Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(13)
生命のための科学的組織
応用科学としての医学を信じることは、医原性に対する第四番目の対策を生むが、それは医療専門職の無責任な力を必然的に大きくし、結果として医学による健康被害も増大させる。医学研究と社会組織の科学的基準を高めたいとする信奉者たちは、医学が病原性を持つのは、社会に放たれた圧倒的な数の悪徳医師のためであると主張する。慎重に選別され、十分に訓練されたごく少数の意思決定者が、同僚に厳しく監督され、誰のために何をどのように行うかをこれまで以上に効果的に主導すれば、医学が使える強力な資源は、人々の利益のために使われるであろうことが保証されるだろう。
このように科学を偶像崇拝することは、医学があたかも普通の科学と同じように行われる研究、患者が自律性を持った人間ではなく症例として具体化したものであるかのように行われる診断、そして衛生技術者によって行われる治療の3つのアプローチが融合して現在の健康否定に至っているという事実を見落としている。科学としての医学はある境界線上にある。科学的方法論は、モデルについて行う実験を想定している。しかし、医学はモデルではなく、被験者そのものに実験を行う。
しかし、化学分析が陶器の美的価値について教えてくれるのと同じように、医学は、癒し、苦しみ、そして死という意味のある状況について教えてくれる。応用科学を追求していく中で、医療の専門家は伝統、経験、学識、直感を駆使する職人集団の目標を志向する努力を止め、科学的原理を神学とし、技術者を従者とする、宗教の聖職者だけに許された役割を果たすようになった。今や医学は治る見込みのある患者を治癒させるという、経験に基づく医術であるよりも、病気や障害から、さらには死という必然からも人類を救うための合理的なアプローチに関心が向いている。技術から科学へと乗り移ることで、医師の団体は目の前の病人の利益に適う実践技術の親方衆を導くという職人集団の特性を失ってしまった。医師の団体は、科学的な原理と方法を医療全体に適用する、官僚的な管理者の正当性を持つ組織となったのである。
言い換えれば、臨床医は検査室に閉じこもってしまった。治療者としての人間的能力や患者の社会的立場の総体を考慮せず、予測結果ばかりを主張する現代の医師は詐欺師の態度である。医療専門職集団の一員として、医師は科学チームに欠かせない構成要素である。実験は科学の方法であり、医師が行う記録は、好むと好まざるとにかかわらず、科学的事業データの一部である。治療とは、統計的に成功の確率がわかっている実験をさらに繰り返すものである。
科学の真の応用となる全ての操作に当てはまることであるが、失敗は未知の要因に起因すると言われる。つまり特定の実験状況に適用する法則についての知識が不十分であったり、実験者側の方法と原理の適用に個人的能力が欠如していたり、あるいは患者そのものというとらえどころのない変数をコントロールできないことなどである。患者をうまくコントロールできればできるほど、この医学的試み(=治療)は結果を予測しやすくなるのは明らかである。そして、患者集団の結果が予測しやすくなればなるほど、その医療機関は効果的であると見なされる。
医学界のテクノクラートは、社会のニーズよりも科学の利益を図ろうとする傾向がある。開業医たちも、全体として研究官僚の一員である。彼らの第一の責任は、抽象的な意味での科学、あるいは漠然としてはいるが、自分の専門分野に対するものである。受け持つ患者に対する医師個人としての責任は、すべての同僚のすべての仕事と、患者一般に対する漠然とした権力意識に溶け込んでいる。医学者が用いる医学はそれが治癒につながるか、死に至るか、あるいは患者がどのように反応を示すかに関わらず、正しいとされる治療を提供する。
この3つの転帰はそれぞれある頻度で起こり得るとする統計表によって正当化されているのである。具体的な患者に対する医師は、自分の医術が成功した場合、患者は医師のお陰であると感謝するのと同様に、医師も自然の力と患者のお陰であることを忘れてはならない。しかし、認識の不一致があってもそれを容認するレベルが高いときほど、治療者と科学者という乖離した役割を遂行することができるのである。患者が医療にかかるとき、経験的な医療を全て排除することで、医原性に対抗しようとする考えは、尋問官ともいうべき、現近代における十字軍のようなものである。彼らは科学主義という宗教を利用して、政治的判断を軽んじているのである。研究室で行う検証が科学の方法であるのに対して、現実の人々が経験している今いまの問題を、過去の経験に照らして裁きを行う陪審に訴える対立者の争いは、政治的手段となる。
科学で測ることのできないものに対する一般社会の認識を否定することで、純粋で、正統的で、確立した医療行為を求めることは、医療というものをあらゆる政治的評価から守ることになるのである。一般の人々が語る言葉より科学言語を宗教のごとく優先させることは、専門家の特権の大きな防波堤である。(とはいえ)このような専門的な用語を、医療に関する政治的な議論に押し付けることは、その効力はいともたやすく失われる。医学を脱専門化するということは、正統な(専門的)能力の排除を要求する場合と同じく、専門用語の禁止を意味するものではなく、一般大衆による監視や不正行為を暴くことに反対するものでもない。
そうではなく、医学を脱専門化するということは、大衆が医学を神秘的なものとしてあがめることに反対し、治療者を自称する者同士の相互認定に反対し、医療ギルドと医療機関を公的に支援することに反対し、個人や地域社会が治療者として選び、任命する人々が、利己的で法的な特権的待遇を享受することに反対する方向への動きを意味する。医療の脱専門化とは、治療目的のために公的資金を投入することの否定をするものではないが、ギルド構成員の指示や管理下にあるいかなる資金の支出に対しても疑義を呈する。現代医学の廃止を意味するものではない。いかなる専門家も、自分の患者のために、他の同僚が妥当なものとする水準以上の治療資源を浪費する権限を持たないということである。
最後に断っておくが、そのことは、人が人生の中で特別な場面で生じる例外的なニーズ、つまり、生まれ落ちたとき、足を折ったとき、足に障害を負ったとき、死に直面したときなど、それぞれの場面に特化したニーズを無視するということではない。医師をグループ内の免許制にしないという提案は、彼らの生業を評価しないという意味ではなく、むしろ評価は、同業者によるよりも、情報を与えられたクライアントによる評価の方が効果的であるという意味である。魔術まがいの医療の高価な装置へ、直接的な資金提供がだめだということは、国家が医療カルトのお偉方による搾取から人々を保護しないということではなく、そのような慣行を確立するために税金を使用してはならないということを意味するにすぎない。医療の脱専門化とは、技術的進歩が科学原理の応用によって人間の問題解決が可能となるという神話、不可解な小細工が増えることで労働の専門化が進み、恩恵が得られるという神話、非人間的な医療機関へ依存を高めることが、互いに信頼し合うことよりも良いという神話の仮面を剥ぎ取ることなのである。