Limits to Medicine Medical Nemesis: The Expropriation of Health脱病院化社会を読み直す(2)

Limits to Medicine

Medical Nemesis: The Expropriation of Health

 

・第II部社会の中の医原病 Social Iatrogenesis (原著page 37-62)

医原病の政治上の拡散 The Medicalization of Life: Political Transmission of Iatrogenic Disease

社会の中の医原病 Social Iagtorenesis

医療の独占 Medical Monopoly

価値のない医療? Value-free Cure?

家計の医療化 The Medicalization of the Budget

 

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第二部 社会の中の医原病

医原病の政治上の拡散

 

つい最近まで、医学は自然界に存在するものを強化してきた。傷の治癒を促進し、血を固めて止血し、細菌に対して自然免疫が打ち勝つように、である。今や、医学は理性の夢を工学的に実現しようとしている。例えば、経口避妊薬は、「健康な人に起こる正常な生理現象を止めるため」に処方される。治療法は、進化の過程ではかって生じたことのないような方法で、生物を分子や機械と相互作用させるよう仕向ける。移植は、遺伝的にプログラムされた免疫防御系を完全に抑制する。

 患者の利益は、患者の「ある状態」を操作する専門家の成功にあるという関係は、もはや仮定の話としてではなく、社会の疾病負担に対する医学の掛け値なしの貢献度を、医学界の外部から評価しなければならない。しかし、医学が引き起こす臨床上の健康被害について医学を非難することは、病原性医学を起訴する第一歩である。収穫時に見られるわだちは、男爵が狩りで走り回って村に与えた大きな被害を想起させるしかない。

 

社会の中の医原病

 

医療は、個人に対する直接的な攻撃だけでなく、その社会組織が環境全体に及ぼす影響を通じて健康の営為を損ねる。医療による個人の健康被害が、社会政治的に伝播していくうちに生じる場合、私は「社会の中の医原病」と呼ぶことにする。この用語は、医療が制度的な形をとることで人々の心を惹きつけるものになるもの、可能となるもの、あるいは必要とされるもの、まさにそれらの社会経済が変化することで健康の営為に対するすべての被害を指す。

 社会の医原病には、ある病因のカテゴリーを明確にするが、多くの状態が含まれる。それは、医療における官僚主義が、ストレスを増大させ、抵抗力を失った依存性を増幅し、苦痛に対する新たな要求を生み出し、不快や痛みを耐え忍ぼうとする気力を失しなわせ、(また)誰かが苦しんでいるとき、その人に何かを譲ろうとする気持ちを失わせることによって、そしてセルフケアの権利さえ奪うことで不健康を作り出すときに社会的医原病がもたらされる。

 すべての苦しみが「入院」させられ、家庭が出産や病気、死を受け入れなくなるとき、自分の身体を経験するための言葉がくどくどした官僚的なものに変わるとき、あるいは患者の役割以外の苦しみやうめき、あるいは癒しが(社会規範からの)逸脱というレッテルを貼られるとき、そして医療が標準化された社会の基本になるときに社会的医原病が生じる。

 

医療の独占

 

臨床の場合と同様に、社会的な医原性(inatrogenesis)も、偶発的な事象から医療システム特有の特徴を持ったものへとエスカレートすることがある。生物医学的介入の「強さ」がある限界を超えたとき、臨床における医原性は、エラー、事故、過失から、医療行為のどうしようもない濫用へと変化する。同様に、自律性をもった専門家があっという間に行き過ぎた独占の虜となり、人々(=特に病人)がその(独占された)環境への対応力を失ったとき、医療組織が社会的医原病を作るのである。(この)急進的な独占は、一企業や一政府の独占よりも根深いものである。それには多くの形がある。都市が乗り物を中心に建設されると、人間の足が切り捨てられる。学校の学習を優先させると、独学者が切り捨てられる。病院が危篤状態の人をすべてかき集めると、新しい形の死に方を社会に押し付けることになるのだ。

 

通常の独占は市場を買い占めるが、急進的な独占は人々が自分で何かをしたり、作ったりすることを不可能にする。商業的な独占は商品の流れを制限(するが)、狡猾な社会的独占は市場には出回らなくとも、価値のあるものを役立たないものとするのである。 急進的独占は自由と独立心にさらに好ましくない影響を与える。環境を作り直し、これまで人々が自分の力で対応することができた環境と置き換えることで、社会全体に対し商品の使用価値を強いるのである。徹底した教育は独学者を失業者に変え、集約農業は自給自足農家を破壊し、警察官を配置すれば地域社会の自己統制力を弱める。医学の悪質な広がりは、相互扶助と自己治療を軽犯罪や重罪に変えてしまうのである。

 

臨床的医原病が臨界に達すると医学的に治癒不可能となるが、医療業界の衰退によってのみ(流れを)逆転できるように、社会的医原病の発生は専門家の支配を縮小させる政治的行動によってのみ(流れを)逆転することができる。急進的な独占は、それ自体を糧とする。医原性のある医療は病的な社会を強化し、医療制度によって人々を社会的にコントロールすることが主な経済活動となる。それは、多くの人々が順応できないような社会の再編を正当化する。ハンディキャップを持つ人々に不適格者のレッテルを貼り、新たな患者のカテゴリーを作り上げる。産業労働とレジャーに腹を立て、病み、健康を損なった人々は、医学的管理のもとでの生活から逃れることができず、そのために健全な世界を求める政治的活動に心惹かれ、(それゆえに逆に)不適格者とされる。

 

社会的な医原性は、疾病の一般的な病因としてまだ認められていない。もし、診断というものが往々にして、急激な独占のストレスに対する政治的不満を、コストとストレスのかかるだけの治療法をさらに多く追加(承認)しようという要求に転化する手段として機能していることを(人々に)知られてしまえば、(医療)産業システムはその有力な自己防衛手段の一つを失うだろう。同時に、医原病が政治的にどの程度人々の間に行き渡っているかに気付けば、医学の技術的欠陥のカタログよりもはるかに深いところで、医療権力の根幹を揺るがすことになるであろう。

 

価値のない治療法?

 

社会的医原病(iatrogenesis)の問題は、しばしば医療者の診断権限と混同される。この問題を荒立てず、自分たちの評判を守るために、一部の医師は自明なこと、すなわち、医学は医原性のない治療はできないことを主張している。医学は、病気を常に社会的な状態として規定するのである。公的資格を持つ医療者は、病人として社会の中でどう振舞うべきかを患者に伝える。

 

どの文化も病気について独自の認識を持っていて、一例が衛生マスクである。医師は病気の特徴を掴み、患者に病人役割[1] を教えるのである。効き目のある治療薬が毒をもつリスクがあるのと同じく、医師の力が人々を合法的に病気にするのである。薬師は毒と害を操るのである。ギリシャの言葉である「薬」-ファナコンは、治す力と殺す力を区別していなかった。

 医学は道徳的な事業であり、したがって必然的に何が善で何が悪かを判別する。どの社会でも、医学は法律や宗教と同じように、何が正常で、何が適切で、何が望ましいかを定義する。ある人の訴えに対して(医学的にみた)病名をつけ、ある人は訴えがなくとも病気であると診断し、ある人の痛み、障害、そして死を社会的に認めないという職権も医学にはある。

医師は、痛みが単なる症状に過ぎないとか、ある障害が仮病であるか、あるいは間違いなく自殺であるかを判断する。その判断は、何が合法で、誰が有罪かを決めるのである。僧侶は何が聖なるもので、誰が禁を犯したかを決める。医師は、何が症状で、誰が病気なのかを決める。医師は道徳的な企業家であり、直すべき問題を発見する尋問権を課せられているのだ。

 

医学はすべての十字軍と同様に、新たな診断(法)という鞭を考え出すたびに、新たな部外者のグループを生み出す。(このような)道徳性は、犯罪や罪と同様に、病気においても暗黙のものとなっている。原始社会では、医療という手技を行うときに、道徳的な力の承認が暗認のうちになされていることは明らかである。悪霊と良い精霊を見分ける能力を持つことを自認する者でなければ、誰も(その男を)薬師(くすし:原文はmedicine man)[2] として招こうとはしない。

 高度な文明社会では、この力が拡大される。そこでは、医療は専任の専門家によって行われ、官僚的な組織によって大きな集団が管理されている。これらの専門家は、自分たちの仕事に対して独自の統制力を持つ専門職を形成している。労働組合とは異なり、これらの専門職は、労働争議の勝利よりもむしろ信頼が付与されることにその自治性を負っている。誰がどのように働くかを決定するギルドとは異なり、彼らはどのような仕事を行うかも決定している。

アメリカでは、医学的権威の成立は、第一次世界大戦の直前に行われた医学校改革に起因する。医療・医学の専門職は、大学で教育を受けたエリートが獲得した階級的権力構造を管理しようとするところに出現したものであった。何が原因で病気となるのか、誰が病気なのか、そして、病人や特別なリスクを持っていると考える人々に対して何をするべきなのかを「分かっている」のは医師だけである。

 

逆説的ではあるが、西洋医学は、その力を法律や宗教から切り離すことを主張してきたが、今やこれまでの慣例であった範疇を超えてその力を拡大している。産業社会によっては、社会的なレッテル貼りが医学・医療化され、異常なものすべてに医学的なレッテルを貼らなければならないほどになっている。はっきりとしていた道徳的要素が次第に医学的診断から消滅したことで、アスクレピオス[3] 的な権威に(さらに)全体主義的な力を与えることになった。

 医学と道徳は決別したが、医学というカテゴリーは法律や宗教のそれとは異なり、道徳的評価とは無縁の科学的基盤の上に成り立っているという理由で擁護されてきた。医学の倫理は、理論を実践の文脈に一致させようとする専門集団に秘匿されてきた。裁判所と法律は、医学・医療の独占を強化するために使われないときは、病院のドアマンに変身し、顧客の中から医師の基準に合致する人を選び出すのだ。

 

(病院の前身であった)慈善施設は自己賛美に陥った科学主義の記念碑と変化し、その礎石が築かれた時にはもてはやされるが、実際に使用されるようになった時には時代遅れとなった専門的偏見の具体的な代物となるのである。医師は技術的野心から、有用性のない力を標榜する。

このような状況下では、私が関心を寄せる社会的医原病の問題から逃避することが容易であることは明らかである。このように、政治が媒介する健康被害は、医学・医療の使命に内在するものと見なされ、その批判者は、医学の領分へ素人が侵入することを正当化しようとする詭弁家と見なされる。まさにこの理由から、社会的医原病に関する専門外からの評価が急務なのである。有用でない治療やケアを主張することは明らかに悪質な虚業であり、無責任な医療を隠蔽してきたタブーも弱まり始めているのである。

 

 

家計の医療化

 

生活が医療化される程度を測る最も便利な尺度は、一般的な年収のうち、医師の指示によって使われる割合である。1950年以前のアメリカでは、これは月収分にも満たなかったが、70年代半ばには、一般的な労働者の収入の5〜7週間分に相当する額が、医療サービスの購入費用に費やされるようになった。米国では現在、医療費として年間約950億ドル、1962年の国民総生産の4.5%から1975年には約8.4%を費やしている。過去20年間、米国の物価指数が約74%上昇したのに対し、医療費(の物価指数)は330%上昇した。1950年から1971年にかけて、健康保険への公的支出は10倍、民間保険給付は8倍、自己負担は約3倍に増加している。総支出では、フランスやドイツが米国に追いついた。大西洋、スカンジナビア、東欧のすべての先進国において、医療部門の成長率はGNPの成長率を上回っている。インフレを差し引いても、連邦政府の医療費は1969年から1974年の間に40%以上増加した。

 

さらに言えば、国家予算の医療化は高所得国の特権ではなく、貧しい国でありながら富裕層を優遇する悪名高いコロンビアでは、その割合はイギリスと同様に10%以上である。フランス革命までは職人として生計を立てていた医師たちも、こうした恩恵で一部の者は豊かになった。しかし、その一方で、貧しいまま死んでいく者も少なくなかった。このため、「よく死ぬ弁護士は少ない、よく生きる医者も少ない」ということわざが、ヨーロッパの多くの言語にある。

 今日、医師はトップクラスの階層となり、資本主義社会では、この頂点の階層は実に高いところにある。しかし、医療のインフレを医療関係者の強欲のせいにするのは不正確であろう。50年代にアメリカの大学から卒業し始めた、響きの良い名称である看護学の修士号や病院管理学の博士号を持つ者や、新しい官僚が育成するそれらより下位の者たちに、この増加分の大部分が費やされているのである。患者の管理、患者のファイル、患者が書いたり受け取ったりする小切手の管理にかかる費用は、請求書の1ドルあたり4分の1を占める。

 さらに多くのものが、銀行に行っている。医療保険事業におけるいわゆる「合法的な」管理コストは、民間事業者に支払われる金額の70%にまで上昇しているケースもある。もっと重要なことは、高コストの病院医療を支持する新たな偏見である。1950年以来、米国の地域病院で患者を1日入院させるコストは500%上昇した。主要な大学病院での患者の治療費の高騰はさらに速く、8年間で3倍になった。管理費は1964年以来7倍と爆発的に増え、検査費は5倍となったが、医療職者の給料は2倍にしかなっていない。

 病院の建設費は1床あたり8万5千ドルを超え、そのうち3分の2は10年以内に時代遅れとなる医療機器を購入するものである。この率は、現代の兵器システムと比較して、一般的なコスト増と陳腐化のほぼ2倍である。保健・教育・福祉省のプログラムにおけるコスト超過は、国防総省のそれを上回っている。1968年から1970年にかけて、メディケイド[4] の費用は、サービスを受ける人数の3倍の速さで増加した。過去4年間で、病院に対する保険の給付はほぼ2倍になり、医師の報酬は計画のほぼ2倍の速さで増加した。

 主要な民間経済の領域で、これと同じように継続的な拡大した前例はない。したがって、この前例のない医療ブームの最中に、米国がもう一つの「初」を確立したことは皮肉なことである。ブームが始まって間もなく、アメリカの成人男性の平均寿命は低下し始め、現在ではさらに低下することが予想されている。

アメリカでは、45歳から54歳の男性の死亡率が比較的高い。米国では45歳になった男性100人のうち、50歳の誕生日を迎えるのは90人だが、スウェーデンでは95人が10年間を生き抜く。しかし、スウェーデン、ドイツ、ベルギー、カナダ、フランス、スイスも、成人男性の年齢別死亡率、世界医療費ともに急上昇しており、米国に追いつきつつある。

米国における医療サービスの驚異的なコスト上昇は、さまざまな角度から説明されている。ある者は非合理的な計画を非難し、またある者は、人々が病院に求める不必要な設備などの費用が高騰していることを非難した。現在、最も一般的な解釈は、医療サービスに対する前払いの普及によるものである。

 病院は保険に加入しており、従来のサービスを効率的かつ安価に提供するのではなく、経済的な動機からより高価な新しいサービスへと移行している。この観点からすると、労働コスト、効率の悪い管理、あるいは技術的な停滞よりも医療サービスの変化が(コスト上昇の)原因である。この視点からすると、サービス内容の変更はまさに保険適用の拡大によるもので、患者が実際に必要とし、自己負担しようと考えていたよりも高価なサービスを提供するよう病院を仕向けるのである。

 病院が提供するサービスがより高価となるにもかかわらず、患者の自己負担額の増加はそれほどでもない。このように、高額の医療費に対する保険は自己強化プロセスであり、医療提供者に増大する資源を支配させることになるのである。その対策として、消費者側のコスト意識の啓発を推奨する評論家もいる。また、一般の人々の自制心を信用せず、医療サービス提供者のコスト意識を高める仕組みを推奨する者もいる。

 

医師は、(英国の開業医のように)サービスに対する従量料金ではなく、顧客の(健康)維持のために固定額の「人頭分担」方式で支払われれば、より責任ある処方を行い、乱暴な処方はしなくなるだろうと主張している。しかし、他の解決策と同様に、人頭分担によって健康の需要に応じることは医原性の魅力(=医療の魅力)を大きくさせる。人々は、(固定額分担の下で)できる限り多くの治療を受けるために、自身の生活を犠牲にする。

 イングランドでは、国民保健サービス(National Health Service)が、うまく行かなかったとはいえ、コストのインフレが、明らかに怪しげなものに影響されないように努めた。

1946年に制定された国民健康保険法(National Health Service Act of 1946)は、必要とするすべての人々が医療資源の恩恵を享受できることを人権として定めている。医療資源には限りがあり、定量でき、健康のための総予算を決定するのは投票箱が最適であり、患者一人ひとりの必要性な医療資源を決めることができるのは医師だけであるという想定であった。しかし、医療従事者が評価する対象は、イギリスでも他の国と同様に広範なものである。イギリスの医療制度が成功するための根本的な期待は、資源配分に関する自国の能力への信頼にあった。

 イギリスの医療経済を調査した研究者の意見によると、1972年頃までは、「患者の支払い能力によるのではなく、厳格だがしかし広く受容される方法によって」いた。その頃まで、医療費はGNPの6%以下、公共支出の10%以下に抑えられていた。個人診療は、全医療の半分から4%までに縮小していた。患者への直接請求は、全費用の5%という驚異的な低さに抑えられていた。

 

しかし、この平等への厳格な政策により、もしアメリカならば国民の批判の的となるような、一流機器のひどい不適切な配分を防ぐことができたのである。1972年以来、英国の医療サービスは、経済的、政治的に複雑な理由から、痛みを伴う変化を遂げている。保健サービスの当初の成功と、現在の混乱を経験して、将来はどうなるのかという予測をつけることが不可能になっている。医療を脱医療化することは、他の国々と同様に不可欠である。

 しかし、奇妙なことに、イギリスは成人男性の平均寿命がまだ下降していない数少ない先進国の一つでもある。このグループの慢性疾患は、大西洋の反対側の国で10年前に観察されたのと同様の増加をすでに示している。ソビエト連邦のコストに関する情報は、より入手しにくい。1960年から1972年の間に、一人当たりの医師数と入院日数は2倍になり、費用は約260%増加したようである。 ソ連の医療が優れているという主張は、これまで通り「社会システムそのものに組み込まれた予防法」に基づいているが、だからと言って(ソ連と)同様の発展を遂げた他の工業国と比較して、病気や治療の相対量に影響があったわけではない。

しかし、治療法が国家とともに衰退するという理論は、1932年以来俗説とみなされている。政治体制が異なれば、病態も異なる病気として分類され、需要と供給、未対応の分野も異なるカテゴリーに分類される。しかし、病気をどのように捉えようとも、治療費は同様な速度で上昇する。例えば、ロシアでは、入院を必要とする精神疾患を政令で制限しており、全病床の10%しかそのような症例には認めていない 。

 

しかし、あるGNPに達すると、すべての工業国において医師への同様の依存を生み出しており、そのイデオロギーや信条による病名とはかかわりないのである(もちろん、資本主義は、はるかに高い社会コストで(医師への依存が生じていることを)証明している)。どこでも、70歳代半ばになると職業的活動の大きな制約条件はコスト削減の必要性である。国富のうち、医師に回され、医師の管理下で使われる割合は、国によって異なり、利用可能な全資金の10分の1から20分の1の間に収まっている。だからと言って、このことを以て、貧しい国の典型的な市民に対する医療費が、その国の一人当たりの平均所得に比例しているとは誰も考えないはずである。

 (病気でない)大部分の人はまったく何の恩恵も受けることはない。飲料水の供給に割り当てられた資金を除けば、開発途上国の保健にあてられた全資金の90%は、衛生ではなく、病人の治療に費やされている。公衆衛生予算全体の70パーセントから80パーセントが、公衆衛生サービスの対象ではない個々の患者の治療とケアに費やされている。資金のほとんどは、どこの国でも同じような使われ方をしている。

 

すべての国が病院を欲しがり、多くの国が最も最新鋭の雰囲気を漂わせる近代設備を備えた病院を欲しがる。貧しい国ほど、在庫品の実質コストは高くなる。近代的な病院のベッド、保育器、実験室、人工呼吸器、手術室などは、アフリカではドイツやフランスで製造されたものよりもさらに高価で、しかも熱帯地方では故障しやすく稼働が困難で、使われなくなることが多い。コスト面から言えば、このような機器を操作する医師についても同じである。メキシコの学校出身であろうと、政府の奨学金でハンブルグに留学したブラジル人大尉の従兄弟であろうと、開胸外科を育成するには同じような投資が必要である。

 

米国は腎臓透析を必要とするすべての患者に年間1万5000ドルで(透析サービスを)提供するには貧しすぎるかもしれないが、ガーナはプライマリーケアの医師を国民に公平に提供するには貧しすぎる。社会的に重要で、公平に共有すべき最大のコストは、国によって異なる。しかし、限界費用を超える治療のために税金が使われる場合、医療制度は必ず、税金を払う大多数の人々から、金や学歴や縁故によって、あるいは外科医が試験中の関心を持っているという理由で選ばれた少数の人々へ恩恵を移転させる仕組みとして機能するのである。

 中南米の貧しい国々で、私立の診療所の実質的な費用の5分の4が、医学教育、公共の救急車、医療機器のために徴収された税金で賄われているのは、明らかに搾取の一形態である。この場合、治療費総額の何割かを自己負担できることが、残りを負担してもらうための条件となるため、公的資源が少数の人々に集中することは明らかに不公正である。しかし、公的医療サービスにおいて、誰が治療を必要とするかを決める唯一の権限を国民が医師に委ね、実験や診療を行う人々に公的支援を惜しまない場合、搾取の度合いは小さくはない。

 

国民は、医師が医療の需要を独占的に決定することを黙認し、医師が医療サービスを販売する基盤を拡大するのみである。間接的には、注目を集める治療法は、医師が必要だとするすべての人が治療を受けられるように、税金をもっと払ってよいと人々に思わせる強力な装置となるのである。チリのフレイ大統領は、医療スポーツのための壮大な施設を一つ作り始めたが、彼の後継者であるサルバドール・アジェンデは、さらに3つの施設の建設を約束させられた。医療オリンピックに参加するちっぽけな国家チームの名声は、単なる医療の野蛮な行為よりもはるかに深く、病原性を持つ治療への依存を国中に強化するために利用されている。医者に行かなければ病気は何ともできない」という人々の思い込みは、医者が人々に医療を施す以上に健康被害をもたらしているのだ。

 

中国だけは、少なくとも一見すると逆の流れになっているように見える。それは、プライマリーケアは専門家ではない衛生技師が行い、衛生技師の見習いたちは、自分が所属する隊のメンバーを支援するために召集されたときに、工場での通常の仕事を離れる(駆けつける)。栄養、環境衛生、産児制限は比較にならないほど改善された。60年代後半の中国の保健分野での成果は、長い間の議論に終止符を打った。効果の明らかな保健・医療機器は、数カ月以内に引き渡されて、数百万の人びとが適切に使用されることができる。このような成功にもかかわらず、マルクス主義という西洋の理性の夢に対する正統派の思い入れは、伝統的なプラグマティズムと結びついた政治的美徳が達成したものを破壊してしまうかもしれない。技術進歩と中央集権への偏向は、すでに医療の専門的な領域にも現れている。中国にはパラメディカルシステムがあるだけでなく、教育水準が世界最高水準といわれる医療従事者がおり、その差は他国とわずかである。

 

この4年間の投資の大部分は、この極めて優秀で伝統的な医療専門職の一段の発展に向けられたようであり、この専門職は国家の総合的な健康目標を形成するためにますます大きな権限を持つようになってきている。「裸足の医療(=医者)」は、その場しのぎ、半独立、草の根という性格を失いつつあり、一元的な医療技術集団に統合されつつある。大学で教育を受けた人材が、地元で選ばれた治療者を指導し、監督し、補完する。このようなイデオロギーに基づく中国の専門医療の発展は、それが高度なセルフケアの障害とならずに、バランスのとれた補完であり続けるためには、ごく近い将来、意識的に(中国における西洋医療の発展方式を)制限しなければならないだろう。中国の医療経済については、比較可能な統計がないので曖昧なことしか言えないが、中国の製薬、病院、専門医療におけるコスト上昇が他国より低いという根拠はない。しかし、当面の間、中国では農村地区での近代医療が非常に不足していたため、近年の増加分は健康水準と医療を受ける機会の公平性の向上に大きく寄与していると言える。

 

どの国でも、予算の中に占める医療費は、支配階級のあからさまな搾取と結びついている。米国における資本家による寡頭政治、スウェーデンの新興官吏の上から目線、モスクワの専門家の卑屈さと自国民族中心主義、米国医師会・薬剤師会のロビー活動、さらに医療部門における組合権力の新しい台頭はすべて、(患者に対する善意の)世話役を自認するという代物ではなく、患者の利益のための資源配分に抗う、恐るべき牙城であることに疑いの余地はない。

 しかし、これらの金を浪費する官僚機構が健康を破壊する根本的な理由は、その手法ではなく、その象徴的な機能にある。彼らはすべて、巨大な(社会)機構における人的要素の修復と保守サービスを行うことに力を注いでおり、より良く公平なサービスを、と提案する声は、人々を病気にさせる仕事(つまり医療)を継続させるという社会的な政策を強化するのみである。無制限に国民健康保険を推進する提唱者と国民の健康を維持しようとするグループとの間の争い、またすべての民間診療所を擁護する者と攻撃する者との間の争いが生じたことで、社会的秩序を守ろうとする医師たちが生み出す健康被害から、消費社会を守るために医師たちは(人々が)期待するような働きはしないのだ、という事実に人々の関心は移るのである。予算が制約されても、空間、スケジュール、教育、食事、機器や商品のデザインなど、医療の支配を拡大するための予算は、必ず「善意(=人々を医療で救うという思い)から生まれた悪夢(=医療の支配)」をなるがままにさせる。

 

お金は健康を脅かすだろう。有り余るお金は健康を破壊する。ある時点から、何がお金を産むか、お金で買えるものは何か、など己の選択が「生活」の範囲を決めるのである。したがって、医療への信望は場合によっては、人が生まれ持つ気質に大きく依存する健康の営為を弱める。人びとが商品としての医療を生産するために時間、労力、犠牲を費やせば費やすほど、副産物、つまり、社会には、採掘し、販売することができる健康の供給源があるという誤った考えが生じるのである。貨幣の負の機能は、(お金では)買えないモノやサービスの切り下げを示す指標ということである。幸福や満足を買うときの値札が高ければ高いほど、人々から健康の営為を収奪することの政治的な威信は高まるのである。

 [1]医療人類学では「病人役割」という概念を持つ。

 [2]未開社会の)呪術医、祈祷師、まじない師

 [3]アスクレーピオス - Wikipedia 古代ギリシャの名医

 [4]米国における医療制度の一つ

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