規格化の恩恵と代償
2022年6月28日
先日、スマホを乗り換えた。ガラケーから格安スマホに移行してから五年半、スマホ内臓の電池も弱ってきたし、何よりそれだけ長く使ってきたことに人様から感心されたということもあるが、通話の音質やアプリの立ち上がりの遅さにフラストレーションがたまってきたということもあった。乗り換え機種は以前と同じアンドロイドのスマホであったが、充電ケーブルのポートが異なることについて、店頭の担当者は申し訳なそうに説明してくれた。充電ケーブルの差込口の形状が以前のものとは異なるという。以前のアンドロイドの充電ケーブルは使えず、買い直さなければならない。同じアンドロイドのスマホであっても差込口の形状規格が異なることを初めて知った。所謂スマホにはアップル社のアイフォンと、それ以外の複数のメーカーのアンドロイドがあることは知っていたが、アンドロイドの中でもメーカーによって差込口の形状規格が異なっているということは知らなかった。
充電ケーブルは、スマホだけでなく実に多くの電気・電子機器について回る。充電式の機器が増えたのは、蓄電池が飛躍的に進歩したからである。コンセントから解放され、持ち運びの範囲が広がって便利であるが、多くの場合、充電ケーブルは多種多様であり、充電ケーブルが何種類も机の周りに転がっているという有様である。スマホに限ってもその差込口の形状がすべてのアンドロイド機種のみならず、アイフォンとも共通であればユーザーとしてこの上なく便利であろうし、資源の節約にもなろうと思う。スマホによって差込形状が異なるのは、何か技術的な有利さとか、あるいは困難さがあるのだろうか?やはり規格を巡る主導権争いが原因なのだろうか。
ある部品が共通に使えることはこの上なく便利である。ある部品を他の製品に流用して置き換えできることを互換性という。互換性を保証するものは、規格が共通でなければならない。少し考えれば当たり前のことであるのに、普段私たちは規格とその功罪について思いを巡らすことはほとんどない。
ハイスペックということをよく聞く。High Specification(規格)の略で、高品質、高性能の規格という意味に使われている。人物評価にも使うらしくて、付き合っている人を指してスペックがどうだ、こうだと言いう。学歴、収入、地位、ルックス、家柄などを総合して格付けするようなものである。確かにSpecificationの内容はいくつかの項目にわたるので、人物の要素として、学歴、収入などの項目をまとめればスペックという言葉が使われても不思議ではない。が、もともとはモノに使う言葉である。人物評価にも転用するのはどうかと思うが、今日では驚くことではないのだろう。規格ということで言えば、Specificationと同様な意味で使われるのにStandardという言葉もあるが、こちらの方は標準的、平均的というニュアンスが強く意識されるためか、日常会話ではハイスペックと入れ替えはされていないようである。もし使われるならハイスタとでもなるのだろうが、四文字の略語は品位に欠ける。
スペック=規格という言葉は評価の物差しとして使われているが、規格という概念が生まれたのは米国の南北戦争の時であったという(ものづくりの科学史 橋本)。一八六〇年代前半である。近代戦争の武器としてマスケット銃というものが使われていた。この銃は西部劇などによく出てくるので、形を思い出される方も多いであろう。マスケット銃はヨーロッパで開発されたものであるが、アメリカの南北戦争で使われることとなった。武器というものは、戦場という過酷な状況下で使われるものであるから、故障が生じる。新しい銃がすぐに手に入ればよいが、そうでなければ修理するしかない。マスケット銃は近代に使われたものであるが、もともと工業製品として大量生産されたものではなかった。職人技で一つ一つ作られた一品物であった。当然のことながら各部品のばらつきは職人一人ひとりの個性の反映である。ある部品が壊れたとして、その部品を他の銃から流用、交換することは困難であった。つまり一品ものの各部品は互換性に乏しかったのである。
この不便さを解消するものが規格という概念であった。部品の形状、材質、強度など、諸要素を厳密に決めてその通りに製造することで、銃は互換性のある各部品から構成されるようになった。それ以後、規格という概念は工業生産、大量生産を支える概念として機能することになったのである。互換性という概念は急速に広がりを見せることになるが、当初はネジなど簡単なものから出発した。例えばネジを生産する工場が複数あれば、それぞれが少しずつ異なるネジを作っていたものを、どの工場のネジであっても問題なく使えるようになったのである。この規格(化)は互換性を確保する目的から始まったが、大量生産を可能とした。規格が同じものは大量に作るには適しているからである。
ところで、近代から現代にいたる戦争が消耗戦、大量虐殺と化したのは、武器弾薬の消耗を補う大量生産の裏付けがあったからこそ、生じた戦争の変質であったのだ。大量の武器弾薬が長期間に亘って使われれば、死傷者も必然的に多くなる。第二次大戦で、多くの日本国民が無差別空襲の絨毯爆撃で亡くなったということと、規格(化)は確実に繋がっている。ウクライナに侵攻したロシア軍が、ウクライナで略奪した家電から電子部品を回収し、ドローンに流用しているという報道があったが、制裁によって電子部品の輸入調達に困難をきたしていることを示すものと言われている。民生品の部品が武器にも使用されているということは、ニュースで知っていたが、制裁によってロシア経済産業や備蓄の実態はひっ迫しているのかもしれない。そして今や民生品の精度や信頼性は軍用に耐えるレベルになっているということである。長い間、軍事分野から民生分野に技術が拡散する図式であったが、潮目が変わりつつあることを思わせる。
コロナのワクチンが短期間で製造、配布されたことは大量生産の恩恵であろう。その一方で、コロナワクチンの生産と配分が高所得国に遍在することが問題となって、生産技術を先進国から低・中所得国に移転しようとする動きが、世界保健機関の主導で始まっている。これが技術的に可能となるのもやはり規格の恩恵である。先進国で開発されたワクチンの規格に適合したワクチンは、日本製であろうがなかろうが、同じ効果を持つとされる。技術移転は世界が等しく技術の恩恵を受けるものであるが、その根底には規格(化)がなければならない。もちろんこの話はワクチンに限らない。今日、現代医学が伝統医学を圧倒して世界に広まったのは、生物学や化学など、普遍的で強力な原理に基づくことによるが、同時に医薬品を世界の市場に供給可能とした規格(化)の恩恵を抜きにすることはできない。医療もまた規格化されることで、原理的には世界のどこでも、同じ質の治療が受けられるものとなったのである。
技術移転は先進国と低・中所得国の間の課題であるだけはない。一国の中でも生じる。一例が新薬とジェネリック医薬品の関係である。新薬は物質特許という知的財産権に一定期間守られ、薬価も高く設定されている。それは開発者の努力に報い、次なる開発投資の原資の確保を可能とする独占権である。しかし特許の保護期間を無制限とすることは、新薬の恩恵を普及させることの障害になる。そこで一定期間を経たのちは薬(成分)に関する知識・知見の独占期間を終了させるのである。このことを知識や知見がパブリックドメインに置かれる、という。平たく言うと一企業の独占財産から公共の財産になり、どこの国の誰でもが利用できるのである。このように、独占権が終了した知識・知見を利用して製造された薬がジェネリック医薬品である。ジェネリック医薬品が先発の新薬と同等の効果を期待できるのは、規格という概念が技術的に具体化されているからである。
ジェネリック医薬品の価格は、一からの開発経費が不要のために安く設定されて、健康保険財政に大きく貢献する。薬の価格が低くなれば、より多くの人々が使いやすくなる。厚生労働省(だけでなく世界の保健当局)がジェネリック医薬品の使用を積極的に推進しているのは、そういうことなのである。少し前まで日本は欧米諸国と比べてジェネリック医薬品の普及が遅れていた。そこで厚生労働省はジェネリック医薬品の普及促進に努めた結果、昨今ではようやく欧米並みの八〇パーセントのレベルになった。
しかしこの知的財産保護については解釈の難しい問題を孕んでいて、世界の貿易摩擦のみならず、保健医療分野における格差の大きな原因となってきた。低・中所得国と高所得国との緊張関係の根底に、規格を巡る攻防が続いているのである。一例を挙げよう。一九八〇年代の初めに現れたエイズは奇病と言われ、治療法もなく恐怖と蔑視の対象となり、その後の十年間で全世界の患者は百万人に達した。エイズの治療薬が世界で最初に開発されたのが一九八五年であった。患者団体は「私たちは知的財産権の泥棒ではない。エイズの薬を私たちの国で製造させてほしい」と世界保健機関の本部で訴えたが、国際製薬団体連合会はこれを拒否した。さらに二〇〇一年に先進国は抗エイズ薬の安価なジェネリック化に反対した。日本はその反対に一票を投じた国の一つであった。
さて、身の周りの品ものを手に取ってみると、規格がないものを見つけることが難しい。工業製品だけでなく野菜、果物、魚、肉でさえ規格がある。卵の大きさはおおむね揃っているし、キュウリは真っすぐに揃えたものが売られている。真っすぐなきゅうりは箱に隙間なく詰められるので輸送効率が良く、扱いに便利で、コストを低減できるからであるという。キュウリは真っすぐであるべし、という規格化は流通コスト削減にも貢献しているのである。しかし、曲がったきゅうりはどうなるのか、廃棄されるのであればトータルのコストはむしろ上がるのかもしれない。キュウリを育ててみると、最初は比較的真っすぐなものが採れるが、後になれば曲がったものや形、大きさが不ぞろいのものが多くなる。市場で売れるキュウリの背後に、見向きもされなかったキュウリはどれほどあるのだろうか?
規格はブランドと密接につながっている。私はそうめんが好きで、そうめんは揖保乃糸、と思っている(奈良に住んでおきながら、三輪そうめんに他のそうめんを優先させるのはもってのほかと言われそうであるが)。揖保乃糸の製造業者の組合(兵庫県手延素麺協同組合)は製造者間で品質が異ならないよう、原料を一括購入し、製法、出来上がり具合を細かく規定し、検品も自らしているという。その積み重ねの努力によってブランドが確立してきた。これらの規定も一種の規格化である。
規格化はブランド育成を通して、品質保証のイメージ戦略にも役立っている。等級という格付けも一種の品質を表している。以前、日本酒には特級酒、一級酒、二級酒など等級があった。あるときからそれらの等級付けは不合理であるという理由から廃止になり、いわゆる地酒の良さが味本位で見直されることとなった。今では等級こそ付けられていないが、大吟醸、生酛、生絞りなど他と差別化しようとする名称が使われている。これらの名称にはそれなりの根拠となる原料や製法が規定されている。フランスのシャンパンなどはぶどう栽培の畑まで細かく指定されたものであるという。今日のディナーには正真正銘のシャンパンが出ると聞けば、テーブルに着席する前から楽しみが倍加する心理は、ブランドへの信頼がなせる業である。
しかし、規格に適合することを確認するためには、品質検査を必要とする。本来、規格の設定にはかなりの厳密さや精密さが必要であって、ユルユルのものであっては役に立たない。当然のことに、製品が規格に適合しているかどうかの試験は、人手と時間を要する。実を言えばこの品質検査こそ今日の日本企業が不祥事を露呈した部分である。近年の報道を振り返ると、多くの有名企業が相次いで品質検査の不正を行ってきたことが分かる。「ブルータス、お前もか」は何度でも繰り返される。多くの場合、不祥事の言い訳は、「品質検査体制や実施そのものには問題があったが、出荷した製品に問題はなかった」、あるいは、「出荷済みの製品は安全であった、被害は生じていない」、などである。挙句に、「不正を二度と許さない企業文化を目指したい」、「体制を立て直すのが私の義務である」など、椅子にしがみつく言葉には、経営者としての自覚も責任のかけらも見受けられない。品質の問題は経営者自身の責であるにもかかわらず、自ら経営コストを省いたつけを担当部門に押し付けるか、他人ごとのように釈明する。資本と経営の分離が進むにつれ、雇われマダム的な経営者が増えたためであろう。近代日本の黎明期の経営者と、今日の経営者の品質は全く別物、異質になってしまった。不祥事を起こした経営陣が、会見で一様にお辞儀する姿は、規格化されていて見るに堪えない。事実、謝罪会見をコーチングするコンサルタント会社があるのである。本人たちはマニュアル(すなわち規格)通りに禊を済ませたとほっとしているのだろう。
話がやや脱線した。規格化があらゆる場面に浸透していることが、私たちの心理にどのような変化を与えるのか、について考えてみよう。
先に、キュウリは真っすぐであるべしとの例を出したが、この規格化は流通業者の生産業者に対する要求事項でもある。つまり「規格化とは誰かのだれかに対する要求」ともなっているのである。規格化は品質を一定水準以上に保つ機能を持っているので、「品質とは誰かのだれかに対する要求」であると、言い換えることができる。私たちは暗黙の裡に、生活に関わるあらゆる品物、サービスについて、一定水準以上の品質を絶えず要求し、満たされるものだけを選択する生活にどっぷりと漬かっている。かなり前のことになるが、尼崎での通勤電車の脱線事故は、正確無比という品質にこだわる運行サービスが背景にある。品質が一定以上のものばかりに囲まれてしまうと、それらは互いに網の目のようにつながって、生活環境の質を決定する。あるいは生活環境そのものを形作ると言ってもよい。そうなれば不便さや、期待値からの逸脱を厭い、許せない!と思うようになる人も出てくるであろう。同時に、他者への要求が当たり前になるため、他者に対する不寛容さが増すこともあるだろう。二者択一、すなわち安易に決めつける空気が醸成されてくるのは、規格化が進むことによる必然なのだ。「空気読めない」という表現や、他者との同調姿勢、同調圧力は、規格化があらゆる場面に浸透した環境の産物である。私たちは、環境から逃れられないことを改めて思う。
規格の設定はユルユルではだめで、かなりの厳密さ、精度が必要であると先に書いた。規格が設定されれば、それに適合するか、否かの二つに一つしかない。中間はない。同時に規格は一種の定義でもある。定義も規格と同様に合致しているか、否かである。このように、規格との適合、不適合を四六時中考える世界に住んでいると、定義や規格に外れた物事を駄目なものとして、捨てるようになってもおかしくはない。定義や規格に従って白黒、あるいは分類をすれば、思考エネルギーと時間の節約になり、楽ができるからである。人は本質的に怠惰な動物である。定義や規格に合致しているか、否か。それは二者択一の思考を促進させる。マスクをつける人は常識があり、付けない人は常識がない人、非難されるべき人、という割り切りが往々にして行き過ぎ、他人に攻撃的になる。
思考の節約といえば、直感という方法がある。直感とはそれまでの経験の蓄積や感性がもとになって、たけた人は瞬時に判断が可能である。ときには当てにならないこともあるのだが、それでも自らの試行錯誤という、積み重ねた経験がベースになっている。それに引き換え、二者択一の思考は誰かが作った規格、定義に従うショートカットなのである。好みの規格、自分に都合のよい基準をただ借りてくればよいのである。卑近なことの事例をあげれば、賞味期限が過ぎた食品を、においもかがず、自分の舌で確かめもせずに丸ごと、袋ごと廃棄するのである。誰かが作った基準に拠って、二者択一の判断に従うかぎり、自分の考え、判断力は育みようがない。
誰かが作った基準に無批判に従うとき、コンプライアンス(遵守)が良好であると褒められる時代である。今の若者を見て、年長者は自分の考えがない、というが、それは若者の責任ではなかろう。飽食日本列島は、賞味期限という規格や決め事を、舌や手触りなど五感に優先させてきた日本社会が生み出したものである。五感の感性が鈍ることは、生存能力の劣化である。生存能力が劣化しても、技術がそれを補って余りある時代になったとも言えるであろう。生存能力の劣化は一層の技術発達を促し、その技術がさらなる生存能力の劣化を招くことになる。ここでは原因と結果は別個ではなく、原因であり同時に結果である。
技術の素晴らしい発展によって日常生活の便利さ、快適さは一昔前とは比べようがないほどのものになった。繰り返すが、その恩恵の源泉の一つは規格(化)である。しかし、恩恵の代償として私たちは自分で考えることを止め、画一化されることとなった。規格(化)を進めることで、あらゆるものの効率、費用対効果(若者言葉ではコスパという)は格段に向上した。その反面、物事のよしあしを、効率一辺倒で判断する風潮は、無用の用を顧みなくなった。何かを手に入れるのと引き換えに何かを失う、というのは道理である。
しかし厳密な規格にも実は「遊び」という、一見相反する重要な要素が隠されている。分かりやすく歯車の例をとってみよう。もし歯車と歯車がぴったりとかみ合ならば、歯車は回らないのである。無理に回そうとするなら歯車は壊れるであろう。歯車と歯車の間には微妙な隙間、すなわち「遊びが」必要なのである。設計者はもちろんそのことを分かっているが、最終的には製造現場での調整がものをいう。もしハンドル構造に遊びがない車で、でこぼこした道を走れば、揺れるたびに運転者はハンドルを取られて、安定した走行は出来ない。ハンドルの「遊び」は、自動車という運転システムを安定化させる重要な要素なのである。レース専用の車のハンドルの遊びは極めて小さい。それはサーキット場に凸凹や段差はなく、レーサーの操縦技術がハンドルの揺れに完璧に追従できるからである。一般の人の運転技術と現実の道路はそうはいかない。このようにシステムの「遊び」は状況によって変わる。
このことはルールを人間社会に適用する場合にも同じである。すべてのルールは他のルールとつながっている。例えれば、歯車が一つのルールであるとして、歯車同士で繋がっている一つの機械(社会あるいは共同体)だと考えてみよう。私たちは、ルールが社会を規定していると思ってしまいがちであるが、社会や人々の暮らしの実態が先にあって、ルールは後からできたものである。だとすれば社会の状況は絶えず変動変化しているので、ルールもある程度自在に伸び縮みしなければならない。しかしルールは簡単には変えられない。一つを変えれば、連動する他のルールにも影響するからである。そこで重要な役割を果たすのが遊びなのである。よく言えば、前例にないことも、拡大解釈も例外も必要に応じて受け入れる柔軟性である。裁量とも言い換えられるだろう。しかしほとんどのルールにはそのようなことは書いていない。ルールは安定した平常時の運用を想定している。平常時と非常時は状況も対応も全く異なるが、非常時にも平常時のルールを適用し、疑いを挟まない愚かさからの脱却は難しい。ルールに書いてなければそのような自在な柔軟性を発揮してはならないと考えるか、書いてなければ場面と必要に応じて対応を工夫するべきと考えるか、である。私たちは規格やルールに書かれてある部分だけを見、書かれてないことには思考が及ばない。これから先、規格やルールが増えることはあっても、減る世の中は想像できない。規格化の恩恵を受けつつも、思考停止、思考力の喪失に陥らないようにするために何が必要か、これからの教育にはその模索と試行錯誤が必要になる時代であろう。ただし、規格化された授業のコマとしてではなく。