Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(14)

 

プラスチック子宮のための工学

 

これまで私は、医療と産業の複合体の制度的な構造に対して4つの批判を扱ってきた。これらはいずれも、医療を治療計画や工学の一形態として扱っているため、医療官僚機構への依存を強化するものとなっている。それらは病人や病気の恐れのある人々の生活に、外科的、化学的、行動的な介入の戦略である。第五の批判は、こうした目的を否定するものである。批評家たちは医学を工学的な努力と見なすことを改めることはせずに、医学的な戦略が失敗するのは、戦略として病気に過剰な労力を集中させるものである一方で、人々を病気にする環境を変える努力をほとんどさせないものであるからだと主張する。臨床的介入に代わる方法の研究のほとんどは、人間の社会的、心理的、身体的環境の専門的システムのついてのプログラム工学である。「非健康サービスの健康決定要因」は、主に環境に対する計画的な介入に関するものである。治療技術者は、将来病人になるかもしれない、あるいは現実にいる患者から、患者も一要素として構成している、より大きなシステムへ介入の矛先を移す。病気の治療の代わりに、健全な人口集団の形成を目指すべく、環境をデザインし直すのである。

 環境衛生工学としてのヘルスケアは、臨床科学者のそれとは異なる領域にあるものである。その関心は、病気対健康という図式ではなく生存である。つまり特定の人物がどうこうというよりも集団や個人に降りかかるストレスの影響である。つまり個々の人間の目的とそれを達成する能力との関係よりも、宇宙の中での人間という種が生存する環境との関係であり、また現実の人びとの目的とそれを成し遂げる能力との関係などでもなく、環境の中で進化してきた人類との関係である。

 一般論として、人類は遺伝以上に環境に負うている。この環境は工業化によって急速に歪められつつある。人間はこれまで並外れた適応能力を示してきたのであるが、非常に高いレベルではあっても致命的には至らない災禍を受けながらも生き延びてきた。デュボスは、過去に飢饉や疫病、戦争を生き延びたように、人類が第二次産業革命や人口過剰のストレスに適応できるようになることを危惧している。彼がこのような形で人類が生き延びるのを恐れながら語るのは、生存のための財産である適応能力が、大きなハンディキャップにもなるからである。というのも病気の最も普遍的な原因は、適応性を必要とする性質のものであるからである。

 医療制度は、人々の気持ちや健康への配慮を欠いたまま、人体の故障を最小限に抑えるシステム工学にひたすら邁進している。患者志向の医療から環境志向の医療に移行によって、不吉な結果が二つ生じることが予見されるが、それらは逸脱が生じた場合にどちらのカテゴリーに属するのかというはっきりとした境界についての意識の感覚が失われること、および、総合的治療の新たな正当性である。医療、産業安全、健康教育、精神的再調整はすべて、人々を工学的システムに適合させるための人間工学の別名である。医療提供システムがその要求に応えられないということが頻繁に生じると、現在病気と分類されている状態が、やがて犯罪や反社会的行動に進展するようになるかもしれない。アメリカの囚人に対する行動療法や、ソビエト連邦における政敵の精神病院への収容は、治療専門職の統合が導くであろう方向性を示している。つまり医学、教育、そしてイデオロギー的理由によってなされるそれぞれの治療の境界線がますます曖昧になっていくのだ。

 ここに至って医療に対する大衆の評価だけでなく、環境工学の夢によって生み出された怪物たちに対する大衆の幻滅も必要になってくるのである。もし現代医学が、人々の感情や癒しを不要にすることを目指しているとすれば、環境医学は必ずやプラスチック製の子宮という、無人々の機的、無感情となった欲求を満たすだけのものとなる。

 

Previous
Previous

Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(15)