Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(15)
健康の営為の回復
多くの苦しみは人為による。人間の歴史は、奴隷化と搾取の長い絵巻のようなもので、征服者の叙事詩を物語たり、犠牲者の哀歌を歌う。この物語の中心は戦争であり、戦争とそれに伴う略奪、飢饉、疫病である。しかし、いわゆる平和的とされる事業による無益・有害な身体的、社会的、心理的副作用が、破壊力において戦争と肩を並べるようになったのは、近代になってからである。人類は、多方面に適応することで進化を遂げてきた唯一の動物である。捕食者や自然の力に屈することはなくとも、他者によって利用され、あるいは虐待に対応しなければならなかった。そうした軋轢や隣人との闘いの中で、人の性格や文化は形成されたが、本能は衰え、生存の縄張りは家に変わった。
動物たちは自然環境の変化に応じて進化を遂げ、適応していく。人間のみが、挑戦してくるものを意識し、困難や脅威となる状況への対応は、理性的な行動や意識的な習慣という形をとる。人間は自然や隣人との関係を設計することができ、その企てが部分的に失敗したときでも生き延びることができる。忍耐強く試練に耐え、理解することで学ぶことのできる動物である。限界に気づいたとき、その限界に身を任せることができ、また身を任せなければならない唯一の存在でもある。痛みに満ちた感覚、障害、そして最終である死に対する意識的な反応は、人間の対応能力の一部である。反抗と忍耐、頑固な抵抗と諦観という能力は、人間の生命と健康になくてはならない要素である。
しかし、自然と隣人は、人間が開拓するべき領域のうちの2つにすぎない。3 つ目は死という運命が迫りくる領域であって、それは常に意識されてきたものである。人間が生存し続けるためには、これまで神話によって形作られ、支配されてきた夢もまた生き延びなければならない。そして今や、社会は最も優秀な構成員による分別のない強欲に対する対策案を考えなければならない。今日まで神話は、貪欲で嫉妬深く殺人的な妄想の実現に歯止めをかけるという機能を果たしてきた。神話は、この第三のフロンティアにおいて、その範囲内にとどまっていれば、庶民の安全を保証するものであった。神話は、神々を出し抜こうとする少数の者に必ず災いをもたらした。市井の人びとは病弱か暴力によって死に行くが、人間本来のあり方に逆らおうとする者には、神々のネメシスという天罰が下ったのである。
産業化時代のネメシス
プロメテウスは英雄であり、常人ではなかった。過激な貪欲(プレオネクシア)に突き動かされた彼は、人間の限界(アイティアとメソテス)を越えて侵入し、抑制を失った思い上がり(ハブリ)で天から火を盗んだ。彼がネメシスを招いたのは必然であった。彼の手足はコーカサス山の岩に鉄の鎖でつながれたのである。鷲が一日中彼の肝臓を食いちぎり、無情にも癒しの神々が毎晩肝臓を再生させ、彼を生かした。彼に下されたネメシスは、人間ではなく神に近づこうとしたが故の苦痛であった。絶望的で終わりのない苦悩によって、彼は宇宙(=神)の報復からは逃れられないことを永遠に想起させるものとなったのである。
今日、懲罰の社会的性質は変化している。欲望を産業の内に取り込み、それに対応して宗教的とも言える一連のサービス技術によって、傲慢さが広がった。際限のない物質的進歩は、すべての人の目標となった。産業化が生み出した傲慢さは、ファンタジーの持つ非合理性が限界というものを示唆するものであるという、神話が持つ観念を破壊し、狂気の夢に対する技術的回答を合理的なものに見せかけ、価値(観)の破壊を追い求めることを、提供者と依頼者による謀議に変えたのである。大衆にとってNemesisとは、今や産業の進歩がもたらす避けがたい反動である。現代のNemesisは、産業の全領域を覆う夢から生まれた物質的な怪物である。それは、普遍的な学校教育、大量輸送、産業に従事する賃金労働、健康の医療化など、広範囲かつ根深く広がっている。
継承されてきた神話は、もはや行動に歯止めを与えるものではない。人類が伝統的な神話を喪失した後も生き延びるためには、嫉妬深く、貪欲で、怠惰な夢に対して、理性的かつ政治的に対処することを学ばなければならない。神話だけでは、もはやそのようなことはできない。産業成長に対して政治的に限界を設けるけことが、神話の示す境界の代わりとなる。生存、公平性、有効性のために必要な物質的条件を政治的に探求し、認識・受容することが、産業的生産体制に制限を設けることになる。Nemesisは構造化し、常在化している。エリートが一般大衆に与えた放埓な不正や、悪化する環境との闘いにおいて、一般大衆を守るはずだった企業活動の副産物として、人為が創り出した不幸がますます増えている。
苦痛や障害、そして死の大きな原因は、そのように追い込むという意図はないにせよ、今日ではハラスメントである。私たちに蔓延する病気、無力感、不公正は、より良い教育、より良い住居、より良い食生活、より良い健康を求める戦略の副作用である。自発的な学習よりも計画的な教育を重視する社会は、あらかじめ用意された場所を維持することを教えることしかできない。移動手段を管理された交通機関に依存する社会も、同じことである。あるレベルを超えると、輸送に使われるエネルギーは、乗客大多数の自由度を奪い、隷属化し、エリートのみに利点をもたらす。
どんな新しい動力源も、技術も、公的な規制も、社会の移動度が高まり、その速度が速くなるにつれ、攻撃性や、予定の混乱、不平等の増大が生じることを防ぐことはできない。農業も同様で、食糧の生産と加工に資本が一定水準以上投入されれば、栄養の悪化が蔓延する。緑の革命の結果は、ゼウスの鷲よりも消費者の肝臓を徹底的にむしばむだろう。いかなる生物工学も、これ以上の栄養劣化と食の汚染を防ぐことはできない。サハラ砂漠以南のサヘルで起きていることは、迫り来る世界飢饉の予行演習にすぎない。これは一般的な法則の適用で導かれることである: 価値の一定割合以上が産業システムによって生産されると、自給活動は機能しなくなり、公平性は低下し、社会全体の満足度は低下する。
それは、かつて干ばつや戦争に伴って生じた散発的な飢饉や、善意と緊急輸送によって何とかできるような食糧不足ではない。今後起きるであろう飢餓は、富める国の工業化された農業が密度を増し、貧しい国の肥沃な地域に集中することで生じる必然の副産物である。逆説的に言えば、工業的に効率的な農業をさらに拡大することで飢饉に対抗しようとすれば、限界土地の利用を抑制することになって、大災害の範囲を広げるだけである。貧困層による富裕層のための資本集約的な食糧生産という趨勢が、労働集約的で地域的な新しい農村自治に取って代わられるまで、飢饉は拡大し続けるだろう。産業の驕りがある線を越えると、手ひどいしっぺ返しが現れるに違いない。進歩は魔法使いの弟子のほうきのように、もはや止めることができないからだ。産業の進歩を擁護する者が、進歩の代償を計算できるというのは、盲目か道義的に間違っているかのどちらかである。傲慢さによる不法行為は、償うことも、計算することも、無かったことにすることもできない。
産業発展のための初期投資は妥当なものに思えるかもしれないが、生産拡大に伴う複利の分割払いは、いかなる方策や対価をもってしても追いつかない苦しみをもたらすのである。社会の構成員が、工業的な必需品を買うために、さらに高い代価を日常的に支払わなければならなくなると、一つ買うごとに余計な苦しみも買うということが明らかにも関わらず、限界利益の追求に駆り立てられたホモ・エコノミクス(=経済人)は、産業イデオロギーのために自ら犠牲になるホモ・レリジオス(=狂信者)へと変貌する。この時点で、社会的行動は麻薬中毒者のそれに似てくる。期待は理性を失って、悪夢が如きものとなる。自ら招いた苦しみの方が、自然がもたらした被害や隣人による不法行為を上回るのだ。傲慢さは自己破壊的な大衆行動に動機を与える。古典的なネメシスは、特権の乱用に対する罰であった。
産業化時代のネメシスは、伝統的な神話や理性的な自制心を振り切り、技術的な夢の追求に従順に加担した報いである。戦争や飢餓、疫病や天変地異、拷問や狂気は未だ人間に分かちがたいものであるが、それらは今、ネメシスによって新たなゲシュタルトへと形作られている。どの共同体にあっても経済的進歩が大きくなればなるほど、苦痛、障害、差別、死において産業界のネメシスが果たす役割は大きくなる。依存のために技術を信奉する度合いが強ければ強いほど、浪費、劣化、発病性が増大する。このようなものは別の技術を用いて対処しなければならないが、ゴミの収集、廃棄物の管理、進歩によって文字通り余剰となった人々の処遇に従事する労働力も増えるのである。差し迫る大災害に対しては、教育カリキュラムや健康管理サービスを改善し、より効率的で汚染の少ないエネルギー変換器といった形をとるのであるが、それでも産業技術の向上に解決策を求めるのである。
ネメシスといえる状況がどのようなものかは認識されているが、その原因についてはいまだに、ウォール街であれ、政党であれ、それらが支配する私欲的な経営によって悪化した技術のどこに問題があるのかと探求されている。ネメシスは、根源的に誤ったイデオロギーに対して、社会が応答し具体化したものとしてまだ認識されていないし、主だった産業組織の非専門的な慣わしとなった構造が育んできた妄想が横行しているとまだ理解されていない。ガリレオと同時代の人々が、望遠鏡で木星の衛星であるジュピターの月蝕を観察することを拒んだのは、自分たちの地動説に基づく世界観が揺らぐことを恐れたからである。同様に私たちの同時代の人々は、彼らの概念化した社会政治の中心に産業的生産モードに替えて自主性を据えるなど不可能なことであると感じて、ネメシスを直視することを拒むのである。