研究ノート14:歴史を変えた10の薬
2020年11月23日
町の図書館で借りた、「歴史を変えた10の薬」は興味深い書物である。第1章は「喜びをもたらす植物からアヘン」である。アヘンはケシの実の外皮の浸出液からとれる。1万年前ぐらいには食物あるいは薬として使われていたと推測されたと同書に記載されている。ケシはギリシャ文明に入り込み、ヒポクラテスは薬の原料としてよくケシに言及したとされる。ある歴史家は「アヘンが魅力的なのは身体が楽になり、想像力がわいてくるところだ。(中略)精神的身体的不快感は希望と幸福な平穏に取って代わった」と述べているという。ギリシャの医師はアヘンを使い始めると、止められないことを分かっていた。紀元前三世紀のことである。しかしアヘンの利益は危険性よりはるかに優っていた。その後、幾多の歴史的、世界的範囲の中での紆余曲折を経て現代では厳しく規制されている薬物となっている。しかしアヘンの持つ快楽性と依存性を引き継ぐ化合物は技術の進歩により次々と発見・誕生してきた(アヘンを出発点とする一連のアルカロイド類)。その代表的なものはモルヒネである。アヘン製剤はオピエートとも呼ばれる。
現代のアメリカでもっとも深刻な薬物問題はオピエートの濫用である。世界保健機構WHOはオピオイドの濫用に深い懸念を抱いている。Wikipediaでは次の記載がある。
オピオイド (Opioid) とは、ケシから採取されるアルカロイドや、そこから合成された化合物、また体内に存在する内因性の化合物を指し、鎮痛、陶酔作用があり、また薬剤の高用量の摂取では昏睡、呼吸抑制を引き起こす。医療においては手術や、がんの疼痛の管理のような強い痛みの管理に不可欠となっている。このようなアルカロイド(オピエート)やその半合成化合物には、モルヒネ、ヘロイン、コデイン、オキシコドンなどが含まれ、また合成オピオイドにはフェンタニル、メサドン、ペチジンなどがある。これらは本来的な意味で麻薬(narcotic)である。オピオイドとは「オピウム(アヘン)類縁物質」という意味であり、これらが結合するオピオイド受容体に結合する物質(元来、生体内にもある)として命名された。内因性のオピオイドにはエンドルフィン、エンケファリンなどがある。 オピオイド薬の使用には、オピオイド依存症(英語版)や、離脱症状、また過剰摂取による死亡の危険性がある。そのため多くの国で規制物質となっている。
アメリカでは、2015年内には2.4億件のオピオイドが処方されており(米国の全成人に対して1処方に相当する)、薬物中毒死の43%までも、オピオイド医薬品の過剰摂取で占めている。2014年にもアメリカ神経学会は頭痛、腰痛、線維筋痛症などの慢性の疼痛では、オピオイドの使用は危険性の方がはるかに上回るという声明を行っている。死亡は止まらず、2017年にはアメリカで「オピオイド危機」と呼ばれる公衆衛生上の非常事態が宣言された。 OECD25カ国を対象とした調査では、オピオイド関連死亡(ORD)の平均は2011年から2016年にかけて20%以上増加しており、その要素としてOECDは疼痛管理目的の処方、および過剰処方の増加を挙げている。そのためOECDは根拠に基づく臨床ガイドラインや、処方サーベイランス強化などにより、処方規制の改善が必要だと勧告している。オピオイド乱用は医療サービスへの大きな負担である。 この状況は古典的な意味の薬害ではなく、処方という正当化された医療行為[1]を通じた薬害の新しい形であると言えよう。米国は医原性の最新の様式を社会的に享受しているのである。
もう一つ注目したいことは、ヒトは内因性のオピオイド(エンドルフィンなど)を持つということである。依存性のない鎮痛薬を目指して多大の努力がはらわれてきたが今日まで全て徒労に終わっている。その原因は内因性のオピオイド受容体がヒトに存在するためと考えられている。ランナーズハイはヒトの脳に内因性のオピオイド受容体が存在するために発現する高揚感である。これまで依存性のないオピオイドを探索するために多くの試みがなされたが、いずれも不首尾に終わっている。その理由は生物に内因性のオピオイドが存在するためだとされる。それは生存するための行為、行動が現代では及びもつかない苦闘であった時代に、それを進んで行おうとする進化の仕掛けではないかという解釈もできよう。オピエートが与える快楽性と依存性が不可分のセットになっていると考えると、ヒトの知性の中に快楽や満足を求めることが埋め込まれており、それが知性を発達させ、社会を進歩させてきた源泉ではないか、ということに思い至る。
サイモンは人間の行動原理は満足化satisfacingであると提案している[2]。
「人にとってある案がどの程度好ましいかについてある要求水準を持っている。満足化理論においても信頼のおけない効用関数の代わりに、利益、喜び、幸せ、満足などを測る人間的な測度を取り扱うために心理学は要求水準という概念を採用した」
ここではサイモンの提唱する満足化理論がモデルとして成功しているかの議論ではなく、人間の行動原理が、利益、喜び、幸せ、満足など人類が共有する感性をベースとしていること、そして、それは内因性のオピオイドとその受容体の存在に帰着するのではないかということである。この考え方を医療に適用してみると、医療者には少なくとも満足を得る点が二つある。第一に患者を病苦から救い出すという点であり、第二はその治療が困難であるほど成功した場合の高い自己満足であろう。この満足や達成感は多分に医療者という知的な職業と不可分である。他方、患者にも医療によって病苦や死から逃れられるだけでなく、健康の回復そして社会復帰という自己尊厳の回復の満足が得られるであろう。患者の満足は多分に身体的、心理的なものに根差している。
つまり医療を施す側、受ける側にはそれぞれ満足させるべきものがあり、それらが相補的にかみ合うところに医療が成立する。とはいうものの片方は知的満足を求め、もう片方は身体的、心理的満足を求めるものであるなら、医療が真に患者に寄り添うものとして成立することは極めて難しいことであろう。医療がそのようになっていないことの状況証拠は枚挙にいとまない。次に考えるべきことは、私たちの「満足」には限度があるのか、ないのか。そして医療という介入行為の本質とはなにか、ということである。
[1] ここでの医療行為の主なものはガンなどの疼痛管理である。しかし痛みの原因は種々あり、また根治がむつかしい。根治よりも痛みという不都合を非表示にする手段としてオピオイドが用いられていると言えよう。しかも痛みを口実にした患者の処方要求を抑制できないところに現代社会の課題がある。
[2] 中山 晶一朗. サイモンの限定合理性とプロセス記述:土木計画へのインプリケーション. https://ci.nii.ac.jp/naid/130004559724.