研究ノート18: AIの医療への応用は何をもたらすか

2021年03月24日

 

大阪大学人間科学部と医学部病院が共同して実施する、AIの医療への応用のプロジェクト(AIDEプロジェクト)について参加している。このプロジェクトは英国のオックスフォード大学との共同プロジェクトで、私が参加しているのは日本側の部分である。先日その第一回目のディスカッションが開催された。プロジェクトのあらましについては別途紹介することとし、ここではAIを医療に応用することについて、その議論に参加した印象から若干の考察をしてみたいと思う。

 

AIを医療に応用が進み、いずれはBiomedicineの主役がAIになるのか、あるいはAIを使いこなした医療システムになるか、そのあたりについて一般市民の声に耳を傾けようという意図が今回のプロジェクトにあると理解している。第一回の議論で大学側から示されたプレゼンテーションでは、AIを応用すべき医療の細分化された多くの分野(例えば電子カルテ、読影など)が挙げられた。この未来図では、医療の質は今より向上し、効率、生産性も改善することで患者の利益になることが強調されている。一方でプロジェクトの参加メンバー(一般の人びと)から医療従事者の倫理性、責任の所在などがAI時代の課題になるであろうとの意見がでた。

 ところでBiomedicineの広がりとレベルは数十年前と比べて格段の差がある。医療が治療可能とする範囲がますます広がり、その精度、正確性、信頼性とも増している。それにつれて人々の医療に対する信頼感も比例するように増しているように思える。ところがその一方で医療事故が起きたときの社会の反応、患者の反発は激しいものとなることがある。慈恵医大青戸病院事件(小松秀樹(2004).日本経済評論社)は、「医療に対する過剰な期待と報道姿勢」、「安全な手術はない」、などの書き出しで始まる。私も医薬品を含む医療に対する患者や医療側の過剰な期待感を経験したことが何度もある。一例は勤務していた製薬企業が販売していた局所麻酔剤に絡むものであった。この製剤は長く広く使われ、安全性プロファイルが確立した実績をもつ薬剤であった。この薬剤を用いて無痛分娩を行った大学病院で、分娩後の産婦にマヒが残るという事態が発生した。患者側は病院が責任を負うべき過失(あるいは怠慢)に基づく医療事故と認識していた。病院は患者と家族に説明を尽くしていたようであるが、納得が得られず、私は双方の話し合いの席に呼ばれて当該薬剤の副作用についてコメントを求められたことがある。

 この席で思ったことは、医療に対する信頼が増すほど、医療の限界というものが一般の人々に受け入れられるということは極めて難しくなるということであった。言い換えれば一般の人々にとって医療「事故」は過失がなければ起きえない、という文脈で理解されるものである。人知を尽くしても医療には限界がある、ということは頭で理解できても、不測の事態は医療の限界ではなく、医療者が責を負うべきエラーであり、根絶できるはずのものと、いう考えになっているかのようである。

 話をAIDEプロジェクトに戻す。

AIの医療への応用は何をもたらすか、という問いの前に、私たちの社会はなぜAIを医療に応用しようとしているのか、という問いから始める必要がある。前回の仮説へのヒント15では、第一種の過誤と第二種の過誤があることを書いた。これは医療を医療提供者care providerと医療という介入medical interventionの二つの部分に分けたときにも当てはまる。検査法の信頼性と検査結果の解釈、診察と診断、治療など医療プロセスの各段階で二つの過誤のいずれか、または両方の過誤が生じうる。AIを医療に応用すると第一種と第二種の過誤が低減するのだろうか?このことはAI医療が社会に受け入れられるために必須の指標である。医療界ではこれらの過ちに関するベースラインのデータを蓄積し、課題を見つけているのかAIDEプロジェクトの中で問うてみたいと思っている。

 二つの過誤がAIの応用によって今よりも抑制される状態が実現できるならば、医療提供者にとっても患者にとっても望むべきところである。とは言うものの、先に述べた信頼度が上がっても、事故が発生したときの患者の反応はなくなるどころか、ますます強化されるのではないだろうか?精度や信頼性の向上は客観的な指標に基づく安全性を高めると主張できるが、患者の安心感や信頼感を高めることと必ずしも結びつかないとすれば、そこに現代医療の克服するべき課題があるように思える。指標で表される信頼度Degree of reliabilityは信頼感feeling of trustとは同一ではない。

 別の観点からAIが医療に及ぼすpositiveな?変化を想像してみよう。きっかけは次男が家にアレクサを持っていると聞いたことである。クラウドに個人の身体的、精神的データを蓄え[1]、他方で診断や治療法などのアルゴリズム、臨床例などを蓄えたAIによる医療支援システムは、個人レベルの医療との関りを大きく変えてしまうと想像する。家庭に優秀な医療助言者を持つことになる。セカンドオピニオンも確認できるし、今受けている治療の適切性も確認できるだろう。

 通信技術の恩恵が個人の生活に入り込み、あるいは電気の利用が各家庭で自己完結できるようになると同様、医療もまたAIによって個人あるいは家庭のレベルで自己完結性をもつ恩恵となりうる。そうなれば医者通いを大きく減らすことになるかもしれないし(医者の大半が失職?)、反対にAIのご宣託を信用できずに生身の医師をショッピングするという人も出てくるかもしれない。おそらくAIの医療への浸透のシナリオの一つはこのようなものかと想像する。こうなれば現代の医療システムの大きな変換を余儀なくさせるだろう。医師の権威は相対的に低下し、手間暇を要する看護、介護の役割がより大きな比重を占める。システムの転換が本質の転換をもたらすとは必ずしも言えないが、利便性と引き換えに失うものがあるかもしれないことに警戒する必要がある。

 このような想像が現実になったとき、私たちはより大きな安心感を、現代医療への信頼とともに得ることができるのだろうか?少なくとも医療と病を通じた人間の関係性は大きく変質するに違いない。そうなれば、私たちは病苦と死をどのように受容することになるのだろう。

[1] 母子保健手帳は、母親の妊娠中と新生児からのデータを経時的に蓄積することで、日本のどこにいても手帳をみれば赤ちゃんの健康の履歴を踏まえた医療保健ケアが提供できることを目的とした、日本の発明である。

Previous
Previous

研究ノート19:Artであった医療はどこでTechnologyとなったか?

Next
Next

研究ノート17:要素還元主義が作り出す仮想内部環境