人生のパスポート

2024年7月31日

  エダ チヒロ 

誤解を恐れずに言う。私の見た目は健常者そのものである。ところがひとたび言葉を発しようとすると、今にも出てきそうで出てこない最初の音に、自分でも苛立ちながら口をパクパクさせてもがく。やっとのことで喉の奥から出てくれた第一音。だがそれ以降は途切れたり、無音の時間が続いたり。とにかくすらすらと言葉が出てこない。こんな私の姿を見て笑う人は何人もいる。そして嫌う人もいる。なぜか怒る人もいる。そのたびに、どうにもできない悔しさを抱え、私は打ちひしがれる。しかしもっと悔しいのは、こんな私の姿を見て知力が足りない人だと決めつける人がいることだ。わずかな時間で私を判断しないでほしい。だがその思いも空しく、現実は相手にされなかったり避けられたりする。私の何を知っていてそう決めつけるのか。失礼ではないか。怒りが体中を支配すると同時に虚無感に襲われる。そう、私は吃音(きつおん)だ。

 吃音は理解されにくい障害である。気にせず社会生活を送る者がいれば、一言発するのにも苦労する者もいる。吃音の症状が出るにもかかわらず自覚していない者もいれば、吃音の症状が出なくても本人が吃音だと悩んでいたりする。程度の軽い吃音者を知っている人からすればどうってことないというし、程度の重い吃音者を知っている人はただ単に気の毒にと思う。一方で程度が軽い吃音を笑う人もいれば、程度が重い吃音を見守ってくれる人もいる。いわば係わる人によって様々な見方をされてしまうのだ。掴みどころのないことが理解されにくい理由ともいえる。また吃音者の中には、言葉がするっと出る時となかなか出ない時との差が激しい者もいる。その理由は、寒暖差やその時の精神状態などが考えられているが、はっきりとした原因はわかっていない。そして言葉が出にくければ言い換えといって、同じ意味の言いやすい別の言葉を瞬時に探して発話しようと試みる。そのため吃音として認知されないことだってある。それも吃音を正しく理解してもらえない理由の一つである。

 私は物心ついた頃から吃音だった。一見するとどこにも障害があるようには見られないが、言葉を発するとあからさまにおかしいとわかってしまうようだ。幼少の頃からからかわれ、嘲笑の的だった。悔しいが言い返そうとして言葉を出そうとしても喉から出てくれない。その苦労している姿が滑稽に見えるのだろう、もっと笑われた。悔しいがどうせ何を言ってもダメだろうと自分を慰めるしかなかった。そんな体験の積み重ねは、私をマイナス思考にさせてくれた。そしてその負け癖が人生のあらゆる場面で顔を覗かせてきた。それでも何とかしたいと思い、腹式呼吸や大声で音読などをしてみたりもした。それでも吃音が治ることはなかった。それどころか周りはもちろんのこと、社会的にも理解されなかった。要するに吃音は障害ではないというのが世間の認識だった。努力しても治らない。これはれっきとした障害ではないか。吃音が客観的に障害と認めてもらえる何かがあれば少しは理解が進むかもしれないのに。若い頃から切実に考えていた。

 そんな思いを抱き続けていた四十代最後の夏のこと。ある新聞に吃音を理由として障害者手帳を取得したという方の記事を目にした。障害者手帳とは身体の機能に一定以上の障害がある方に交付されるもので、身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳、療育手帳の三種類がある。どの種類の手帳を取得したのかはわからないが、吃音で障害者手帳を取得できたことに私は驚きを隠せなかった。なぜなら私の中で吃音は障害とみなされないのだとあきらめていたからだ。その方の吃音の程度はわからないが、おそらくかなり苦労されていたからだろうと察した。だが吃音で苦労してきたのは私も同じだ。私も取得できないだろうか。もし障害者手帳を取得出来たら客観的に吃音とわかってもらうための有効な手段となる。まさしく私が望んでいたものが手に入る可能性があるのだ。ただ障害者手帳を取得してもそれは水戸黄門の印籠ではない。私を取り巻く環境は変わらないだろう。しかし今でも吃音で困っている私を見てあからさまに見下す輩はたくさんいる。そして人権問題として提議したいことにだって未だに出くわすこともある。いざというときに泣き寝入りしないためにも、きちんとした形で私の吃音はれっきとした障害であると認めてくれるものがあれば、私の負け犬根性は少しは改善されるのではないだろうか。そう考えると真剣に取得を検討してみようという気になった。

 今はネット社会。まずは「吃音」「障害者手帳」でネット検索をしてみた。すると吃音は発達障害の一つとして精神障害者保健福祉手帳の対象となることがわかった。吃音で障害者手帳を取得したという方もかなりの数いるようだった。ネットで調べたことの裏付けを取っておこうと県立図書館にも出向いた。そこで吃音は最低でも精神障害者保健福祉手帳三級の対象となり得ると知った。精神障害者保健福祉手帳は、精神障害であって日常生活もしくは社会生活が制限を受けるか、日常生活もしくは社会生活に制限を加えることを必要とする程度のものという基準があるとのことだった。 また精神障害は治癒する可能性があるため精神障害者保健福祉手帳には有効期限があることも分かった。今のところ私は精神を病んでいるというわけではないので精神障害者で括られるという点に抵抗があったが、それが理由であきらめるよりも障害者手帳を取得して現状を変えたいという気持ちの方が勝っていた。基準を読む限りでは私がこれまで抱えてきた苦労からすると対象となると思った。しかしその判断は精神保健指定医と呼ばれる医師が行うとのこと。障害と診断されたら診断書を作成してもらい保健所や市町村役場の福祉関係課に申請するという流れになるようだ。果たして私は吃音との診断を下してもらえるだろうか。そこが不安だった。

 ところで発達障害がクローズアップされたのは二〇〇〇年代に入ってからである。身体や言語、学習や行動などについて不全を抱えた状態で成長した段階で残る障害といえる。そしてその状態は発達期から表れる。幼少期は個性としてとらえられることが多いが、成人期になると社会とのずれが生じてきやすく、生涯に向かって治ることがない。二〇〇五年には発達障害者支援法が施行され、発達障害に対しての理解が一層進むことになった。いわゆる学習障害や注意欠陥障害、多動性障害などが発達障害にあたるのだが、吃音もその対象になっている。諸外国では、根本的な治療法がないため吃音がある人に対して差別を禁止し障害者として認定する国が多い。例えばニュージーランドは法律により障害者として扱われるし、イギリスでは仕事をしていくうえで法的に守られるようになっている。日本では前述のとおり発達障害者支援法に定義されている話し方の障害として対象となっている。厚生労働省も吃音ははっきりと発達障害に含まれるという見解を出している。いわば吃音は障害として公に認められているのだ。世界的にも、また日本でもそういう流れならば診断書は意外と簡単に作成してもらえそうだ。前途洋々。厚生労働省も認めるのだから吃音での精神障害者保健福祉手帳の取得は認められるはず。しかも今も吃音治療のため岡山県にある川崎医科大学附属病院に通っている。その年の夏も終わりに近づいた九月の診察がある日に相談してみることにした。

 障害者手帳取得を考えている。その日は主治医である花山先生が急用で不在だった。そのため代わりにH先生が担当だった。初対面の医師だったが、特に何も考えずに相談してみた。ところが返ってきたのは私の希望とは正反対の、まるでカウンターパンチを喰らわすかのような一言だった。

「吃音では無理だね」

理由はこうらしい。

「吃音って客観的に症状が継続しているかどうか判断できないんだよね」 

 前述の通り吃音は軽減したりすることもあれば悪化することもある。要するに本当に吃音なのかどうかわからないと言われているようなものだ。吃音者は嘘でも言えるとでもいうのか。高い倫理観が求められる職業である医師の口から患者を疑うような言葉が出てくるとは。感情が高ぶっていくのがわかった。だがそれ以上に裏切られた気持ちが強かった。しかも追い討ちをかけるようにH先生は続けた。

「吃音で診断書を書いてもらえる医師はいないんじゃないかな」

 その言葉に私は谷底に突き落とされた気持ちになった。おそらく他意はなかったのだろうが、私の障害者手帳取得に突き進む気持ちは一気に萎えていくのがわかった。そもそもH先生の専門は高次機能障害や嚥下障害であり吃音を専門としているわけではないのだから。そう自分に言い聞かせ納得させるのが精一杯。前途多難どころか行き止まりのように感じた。残念なことに吃音治療を標榜する医師は日本には圧倒的に少ない。その理由は、吃音で医師に相談するというアプローチがされてこなかったからだと考える。吃音者は人口の約一パーセントはいるとされている。この割合からすると日本ではおおよそ百万人の吃音者がいることになる。しかし前述のように吃音は、ただの緊張や言い間違いと決めつけられることが多く、それを障害と医者に認識してもらうのが難しい。発話障害という吃音の特性上本人が症状の説明をしにくいこともある。このようなことから医師に相談するということが他の疾患より極端に少ない。したがって医師にさえも認知されにくいのである。そのため泣き寝入りしてしまう人がほとんどだ。極端な言い方をすれば、吃音はないものとされてきた悲しい歴史があるのだ。

 H先生に相談して返り討ちに遭った私はその後しばらく障害者手帳の取得に動くような行動を起こす気にはなれなかった。新聞に載っていた方の吃音の症状は私よりもかなり重かったのだろう。私の症状ではやっぱり障害者手帳は取れないのだ。あきらめの気持ちに傾きつつあった。でも実際に吃音で障害者手帳を取得している人はいる。その人の吃音の程度は気になるが確かめる術がない。ただ私の症状もそんなに軽い吃音ではないような気がする。まだ一人しかまだ相談していないくらいであっさり退くのもどうか。別の人に相談してみようと考えた。誰がいいか。二ヶ月に一度通っている吃音リハビリの担当言語聴覚士である福永先生なら何かいいヒントを下さるのではないか。福永先生は日本吃音・流暢性障害学会員であり、言語障害に関する専門家でもある。十一月のリハビリのときに相談してみようと考えた。だが最初の頃の勢いとは明らかに違い、私は弱気になっていた。H先生には吃音なら当然に障害者手帳を取得できるだろうと楽観視してしまいストレートに訊いてしまった。それを言下に否定され打ちのめされたのだ。というわけで話の切り出し方を工夫してみた。私の吃音は精神障害者保健福祉手帳三級の対象になるのかどうか、という尋ね方をしてみたのだ。すると福永先生から一呼吸おいてこんな回答があった。

「対象になるだろうね」

一瞬私は耳を疑った。H先生とは正反対の答えだったからだ。福永先生はさらに続けた。

「エダさん、吃音でいつも苦労しているでしょ。そもそも苦労しているかどうかは他人が判断するものではなく、自分が困っていたらそれは対象にしなければおかしいと思うんだよね」

私の気持ちを理解してくださっているようで嬉しくなった。ちなみに私の吃音の程度ってどのくらいなのかを尋ねてみた。

「程度は決して軽くはないと思うなあ」

 このとき真剣に障害者手帳の取得を考えていることを打ち明けた。

「障害者手帳を取得してそれがいい方向に作用すればそれは意味があるものだと思うよ」そして次に出た言葉は私に大いに希望を与えてくれた。

「もし手帳を取りたいなら診断書を書いてくれる医師を紹介するよ」

H先生は吃音で診断書を書いてくれる医者はいないとおっしゃっていたが、福永先生は書いてくれる医師をご存知とのこと。しかも紹介するとおっしゃって下さるではないか。医師と言語聴覚士。どちらも吃音に係わる方たちではある。だがこうも正反対の答えがあるところに吃音治療が確立されていない現状が浮かび上がる。紹介していただく医師は岡部先生といい、吃音治療の世界では有名な方とのことだった。もともと自分が吃音で苦労していた過去があり自らが院長を務める病院に吃音外来を設置し吃音者に対して積極的に障害者手帳の取得を推奨しているという。谷底から一気に這い上がってきたような気持ちだった。すぐさま紹介してほしいとお願いした。なかなか診断書を書いてくれる医師がいないんだよね、と福永先生が前置きしながら連絡先を探し始めた。そしてちょっと遠いよと言ったのも聞き逃さなかった。遠いのはある程度覚悟しなければならない。恐る恐るどこかと尋ねた。

「愛媛県の南の方、高知県との県境に近いところだね。旭川荘南愛媛病院」

それでも行くのかと訊かれ、私は間髪入れずに行くと返答した。確かに鳥取の片田舎に住む私の自宅からはかなり距離がある。それでも障害者手帳への道が拓けるなら行かない理由はない。

 リハビリから数日後福永先生から、まずは病院の代表電話に連絡して吃音外来をやっている水曜日か木曜日に予約を入れて欲しいと連絡があった。吃音者に電話で連絡を取れとは。まるで試されている気分だった。一般的には予約を入れるなんて容易いことだろう。だがこんなとき私はどうしても身構えてしまう。なぜならそれこそ言葉だけを使って自分の状況や意思を伝達しなければならないからだ。吃音者にはハードルが高いのだ。でもやらなければ次のステップに進むことができない。しかし余計な雑念が脳裏を掠め、予約を取るための、たった一本の電話がなかなかできないのだった。今日はしよう、明日はしようと思っていても、何かに言い訳を付けて先延ばしにしているもう一人の自分がいるのだった。挙句の果てには、吃音で苦労しても今まで何とかやってきたのだから障害者手帳なんてなくても生きていけるよ。私の中で葛藤が始まった。それは意外にも長く続いた。どうしても旭川荘南愛媛病院に電話することができなかった。だがそれでは何も変わらない。勇気を出さなければ扉は開かないのだ。ある日意を決して受話器を握った。この期に及んでも逡巡した。病院に予約を入れるということは病人だということ。それなのになぜ予約の電話ができないのか。なにか後ろめたいことでもあるのか。吃音があっても普通に生活はしているが、困ることの方が圧倒的に多い。それは紛れもない事実だ。別に予約を入れることについて非難されることはない。格好悪くても第一歩を踏み出そう。やっとのことで雑念を振り払い旭川荘南愛媛病院の電話番号をプッシュすることができた。リハビリの日から一ヶ月以上経っていた。

 あの逡巡は何だったのかと思うくらいあっさり予約は取れた。終わってみれば、なんだ、こんなに簡単なことだったのかと思った。でも手汗は酷いし、やはり言葉もスムーズに出なかった。きちんと伝わっているのか。自分でも心配になるくらいだった。でも予約が取れたことは私の中での小さな成功である。たったそれだけのことではあるが、自分で自分を褒めてもいいとまで思った。愛媛行は年が明けて二月一〇日に決まった。ところがその後も葛藤は続いた。福永先生は、私の吃音は軽くはないとおっしゃってくださった。でもH先生は、吃音は継続的に症状が出るかどうかわからないともおっしゃった。人間の心理として病人が医者の前に出ると元気になることがあるというが、わざわざ愛媛まで行ってそのときだけ吃音の症状が出ないような状態になりはしないだろうか。それが不安だった。そう思うならわざわざ愛媛まで行かなくてもいいではないか。ここでももう一人の自分が顔を覗かせるのである。精神障害者保健福祉手帳は二年という有効期限がある。そのたびに診断書を書いてもらい更新の手続きをしなければならない。近くに診断書を書いてくれる医師がいればいいのだがそれは期待できない。要するに更新を希望するなら二年後にまた愛媛まで行く必要がある。それでも行くのか。葛藤を抱えながらも愛媛行の日はやってきた。

 いよいよ私の吃音の状態を客観的に診断してもらうときがやってきた。別にやましいことはないのだが吃音でありながらも普通に生活しているのも事実である。それがどう判断にされるか不安だった。精神的に毎日苦労しているのだがそれをわかってもらえるだろうか。車を運転しながらいろんな思いが去来した。だが容赦なく目的地は近づいてくる。よし、腹を括くろう。私は覚悟を決めた。包み隠さず現状を伝えよう、そして判断は全て委ねよう、と。私は自らまな板の上に乗ったのである。病院に着くとカウンセリングルームに通され、ここで待つように言われた。待った時間は十数分だったと思うがとても長く感じられた。まるで面接試験待ちのような心境。緊張はレッドゾーンを越えていた。岡部先生が姿を現した。あいさつを交わし雑談をしていると少しずつ緊張が解れてきた。意外にもとても話しやすい方だった。そしていよいよ本題に入っていく。まずはこう言われた。

「エダさん、これまで気丈にがんばったね」

 特に身の上話をしたわけではない。事前に私の生い立ちを知らせていたわけでもない。ねぎらってくださる気持ちが嬉しかった。それからいろいろな話をした。岡部先生ももともと酷い吃音だったそうだ。だから私の苦労を察してくださったのだろうと思った。ただし先生の吃音は、歳を取るにつれて軽減されてきたそうだ。私も言われなければ吃音者とは思えなかった。そんな話から徐々に先生の思いを知った。「吃音者は困っているんだよね。だって周囲に理解されないんだもん。だから障害者手帳を取得して少しでも周りから理解が得られたら気持ちに余裕ができるかもしれないじゃない。そうしたら吃音だって和らぐかもしれない。それで前向きに生きることができたらそれは意味がある行動だと思うんだよね」

 我が意を得たり。私は思わず膝を打った。まるで私の思いを全て理解してくださっている。夢のようだった。さらに私の吃音の状態に関して、日常生活や仕事で苦労していることなどを詳しく訊かれた。私は必死に答えた。それは一時間以上にも及んだ。

「よし、わかった。診断書は郵送するから」

最後にこう言われた。これって診断書を書いてもらえるということなのだろうかとぼんやり考えていた。その後はしばらくこれまでの苦労話などとともにこれから吃音で苦労している方々のために何ができるかなどの意見交換をした。こういう話はこれまでだれともしたことがなかったのでとても前向きな気持ちになれて嬉しかった。帰りの車の中でもその余韻に浸っていた。今回の私の行動は決して間違ったものではない、自信を持とう。そう思った。そして診断の結果なんてどうでもいい、先生に出会えただけで十分。診断書のことは完全に頭の中から消えていた。

 岡部先生とお会いしてから二週間ほど経ったある日のこと。仕事から帰ったら一通の封書が届いていた。送り主は旭川荘南愛媛病院。高いハードルと思われた診断書が同封されていた。診断書のほかに、困ったことがあったら何でも相談してくださいというメッセージまであった。お会いして話をしているときのことを思い出して胸が熱くなる。希望通り診断書を書いてもらうことができたのだ。達成感もあった。しかしこれがゴールではない。診断書と顔写真を持って行き、役場の福祉課で申請手続きをしないといけないのだ。もう最終コーナーを回ったも同然。早めに行こうと思っていたが、ここからがなかなか進まなかった。それは田舎故の理由だった。人の目が気になったからである。田舎の町役場のこと、誰誰が障害者手帳の申請をしたという情報はどこからともなく漏れる。田舎は個人情報などダダ洩れなのだ。役場の職員はどこかで誰かとつながりがある。病歴などは本来センシティブ情報に当たり管理が一層厳格に求められるのだが、そういう意識は薄いのが現状なのだ。福祉課に行くところを見ている人だっている。そんな中で堂々と役場に申請に行く勇気が出なかった。また私の行く手を阻むように役場は平日でないと開庁していないので、仕事がある平日は出向くことができないときた。これも言い訳の一つだった。そしてその間にやっぱりこの思いが頭を擡げてきた。私は障害者になるのか、と。

 決して障害者を下に見ているわけではない。見かけ上は障害者ではなく、しかも慎ましながらもごく一般的な生活を送っている私が障害者の枠に自ら入ろうとしている。それをどう思われるのだろうか。やはり人の目が怖いと感じるのだった。だがある日、そんな思いを振り切って私は腹を決めた。診断書には五五○○円かかったし、愛媛までの往復のガソリン代などかけた費用を考えると放っておいてはすべてが無駄になる。そして何よりも当初の目的は何だったのか。吃音をわかってもらうための証拠が欲しかったのではないか。だったらここまできて歩みを止めてはいけない。たまたま年度末の年休消化で休みがもらえたことも背中を押してくれた。今日しかない。そうと決まればあっさりと役場に足が向いた。緊張を抱えながら役場福祉課に行った。もう誰が見ていようと誰が何を言おうとやるしかない。担当者から説明を受け申請書を記載、必要書類を確認してもらった。申請書を書く手が震える。時間がとても長くかかったような気がした。でも終わってみたらわずか十五分ほど。審査がありますが通ったら書類が郵送されるのでそれを持ってきてください、それと引き換えに障害者手帳をお渡ししますとのことだった。診断を受けてか一ヶ月半ほど経っていた。

 役場福祉課の玄関をあとにしながら、なんだこれだけのことだったのかと拍子抜けした自分がいた。それは旭川荘南愛媛病院に電話をして予約を入れた後や初めてその病院にかかった後の、やってしまえばなんだこれだけのことか、というあの感覚だった。その間悩みに悩んで無駄に多くの時間をかけた分、終わってしまえば一瞬の出来事だったと感じる。要するに時間をかけるほどの難しい手続きではなかったのかもしれない。そう思うと考え過ぎだったのかも。自分が恥ずかしくなった。手続きが終わりあとは結果を待つだけだった。もう申請が通っても通らなくてもいい。よくここまで頑張ったじゃないか。自分との闘いに勝利したような気がした。そして申請から二ヶ月ほど経った五月下旬、役場福祉課から書類が届いた。内容から見るとどうやら申請が通ったようだった。すぐに半休を取って役場福祉課に出向いた。これまでの反省からすぐに行ってきた。もうここまできたらもらうしかないのだから。だれが見ていようともかまわないと開き直った。今まで私の中の、弱いもう一人の自分はいなかった。

役場福祉課ではいろいろな説明を受けた。税制の優遇があるということ、医療費の還付が受けられる可能性があるということ、公共交通機関が割引料金で利用できることなど。はっきり言ってそれらを狙って障害者手帳を取得したわけではない。そう思いこの部分はあまり真剣に聞かなかった。代わりになぜ障害者手帳を取得しようとしたのかを再度考えていた。最初はただ単に客観的に自分を吃音だと証明できるものが欲しかった。それが障害者手帳だった。でもそれを得るための動きの中で弱い自分が現れた。そんな自分と闘う中で、見えてきたものがあった。それは行動することの大切さだ。吃音者は声を上げようとするだけで苦労するし、うまく思いを伝えることができないからと声を上げることに尻込みしてしまうことが多い。自分の意思をオープンにしていいのだろうかと迷うのだ。しかし自ら動かなければ何も変わらないし、形はどうであれしっかりと自分の意思を伝えなければ何も変わらないということがよくわかった。今回の一連の行動で私は自ら動いた結果、多くのことを経験し、素晴らしい出会いがあり、最終目的だった障害者手帳を手に入れた。その経験が新たな私となるのだ。そう思った。いわば私を成長させてくれたのだ。

 説明が終わり役場福祉課をあとにしてすぐに車に乗り込んだ。すぐに手にしたばかりの精神障害者保健福祉手帳を出してしばらく眺めていた。ここまでの苦労を思い出そうとしてみたが出てこなかった。その苦労は、私が咀嚼し栄養となりすでに血や肉になっているのだと思うと合点がいった。自宅までハンドルを握りながら、一つ成長したかもな、と思った。ちょうど五十歳になったばかりのある晴れた日の午後、私は正式に障害者手帳を手に入れた。五十歳になってもまだまだ成長の余地はあったんだな、と思うとちょっと笑えた。後日障害者手帳の取得を会社に届出た。企業は一定の割合で障害者を雇わなければならないという法律がある。具体的には障害者雇用率制度というものがあり、企業は従業員の一定の割合以上の障害者を雇用しなければならい。細かい計算は省くが、従業員が四十三人以上いる企業は一人以上の障害者を雇用しないと納付金を納めなければならないのだ。もちろん精神障害者保健福祉手帳保有者も法定雇用率に加わることになる。そして障害者手帳の保有者に対しては合理的配慮を施さなければならない。これは企業の義務である。平たく言うと仕事上吃音で困ることがあれば仕事の内容などを再考してくれと訴えることができるのである。これが岡部先生のおっしゃる気持ちの余裕につながるのだろうと思った。

 その余裕を実感できたかどうかわからないが、取得から二年の月日が経った昨春、精神障害者保健福祉手帳の更新時期を迎えた。もちろん愛媛まで行って岡部先生の診断を受け診断書を書いてもらってきた。二年ぶりの再会。吃音談議に花が咲いた。

「いろいろ葛藤があったけど障害者手帳を取得してよかったです」

と感謝の念も込めて伝えた。障害者手帳を取る前と取った後では何か変わったことってありましたか、と訊かれた。私はこう答えた。

「気持ちの持ち方が大きく変わりました。今までは正直自分に自信がありませんでした。それは間違いなく吃音だったからです。でも今は少しずつそんな自分を受け入れることができるようになりつつあります。私は私。私が吃音だと客観的に証明できるものがある分堂々としていられるようになりました。障害者手帳を自分の経済的利益のために使おうとは考えていません。障害者手帳はあくまでも自分が自分であるための御守りみたいなものだと考えています」

そう答えた。あれ、わりと思ったことが言えてる。自分の言ったことに自分で驚いていた。これこそが気持ちの余裕がなせる業なのだろうと思った。

「そうそう、それでいいんだよ。」

先生は大きく頷きながらさらに続けた。

「それで前向きな気持ちになってさ、クオリティオブライフが上がったら手帳の意味はあるんだから。これも治療の一環なんだよね」

心なしか嬉しそうに見える。私は、そうですよね、と返答した。そして思い切って以前から温め続けていたことを先生に伝えようと居住まいを正した。

「実は二年前障害者手帳を取得したころから私の歩んできた吃音の歴史を文章にして残しておきたいと考えるようになりました。障害者手帳を取得した一連の心模様も含めて書き留めておこうと思います。吃音で悩んでいる方の一助になればいいと思っています」

「おおっ、それはいいことだよ。書けたら今度読ませてよ」

先生から即座に返答があった。どんなものになるか興味があるようだった。診察が終わり、先生はわざわざ玄関まで出てきてくださった。そして別れ際にこう言われた。

「もしよかったら吃音で悩んでいる人に手帳の取得を勧めてみてよ」

「もちろん」

私は大きく頷いた。最後に握手をして旭川荘南愛媛病院をあとにした。

 前回と同じく二週間ほどしてから診断書が送られてきた。また役場福祉課に行かなければならない。だが初めてだった二年前とは違い、今回は時間を空けることなく、しかも堂々と行ってきた。もう弱い自分はどこにもいない。再申請して待つこと二ヶ月。四月末には手続きも無事に終わり有効期限がもう二年延びた。障害者手帳を取得して三年目に入ったことになる。今も御守りとして常に持ち歩いている。だが手帳にはよほどのことがない限り頼らないと決めている。いつも持ち歩くことで自らの行動で道を拓いたという自信を忘れないようにしたいだけだ。だから僕は障害者だと声を出して言うことはない。だが障害者手帳をもっているのは事実である。それは、私がこれからの人生を前向きに生きていくためのパスポート。そう考えるようにしている。

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