡らすインフラの整備にあたると言えよう。耐久消費財の購入には大きな投資費用だけでなく、その後の維持費、ローン返済を必要とする(注2)。

日々の家計に必要なお金は、日々運用される各種サービスという便益の費用にたとえることができる。貧困対策、コロナワクチン接種費用、健康保険制度の維持、国家公務員の給与、災害対策、安全保障の強化、そして借金返済(国債の償還)など身近なものを数えるだけでも際限がない。つまるところ、こうしたインフラ整備の投資と各種サービス運用に不足する財源は借金で賄っている。日本は世界でもまれなほど、安全で豊かな生活ができる国になったのは借金のお陰でもある。借金の多くはそのために使われてきた結果であると理解すべきではないか。マスコミも借金イコール悪としか報道せず、豊かな生活が過去からの借金によって成り立っていることの是非に、政治家は口をつぐんでいる。その一方で子供の貧困と格差が広がっており、蓄積したインフラは劣化を始めている。日本国は成熟期に入っているが、未だに無定見な成長神話を捨てきれていない。生活保護を必要とする人々は200万人を超えるが、出生率は下がり、人口ボーナスは近い将来とも望めない。これまでの社会水準を維持するという前提に立てば、とても国の借金が減る構造にはなっていないのである。有識者は予算の在り方の議論を提言するが、予算編成、税の増収などの技術的な問題ではない。国家経営の健全化は、未来の国家像に向かっての舵取りという、根本課題と不可分である。しかし与党も野党も個別の現象に対する政策対応にのみ熱心である。

 一国の政治の品質は、国民の資質や意識と不可分である。それがすべての理由ではないにしても、私たちは総体として過分に過ぎる社会や国家を未だに望んいるのではないか。グローバリズムの根底にある新自由主義なるものは、欧米から発生し、拡散した概念と思われている。確かにその通りであるが、日本の政治もその拡宣と実践に大きな役割を担ってきた。時の主導者はアメリカのレーガン、イギリスのサッチャー、日本の中曽根とその後継者であった(注3)。日米欧の三極でグローバリズムは同期して進行したのである。日本はグローバリズムの跋扈を、無批判に受け入れてきた。グローバリズムのもてはやされ方はやや下火になったとは言え、その強欲さを引き継いだものは巧妙になり、そこかしこで機会を狙って爪を研いでいる。堤は、そのあまたある事例を本書で暴いたのだ。インフラもサービスも一朝一夕にはできない。金さえあればすぐにでも手に入るというものではなく、時間をかけた試行錯誤という途方もない蓄積を必要とする。国家統治から経済をはみ出させたのは他でもない、抑制のきかない経済志向と、国家経営の思想を持たない政治の組み合わせであったとしか言いようがない。それを堤はグローバリズムの本質と見たのだ。

 

(注1)国民皆保険制度を始めとして、戦後に制度設計された社会保障制度成立のいきさつは、戦後社会保障の証言-厚生官僚120時間オーラルヒストリー(有斐閣)に詳しい

(注2)国債ではないが、国家プロジェクトの性格を有した東海道新幹線の建設には総工費3800億円に対して、当時の国鉄は世界銀行から8000万ドルを借りた。当時のレートは一ドル360円である。日本が世界銀行から受けた融資は合計31件、総額8億6300万ドルであった。世界銀行の借金を完済したのは1990年、借金は戦後日本の復興を支えた財源の一つであった。

(注3) グローバリズムについては多くの類書があるが、ここでは宇沢弘文の言によると記憶している。宇沢は世界で通用する、ほとんどただ一人の日本人の経済学者であった。経済ノーベル賞学者のスティグリッツはシカゴ大学で彼の授業を受けている。宇沢が昭和天皇に御進講した際、天皇から「君!、君は経済、経済というが、つまり人間の心が大事だと、そう言いたいのだね」と言われた。本心をずばり言い当てられたようでハッとした」と宇沢は述懐している(宇沢弘文 人間の経済 新潮新書)。

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