研究ノート13:技術成果の享受と批判
2020年10月09日
岩波書店の図書(2020年10月号)の巻頭に「福島の哲学者とオルテガ」と題する一文がある(宇野重規 うの しげき 政治思想)。以下はその要点である。
かって福島県に佐々木孝という哲学者がいた。彼は生涯をスペイン思想の探求にささげた。この地で福島原発事故を体験した佐々木は、東北のみならず日本とは何か、東北と日本の再生はいかにして可能かを模索した。佐々木にとって事故の原因はもちろん、そこに至った日本の近代を徹底的に問い直すことなく目をそらす日本の現状があった。彼の残した遺稿により岩波から「大衆の反逆」が刊行された。彼のいう大衆とは、文明の便益を享受しながら、その文明を可能にしたものについて問わない人々であった。
イリッチの「脱病院化社会」は医療というものを批判的に考察したものである。医療の恩恵を文明の便益と読み替えれば、その著作は文明批判の一つである。もし、文明の便益を享受しながら、そのことを問わない人々は例え研究者、学者、識者、専門家であっても彼の言う「大衆」ということになるのであろうか。「大衆の反逆」を読む必要がある。
さて、ここで二つの事柄に思いいたる。一つは文明(医療)の恩恵は膨張の一途をたどっている今日の状況である。イリッチが脱病院化社会を著してから半世紀が過ぎる。この間の医療の進歩と社会的普及は目覚ましい。それがどのくらいの程度と範囲に及ぶのかを把握しなければならない。それにはグローバル化の中で拡大してきた恩恵についての格差も含まれる。
二つ目はイリッチが十分に明らかにしていなかった(と私は考える)、医療の膨張を許容し、推進する原因、要因あるいはループの存在である。医療の恩恵の影響の一つの方向性は医療そのものを肥大化させてきた。その結果、この方向性は社会を医療依存的な性格に変質させてきたことである。社会が医療依存性を強めることで、医療の進歩と普及が進み、それがまた依存性を強化するという、単純化すればそのようなループが想定される。
イリッチの考察は主として、社会の医療に対する依存性の進展(医療化)とその弊害を批判の対象としたものと考える。半世紀が経過した今、医原性を再考察することは医原性に関する定点観測の第一歩になるのかもしれない。
ところで川喜多愛郎と佐々木力は「医学史と数学史の対話」[1]の中で次のように語りあうところがある。
川喜多:メディシンは技術(テクネー)と思っています。キャッセルの「癒しの術」の原題はThe Healer’s Artですが「アート」はラテン語でアルス、ギリシャ語ではテクネーですね。
佐々木:古代ギリシャでは厳密な学問はエピテーメーと呼ばれ、テクネーと対比された。しかし中世になって原則的に奴隷制度がなくなり、労働が尊ばれるようになったこともあって技術は尊敬される営みになります。医学では学問と技術の交流が一貫して意識されているのですね。
川喜多:今日の医学(メディシン)は近代科学の生物学の上に立つテクネーです。(中略)ただ技術は普通「もの」を対象としてそれを作り替える営為」であるのに対して、メディシンは例外的技術で、それは「悩み」の中にある人間を対象とします。(中略)おのずから常に医者と患者という人間関係を軸として営まれるわけです。医術は本質的に技術的・倫理的ともいうべきユニークな営みです。
川喜多:医師の仕事は「治癒」(キュア)であり、看護婦の仕事は「看護」(ケア)といわれますが、私らは少々不同意です。悩んでいる、サファリングの中にいる人を助ける、助力するのがメディシンであると考えますからキュアとケアは一つでなければならないのです。
佐々木:癒しの術のことを私達は普通「医学」と一言で捉えていますが、それはキュアとケアが一体の術で、されに言えばケアの方が根源的であるような術ですね。
川喜多:おっしゃる通りです。
彼らの対話のこの部分は、医学、医療、治癒、治療、看護、介護、養生などの言葉が分業と専門化によって独立した領域として、今日受け止められていることを示唆している(個人的にはこれらの言葉をひっくるめて当面、医療と呼んでみようと思う)。川喜多の、「医学をユニークな技術」とみる視点は私にとって極めて重要である。川喜多と佐々木のこの対話は、鈴木先生の推薦で読んだ、「医学は科学ではない」[2]という本に対する一つの回答にもなりうるとおもう。同書の指摘については別の機会に考察してみたい。
[1] 川喜多愛郎,佐々木力(1992). 医学史と数学史の対話-試練の中の科学と医学-.中公新書.
[2] 米山公啓(2005).医学は科学でない. 筑摩書房.