Limits to Medicine Medical Nemesis: The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(1)
イリッチの主張をまず正確に読み取ることが、医原性の研究の第一歩となる。邦訳書である「脱病院化社会」は医学専門家によって訳されたとはいえ、出版は1979年であり40年以上前である。イリッチが引用した文献などはさらに古い。この間、医学領域で話され、使われる言葉や概念は大きく変化しているので、訳書で読んで、真意を理解するには難しいことが少なからずあった。ということで、己の非学を顧みず自分で訳さなければと思い立った。
なお脱病院化社会を参照し、自分の訳と対比することは最小限にとどめたが、必要に応じて参考とした。先駆者に感謝する。なおカッコのところは、原文には相当する単語がないが、私が文脈を補ったところである。
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・はじめにIntroduction(原著page 3-10)
・第I部:臨床的医原病Clinical Iatrogenesis(原著page 13-36) 現代医学という疫病The Epidemics of Modern Medicine
はじめに
今日の医療体制は、健康を脅かすものとなっている。医療専門家の支配がもたらす(人々の)生命力を無力化する影響は、ある意味疫病と言えるレベルにまで達している。
この新しい疫病の名称である「Iatrogenesis」は、ギリシャ語の「iatros」(医師)と「genesis」(起源)に由来している。医学の進歩という病が医学界の議題として取り上げられ、(他方で)研究者は診断と治療(法)が病気を作る力に執心し、病気の治療が引き起こす予期せぬ健康被害の報告が医学の問題事例集にますます多く追加されるようになった。医療関係者は、かってないモグラたたきに追われているのだ。
ローマクラブ[1] がフォード、フィアット、フォルクスワーゲンの支援のもとに「分析の専門家」を集めたように、ギリシャのコクター島にちなんだ「コスクラブ」があちこちに生まれ、医師、有名製薬企業、それらの産業スポンサーを集めている。医療サービスの提供者は、他の分野の同業者の例にならって、より良い医療機器や治療法の恩恵を目指し、さらなる成長に挑戦している。医療と健康産業の歯止めをどこに置くかは、急速に政治の課題となっている。この歯止めが誰のためになるかは、誰が主導権をとるかに大きくかかわってくる。つまり、現状の方向性を維持しようとする専門家の権力に対して、政治的に挑戦する組織された人々か、あるいは独占をさらに拡大しようとする医療のエキスパートである。
一般の人びとは、公衆衛生学の優秀な専門家たちが困惑し、あてにならないことを知っている。新聞には、医学界のリーダーたちが手のひらを返す報道で溢れている。少し前にいわゆる画期的と言われた先駆者が、自分たちが発明したばかりの奇跡の治療法の危険性を(たちまち)患者に警告するのだ。ロシア、スウェーデン、イギリスの社会のモデルを真似ることを提案してきた政治家たちは最近の事例から、自分たちがよいと考える医療システムが、同等ではないにせよ、資本主義下の医療が生み出すのと同じく病を呼び込む、つまり病的な治療やケアを非常に効率的に生み出すことを知って当惑している。
現代医学に対する私たちの信頼が危うい。しかしそれを主張するだけでは、自己流に陥った予測、予言、更にはパニックに陥る可能性を助長することになる。しかし、本書はいたずらに怖れることは適切ではないことを論じる。あらゆる医療問題について啓蒙化を図ろうとする、医原病の蔓延に関する慎重な公開討論は、公共の福祉の観点からは問題はないだろう。むしろ危険なのは、医学上の表面的な対応に依存するようになった受け身の一般市民である。医療がもたらす危機によって、一般の人々が医学的認識、分類、意思決定について自分自身の対応力を効果的に取り戻すことができるようになる。あたかも古代ギリシャの治療寺院の信徒であることを止めることによって、人々が産業社会の信奉する現代医学の教義を否定することができるようになるだろう。
私は、医師ではない一般の人びとが、今日の医原病の蔓延を食い止める視点と、大きな潜在能力を持っているということを言いたい。本書は一般読者に、公共の利益とは裏腹に、進歩の裏側にある隠された面を考える枠組みを提供するのである。
この本は私が以前に、教育や交通問題を考えた際に、技術進歩について社会的評価を行ったモデルを使用している。そして今回、私は、(そのモデルを)高度な工業化を成し遂げた国々における、医療専門家の独占と科学主義への批判に援用している。私の考えでは、医療の健全化は、本書の第IV部で扱う社会経済的な動きの流れを逆転させることであり、またその一部なのだ。
脚注は、本書のテキストの性格を反映している。私は、アカデミアが各ページの下部の小さな活字 スペース(脚注)を独占してきたことを打破してよいと考える。最適に設定された保健医療はこういうものだという、私の思い入れのあるパラダイムの検証根拠を脚注で詳しく述べているが、その視点はデータを生成した研究者の真意とは必ずしも一致しないものがある。時には、専門家が偶然に経験した目撃談も出典を明らかにしている。他方でそれらが伝聞にすぎず、したがって公共政策の決定に影響を及ぼすべきではないという根拠があれば、専門家の証言として採用していない。このほかにも、読者に参考となる多くの情報を脚注とした。さらに多くの脚注を付け、私が専門外の人間として初めて医療というテーマを掘り下げ、医療の有効性を政治的に評価する能力を身につけようとしたときに有用であった文献のガイダンスを載せた。これらのノートは、長年にわたる独力での探索の結果、私がその価値を知った図書館のツールや参考文献に言及している。また、専門書から小説に至るまで、私にとって有益だった読み物もリストアップした。
最後になるが、もし本文の中に入れておくと読者の気を散らすような、カッコ書きとなる補足的、あるいは周辺的な提案や疑問を取り扱うために脚注を活用した。医学に無縁な一般の人に向けて本書は書かれているが、そういう人々も医学が医療に及ぼす影響を評価する能力を自ら身につけなければならない。現代の専門家の中で、医師はこの緊急に必要な探求をするには、最も能力開発の訓練を受けていない人種なのである。
社会全体に蔓延する医原病からの回復は、政治的な課題であり、専門家によるそれではない。それは、(自らを)治そうとする市民の自由と、公平な保健医療への権利との間のバランスについて、草の根レベルにおける了解が必要である。過去数世代の間に、医療に対する医学の独占状態はチェックされることなく拡大し、私たち自身が有する身体に関する自由を侵食するようになった。社会は、何が病気をもたらすか、誰が病気であり、あるいは病気になるかもしれないか、更にはそういう人々に何をすべきかを自分自身が決める権利を医師に譲り渡したのである。
(規範からの)逸脱が「正当」となるのは、それが恩恵をもたらすもので、究極において医学的解釈と介入が「正当」なものとなる場合に限られる。医療システムから無限に近い成果をすべての人々に提供するという社会的な公約は、人々が平生から自律的に癒しのある生活を送るために必要な環境的、文化的条件を破壊するおそれがある。こうした傾向を認識し、最終的にはそれを覆させなければならない。
医学の歯止めは、専門家としての自己抑制以外によるものでなければならない。私は、ギルドとしての医学界が、医学そのものを改革する唯一のものであると主張することが、幻想にすぎないことを示そう。専門職の権力は、今世紀に大学教育を受けたブルジョワジーが作った医療職へ、(人々の)自治権を政治的に委任した結果である。今となっては(政治的委任を)画策した人々が撤回することはなく、この権力の悪質さについて一般の人びとが広く納得することによってのみ正すことができる。
医療システムが自らを浄化しようとしても失敗するだけである。もし、ぞっとするようなことが明るみに出て、慌てふためいた一般の人々が、保健医療の専門家をこれまで以上に(別の)専門家による管理に賛成するよう強要されたとしたら、それは病的な医療を強化することにしかならないだろう。今や保健医療が病を作り出すビジネスとなってしまったのは、人間の生存というものを有機体のもつ働きから、技術的操作の結果に変質させた強力な工学そのものであることを理解しなければならない。
「健康」とは、結局のところ、個人の内的環境である心身状態と外的環境条件にどの程度対応できるかの力を示す日常用語に過ぎない。ホモ・サピエンスにとって、「健康的であること」は倫理的、政治的行動を形容する言葉である。少なくとも、ある社会の健康は、政治が環境を整え、すべての人、特に弱者の自立、自律、尊厳を促すような状況を作り出せるかどうかにかかっている。したがって、健康は、外的環境が個人の自律した応答・対応能力を引き出すときに最適となる。生きる上で、人間の持つ恒常性の調節を他人の指示に任せて、その度を超すと健康は低下するのみである。健康への対応力の限度を超えた病院での保健医療は、治療、予防、環境工学のいずれであろうと、組織だって健康を否定するものとなる。
現在の医学が人々の健康に及ぼしている悪影響は、交通量と交通密度が人々の移動性に及ぼす悪影響、あるいは教育とメディアが学習に及ぼす悪影響、さらには都市化が主婦の家政能力に及ぼす悪影響に類似している。いずれの場合も、制度としての努力が逆効果になっているのだ。時間を浪費する交通渋滞、騒々しく混乱したコミュニケーション、より高度な技術的能力を身につけさせ、一般的な能力を特別な形にしようとする教育など、これらはすべて、医学による医原病の発現と並行する現象である。いずれの場合も制度を主管する(行政)部門は、設立され、技術的手段を与えられた目的から社会を遠ざけている。医原性(Iatrogenesis)は、医学による特異的で非生産的なことが発現したものと見なければ、理解することはできない。特異的あるいは、あるいは逆説的で非生産性的な医療は、それを生み出すシステムの中にしっかりと内包されており、負の外部性をもつ社会の指標である。それは、ニュースメディアによる混乱、教育者による無知、高出力エンジンを備えた車がもたらす時間的損失などの尺度のようでもある。
具体的な非生産性とは、(医療)制度によって増え続ける望ましくない副作用のことで、特有の価値を生み出した(医療)システムの内部に存在する。これは、客観的な不満の社会的な尺度である。(私の)病原性のある医療に関する研究は、現時点における産業社会の全ての主要な部門に見られる反生産性の多様な側面のうち、医療分野について明らかにするために行われたものである。同様の分析は他の産業分野でも可能であるが、伝統的に尊敬され、自己満足的なサービス業である医学の分野での緊急性は特に大きい。医療に組み込まれた医原性は、今やあらゆる社会的関係に影響を及ぼしている。それは、豊かになったことによって、人々の内面の自由というものが(医療によって)植民地化された結果である。豊かな国々では、医療による植民地化が病的なまでに進行している。貧しい国もすぐにそれに倣っている(救急車一台のサイレンが、チリの町全体の善良な人々の助け合いの意識を打ち壊すことがある)。このプロセスは、私が「命の医療化」と呼ぶものであり、明白な政治的認識と考えてよい。
医学は、産業社会の流れを反転させようとする政治的行動の大きな目標となりうる。相互の自己ケア能力を回復し、それを現代技術の応用にどのように依存するべきかを学んだ人々だけが、他の分野においても工業的生産社会の歯止めをかける準備ができるだろう。限界を超えて成長する職業的医療者による保健医療システムは、次に述べる3つの理由によって病的なものとなる。
つまり本来の恩恵を上回るような臨床的被害をもたらすこと、社会を不健全にしている政治的な状況を見えなくしているにもかかわらず、それをさらにぼやかす方向に持って行くこと、そして、個人が自分を癒し、自分の環境を形成する力は不可能であると思わせて、(それを)奪ってしまう方向性があることである。
現代の医療制度は、このように許容範囲を超えている。医療・救命医療による保健衛生の技術と方法論の独占は、個人の成長よりもむしろ産業の強化のために、科学的成果を政治的に悪用した典型例である。このような医療は、社会のありように疲れた人たちに、自分たちは病気にかかって無力であり、技術によって回復する必要があると信じ込ませる仕組みでしかない。
私は、この本の最初の3つのパートで、これら3つのレベルで医療の病める影響を扱うことにする。医療技術の成果のバランスシートは、第1章で描く。多くの人々は、すでに医師や病院、製薬業界に不安を抱いており、それを証明するデータだけが必要である。医師でさえすでに、いま一般的に行われている多くの治療法の承認を正式に取り消すよう要求することで、自分たちの信頼性を回復する必要があると感じている。専門家にとっても必要であると考える医療行為への制限は、往々にしてあまりに過激で、大多数の政治家には受け入れがたいものである。高価でリスクの高い医療が有効でないことは、今や広く議論されている事実であり、私はその点から出発するのであって、ここでは長く立ち入いらないことにする。
第II部では、社会的に組織化された医学が生み出す、直接的に健康を破壊していく影響を、次いで第III部では、医学上のイデオロギーが個人の生命力に及ぼす悪影響を扱う。3つの部分で、痛み、障害、死というものが、個人の課題から技術の問題にすり替わっていくことを説明する。第IV部では健康を損ねる医療を、過剰な産業化文明が反生産性の典型として作り上げたものと解釈し、戦略的にはすべて無益であっても、戦術的には有用な対策となる5つの政治的対応を分析する。
本論は、人が環境と関わり適応する際に、自から主体性のある対応(自立型)とそうではない維持・管理(他者による支配型)という二つのスタイルを区別する。最後に、専門家による健康管理をある範囲内にとどめることを目的とした政治的プログラムのみが、人々が健康管理の力を回復することを可能にし、そのようなプログラムは、生産(の営為)が産業化された社会全般に対する批判と抑制に不可欠であることを示して本論文を締めくくる。
第I部
臨床における医原病
現代医学という疫病
過去3世代の間に、西洋社会を苦しめる病気(疾病)は劇的に変化した。ポリオ、ジフテリア、結核は消えつつあり、肺炎や梅毒は抗生物質を一回注射すれば多くの場合治癒し、致死的な大量の疾病がコントロールできるようになった。今や全死亡者の3分の2は老齢期の疾病に関連したものとなっている。若くして亡くなる人は、事故や暴力、自殺の犠牲者であることが多い。
健康状態のこうした変化は、一般に疾病が減少したものと考えられ、より多くの、あるいはより良質の医療のお陰であるとされる。ほとんどの人は、医者の技量がなければ生きていないだろうと思う友人が少なくとも一人はいる、と信じているが、実際にはこのような疾病構造の変化、といわゆる医学の進歩との間に直接的な関係があることを示す証拠はない。
こうした変化は、政治的、技術的な進歩に伴うものであり、それが医師の行為や発言に反映されるのであって、医療の専門家が誇りとする調剤行為や地位、高価な機器を必要とする行為とは大きな関係がない。付け加えれば、この15年間に増加した疾病負担それ自体は、病人、あるいは病気になる可能性のある人に、都合のよい医療介入を行った結果である。それは医者が作り出したもの、つまりiatrogenic(医原性)である。医学のユートピアを追求して一世紀、現在の常識に反して、医療は平均寿命の変化を生み出すのに重要な役割を果たしていない。今日、臨床の場での医療は広く病気の治療を行う際に行われるが、医療が個人や集団の健康に与えるダメージは非常に大きい。これらのことは明白で十分な証拠があるが、世に知られないよう押さえ込まれてもいる。
医師が有用であるという-幻想
病気のパターンの変遷を調べれば、前世紀において、医師が感染症に対して、それ以前の時代に聖職者がなしえたこと以上の根本的な影響を与えなかったということが分かる。感染症は(何度も)襲って来ては去り、聖職者と医師の双方から、感染しないようにと祈られることはあったが、両者ともなんとかできるようなものではなかった。医療行為と宗教的な神社で行われる儀式と比較して、感染症に明らかな変化が生じているわけではないのである。
保健医療の将来を占う議論は、この点を認識することから始めるのがよいだろう。産業化が始まった時期に流行した感染症は、医療がどのように評価されたかを物語っている。例えば、結核は2世代にわたってピークに達した。1812年のニューヨークでの死亡率は1万人あたり700人以上と推定されていたが、コッホが初めて結核菌を分離・培養した1882年には、すでに1万人あたり370人にまで減少していた。1910年に最初の療養所が開設された時には180人にまで減少していたが、「結核」は依然として死亡率表の第2位を占めていた。
第二次大戦後、抗生物質の使用が日常化すると、結核による死亡率は48人となり、11位に転落している。コレラ、赤痢、腸チフスも同様に、医師の治療が及んでいないところでピークを迎え、減少していった。これらの病気は、病因が解明され、治療法が確立されるまでに、その病原性、ひいては社会的重要性を失っていた。15歳までの子どもの猩紅熱、ジフテリア、百日咳、麻疹による死亡率を合計すると、1860年から1965年までの死亡率低下の90%近くは、抗生物質の導入と予防接種の普及以前に起こっていたことがわかる。これは、住居の改善や微生物の病原性の低下によるところもあるが、栄養状態の改善による人の抵抗力の向上が最も重要な要因である。今日でも、貧しい国々では、栄養状態が悪いと、医療がどれだけ行き届いていても、下痢や上気道感染症が頻繁に発生する状態が長く続き、死亡率が高くなる。
イギリスでは、19世紀半ばまでに、感染症の流行はくる病やペラグラなどの深刻な栄養失調症候群に取って代わられた。そして、これらの病気はピークを迎えて後に消え、幼児期の病気に取って代わられ、さらにその後、若者の十二指腸潰瘍が増加した。これらの病気が退潮した後に取って代わったのは、冠状動脈性心疾患、肺気腫、気管支炎、肥満、高血圧、癌(特に肺)、関節炎、糖尿病、そしていわゆる精神障害である。
精力的な研究にもかかわらず、私たちはこれらの変化の原因について完全な説明が出来ていない。しかし、2つのことは確かである。医師の専門的な診療が、過去の疾病の死亡率や病的状態をなくしたということの証明にはならないし、平均余命が延びたために新しい病気に苦しむ羽目になったのだと非難される筋合いもない。一世紀以上にわたる疾病の傾向を分析することによって、いかなる集団の一般的健康状態も環境が主要な決定要因であることが示されている。
医学地理学、疾病史、医療人類学、病気に対する考え方の社会史は、食物、水、空気が、社会政治的な平等の水準や人口の安定を可能とする文化的メカニズムと相関し、健康な成人がどのように感じるか、何歳で死ぬかを決定する上で、決定的な役割を演じていることを明らかにした。旧来の病気の原因が退潮する一方で、新しい種類の栄養不良が現代の伝染病として急速に拡大している。人類の3分の1は、以前なら死に至るような栄養不足の状態で生き永らえているが、(他方で)多くの富裕層が、これまで以上に大量の毒性のある食物や変異性を持つ食品を摂取している。
近代的な技術の中には、医師の助力を得て開発されたものが少なからずあり、それらが文化や環境の一部にまでなった時、あるいは専門家の指示がなくとも最適な効果を発揮するものがあり、程度は低いものの、一般の人びとの健康状態にも変化を及ぼしてきた。その中には、避妊、乳幼児への天然痘接種、上下水道の処理、助産師による石鹸とハサミの使用、抗菌・殺虫処置などの非医療的な健康対策も含まれる。これらの実践の多くは、(社会的な)推奨を行うには勇気を必要としたもので、医師たちが初めてその重要性を認識し、人々を説得してきたのである。しかし、だからといって、石鹸、ペンチ、予防接種の注射針、消毒薬、コンドームなどを「医療器具」[2] の範疇にはめてはいけない。
最近になっての若年層から高齢者層へ死亡率が変化したのは、これらの処置や器具が一般人の日常に取り込まれたことによって説明することができる。環境改善や近代的な非専門的な健康対策とは対照的に、人々に対する明らかな医療行為は、複雑な要因による疾病負担の減少や寿命の伸びとは決して関係がない。悪性貧血や高血圧のような病態を診断する新しい治療技術や、外科的介入によって先天性奇形を治療する技術は、病気を定義し直すことはあっても、病的状態を減らすことはない。ある種の病気が減少した地域では、医師の数が多いという事実は、医師がその病気をコントロールし、撲滅する能力とはほとんど関係がない。それは単に、医師が他の専門職よりも、気候が良く水がきれいで、働く報酬を支払える場所におのずと集まる傾向があるということだ。
無駄な医療
医療技術の進歩に伴い、現代医療は非常に効果的であるかのような印象を与えるようになった。確かに、この直近の世代の間に、限られた特定の領域の治療法は非常に有用になった。しかし、専門家が商売道具として(医療を)独占していない場合には、広く病気に適用できるものは、通常非常に安価で、個人的な技術、材料、病院の管理サービスも最低限で済むものである。これに対して、今日天井知らずに高騰する医療費のほとんどは、よく見積もっても効果が疑わしい診断と治療のために費やされている。この点を明らかにするために、感染症と悲感染症の病気を区別して考えよう。
感染症の場合、化学療法は肺炎、淋病、梅毒の制圧に大きな役割を果たしてきた。かつて「老人の友」であった肺炎による死亡は、スルフォンアミドと抗生物質が市場に出てから、毎年5〜8%のペースで減少している。梅毒、鵞口瘡、マラリアや腸チフスの多くは、迅速かつ容易に治癒することができる。性病の増加も、新しい風潮のせいであって、薬効がないせいではない。
マラリアの再興は、農薬に耐性のある蚊の発生によるもので、新しい抗マラリア薬の不足によるものではない。先進国の病気である麻痺性小児麻痺は予防接種でほぼ一掃されたし、百日咳や麻疹もワクチンが貢献していることは確かで、「医学の進歩」という一般人の信仰を裏付けているように思われる。
しかし、他のほとんどの感染症については、医学はこれらの実績に匹敵する結果を示すことができない。薬物治療によって結核、テタヌス、ジフテリア、猩紅熱による死亡率は減少したが、全体として罹患率と死亡率の減少に化学療法の寄与は大きくなく、多分ほとんど重要な役割をはたしていないだろう。マラリア、リーシュマニア症、睡眠病は、薬剤の大量使用によって、一時期は沈静化したが、現在では再び増加している。
非感染性疾患に対する医療の有効性については、さらに疑問である。場合と条件によっては、フッ素添加の効果が示され虫歯の部分的予防が可能となっているが、そのコストは十分に分かっていない。代替療法は、短期的にではあるが、糖尿病への直接的な悪影響を軽減する。静脈栄養、輸血、外科手術の技量により、病院に搬送された人の多くが外傷から生還しているが、最も一般的なタイプの癌(症例の90%を占める)の生存率は、過去25年間ほとんど変化していないのである。
まるでウエストモーランド将軍がベトナムから発表するかのようなアメリカ癌協会の声明は、この事実をずっとあいまいにしてきた。一方、パパニコロウ膣塗抹標本検査の診断価値は証明されている。年に4回検査を行えば、子宮頸がんへの早期介入は5年生存率を明らかに向上させる。ある種の皮膚癌の治療には効果の高いものがある。しかし、皮膚がん(全体では)多くの治療法が有効であるという証拠はほとんどない。乳がんの5年生存率は、検診の頻度や治療の有無に関係なく50%である。また、未治療の女性との違いを示す証拠もない。開業医や医療機構の広報は、乳がんやその他のがんの早期発見と治療の重要性を強調するが、疫学者は、早期の介入が生存率を向上させるかどうか疑問を持ち始めている。
まれな先天性心疾患やリウマチ性心疾患では、手術や化学療法により、退行性疾患を患う人々が活動的に生活できる可能性が高まっている。一般的な循環器疾患の内科的治療や心臓病の集中治療が有効なのは、むしろ例外的な状況下においてである。
しかし、一般的な循環器疾患の内科的治療や心臓病の集中治療は、一般の医師の手に負えないような例外的な状況が重なった場合にのみ有効である。高血圧の薬物治療は効果的であり、悪性疾患である少数の人々には副作用のリスクを正当化することができる。(反対に)動脈硬化の治療薬を押し付けようとしている1千万から2千万人のアメリカ人にとって、この治療薬は、証明された利益をはるかに上回る、重大な健康被害をもたらす可能性がある。
医師による健康被害
残念ながら、無益で害を生じない医療は、急増する医療ビジネスが現代社会に及ぼす悪影響としてはさして重要ではない。医療技術によって引き起こされる痛み、機能不全、障害、苦悩は、今や交通事故や産業事故、さらには戦争に伴う罹患率と肩を並べ、医療の悪影響は現代の最も急速に広がる疫病の一つとなっている。(しかし)医療組織によって行われる命にかかわるような不法行為の中で、現代の栄養不良だけは、いろいろな形で現れる医原病よりも多くの人々を傷つけている。
狭い意味では、妥当で専門的にも推奨されている治療を行われなければ、生じることはなかったと考えられる健康被害のみが医原病となる。この定義に従えば、患者が医師にかかっている場合、患者に被害が生じるリスクがあると医師が考えたとしても、推奨される治療を行わなかった場合、患者はその医師を訴えることができることになる。
他方、一般的で広く受け入れられている意味では、臨床的医原病は、治療薬、医師、病院が病因である。つまり「病気を引き起こす」原因となる臨床におけるすべてのものが含まれる。このような治療上の多くの副作用を「臨床的医原病」と呼ぶことにする。このような副作用は、医学と同じく古くから存在し、常に医学研究の対象になってきた。薬は本質的に有毒である。そして、その副作用は、薬が強力になり、普及するとともに増加してきた。
米国と英国では、成人の50〜80%が24時間から36時間以内に処方箋医薬品を服用している。ある人は誤った薬を飲み、ある人は期限切れの薬や汚染された薬を飲み、ある人は偽造医薬品を飲み、ある人は複数の薬を危険な組み合わせで飲み、ある人は滅菌が不十分な注射器を用いて注射をされる。ある種の薬物は中毒性があり、ある種の薬物は突然変異を起こし、ある種の薬物は着色料や殺虫剤との組み合わせの場合に突然変異誘発性を示す。患者によっては、抗生物質が正常な細菌叢を変化させ、多重感染を誘発し、耐性菌の増殖や宿主への侵入を許してしまうこともある。また、薬剤耐性菌の繁殖を助長する薬剤もある。このような、有毒性は微妙で多種多様であり、信用できない万能薬よりもさらに急速に拡散しているのである。不必要な手術が標準とされている。
病気とは言えない症状を治療しようとするのは、ありもしない病気を治療することによる。たとえばマサチューセッツ州では、非疾患性の心臓に対する治療のために健康被害を負った児童数が、本物の心臓病に対する有効な治療を受けている児童数を上回っているのである。医師が原因となる痛みや病気は、常に医療行為につきものであった。専門家としての無神経さ、怠慢さ、無能さは、従来から医療過誤であった。医者が、個人的に知っている患者に対して技術を行使する職人から、ある種の患者に対して科学的な規則を適用する技術者へと変貌するにつれ、医療過誤は誰も気づかないうちに、相当なものになっていった。以前は自信の濫用や道徳的な過失とみなされていたものが、今では設備やオペレーターが時々故障するようなものだと正当化されるようになったのだ。
複雑な技術を備えた病院では、怠慢は「偶然の人為的ミス」や「システムの故障」に、無神経は「科学的無関心」に、無能は「専門機器の欠如」になる。診断と治療の非人間化によって、医療過誤は倫理的な問題から技術的な問題へと変化したのである。
1971年には、米国では12,000から15,000件の医療過誤が裁判沙汰となった。18ヶ月以内に解決したのは全体の半分以下で、10%以上が6年以上未解決のままである。医療過誤保険で支払われた金額の16〜20%が被害者の補償に充てられ、残りは弁護士や医療専門家に支払われた。このような場合、医師は「医事法違反」、「治療不能」、「貪欲・怠惰による怠慢」のいずれかを問われるだけである。
しかし、問題は、今日の医師による被害のほとんどは、これらの分類のどれにも当てはまらないということである。それは、たとえそれがどのような健康被害をもたらすかを知っていたとしても(知っておくべき、あるいは知ることができたはずの)、専門的な判断と手順を学んだ、よく訓練されたスタッフの通常の業務で発生している。米国保健教育福祉省の計算では、全患者の7%が入院中に補償の対象となる健康被害を負っているが、それについてどうこうしようとする人はほとんどいない。さらに、病院で報告される事故の頻度は、鉱山と高層建築を除くすべての産業よりも高いのである。
事故はアメリカの子どもたちの主な死因である。過ごす時間に比例し、これらの事故は他の場所よりも病院で多く起こっているようである。病院に入院している子供の50人に1人は、特別な治療を必要とする事故(健康被害)に遭っている。大学病院は相対的に病原性が高い、つまり、はっきり言えば病的である。また、典型的な研究病院に入院している患者の5人に1人が医原病にかかっていることもわかっている。その半数は薬物療法の合併症によるもので、驚くべきことに10人に1人は診断のプロセスに起因するものである。市民に対する公益のサービスに違いはないが、こうしたことが起これば、軍人ならば指揮権を剥奪され、レストランや娯楽施設は警察によって閉鎖されるであろう。医療業界が被害者に責任転嫁しようとし、多国籍製薬会社の医薬品概説文書に「医原性疾患のほとんどは神経症に起因する」と記載するのは不思議ではない。
無防備な患者
承認されていても、誤った、配慮のない、あるいは禁忌であるような医療技術によって生じる好ましくない副作用は、医学が病原性を持つ第一段階である。このような臨床的医原病には、医師が患者を治療するため、あるいは手柄を得ようとして生じる健康被害だけでなく、医師が不正行為で訴えられないようにする保身から生じる不法行為も含まれる。訴訟や訴追を避けようとするこうした試みは、今や他のどんな医原性よりも大きな健康被害を生むかもしれない。
第二のレベルでは、医療行為は、人々が治療、予防、産業、環境医学の良いお客になるよう奨励し、病的な社会を強化することで、病気のスポンサーとなっている。一方では、障害のある人々がますます多く生き残り、施設介護のもとでしか生きられない。他方では、医学的に認定された症状によって、人々は産業労働から免除されることで、人々を病気にした社会を再構築するための政治活動から疎外されている。第二レベルの医原性は、社会における過剰なまでの医療化による多彩な徴候として現れ、私が「健康を営為すること(権利)」の収奪(あるいははく奪)と呼ぶものに相当する。この第二レベルの医学の影響を、私は社会的医原病social iatrogenesis)と名付け、第二部で議論することにする。
第三のレベルでは、いわゆる医療の専門家は、人間が弱さともろさを持ち、それぞれの状況の中で自ら何とかしようとする人々の可能性を奪うという意味で、深く、そして文化的にも健康の営為を否定するように機能している。現代医学に頼り切っている患者は、その有害な技術に支配されている人類の一例に過ぎない。第Ⅲ部で述べるこの文化的医原性の現象は、衛生学が進歩した究極の反動であり、苦しみや障害、死に対する(人々の)健全な反応を麻痺させることで成り立っている。それは、人々が工学的なモデルによる健康管理を受け入れ、あたかも商品のように「より良い健康」と呼ばれるものを生み出そうとするときに生じている。その結果、(患者は)必然的に死ねない状態で生命を維持することになる。
この医学の「進歩」の究極の問題は、第III部で述べる臨床的および社会的な医原性現象とは明確に区別されなければならないが、衛生的進歩の究極の反動であり、苦痛、障害、死に対する健全な反応を麻痺させることで成り立っている。私は、その3つのレベルのそれぞれについて、次のことを示したいと思う。
医原性は医学的に不可逆的なものであり、医学を進歩させようという努力の中に組み込まれた特性である。診断と治療の進歩がもたらした好ましくない生理的、社会的、心理的な副産物は、医学的な治療法に対して抵抗するようになってきた。臨床的、社会的な医原病に対する救済策として考案された新しい装置、アプローチ、組織的な措置は、それ自体が新たな医原病流行の原因となる傾向がある。
治療によって患者にダメージを与えないようにするための、あらゆる段階における技術的マネジメントは、公害防止装置を使うことで却って環境破壊がエスカレートしていくことにも似た、自己強化型の医原性ループを生みだす傾向がある。
私は、この制度に組み込まれた自己強化型のネガティブフィードバックのループを、古典的ギリシャ語を用いて、「医学による報い(Medical Nemesis)」と呼ぶことにする。ギリシャ人は自然の力の中に神々を見出した。ギリシャ人にとってネメシス[3] (女神)とは女神の憤りを意味し、神々が自分たちのために護っている特権を侵害しようとする人間に対して下すものである。ネメシスは、人間ではなく英雄になろうとした思い上がりに対する必然的な罰(報い)であった。ギリシャ語の抽象名詞の多くがそうであるように、ネメシスも神格化されている。ネメシスという女神は、神の属性を獲得しようとする人間の傲慢さに対する、自然からの報いを表している。現代医学における人間の傲慢さは、報いを受けるという新しい症候群を引き起こしている。
ギリシャ語の単語を使うことについて、私は、メディカル・ネメシスという症候群が、官僚、医療職者、イデオロギーの信奉者たちが、直感を欠いたまま技術的に作り上げておきながら、「大規模システムは(人間の)直感に反した振る舞いをする」と言い、雪だるま式の不経済と非効用を説明するような思考の枠組みには収まらないことを強調しておきたい。神話や神々を引き合いに出すことで、今日の医療の崩壊を分析する私の思考の枠組みが、産業界の論理や思想とは異なることを明らかにしておかねばならない。私は、報いを受ける流れを逆転させるには、人間の内部からしか起こりえず、押し付けがましい専門知識とそれが教条化した(第三者が行う)(医学、医療の)管理体制からは生まれないと信じている。医学におけるネメシスは、医学療法に対して抵抗するものである。(現代の)医学は、人々がセルフケアへの意志を取り戻したうえで、法的、政治的、制度的にケアを受ける権利が認められ、医師の専門的独占に歯止めがかかる場合にのみ、方向性を逆転させることができる。
最終章では、医学におけるネメシスを防ぐためのガイドラインを提案し、医学界を健全な状態に保つための基準を提示する。私は、医療や介護の具体的なあり方を提案するものではないし、医療技術や学説、(医療)機構(あるいは体制)に対する是正策以上の新しい医療哲学を提唱するものでもない。しかし、私は、医療体制や医療技術の適用と、それに伴う官僚主義や幻想に対して別のアプローチを提案する。
第I部完
[1]成長の限界について、30年に亘る三部作を世に問うた研究を支援したことで知られる。
[2]現代ではこうした製品の分類が当時よりも細かくなり、医療器具に分類されるものもある。例えば注射針など。
[3]ギリシア神話に登場する女神である。人間が神に働く無礼(ヒュブリス)に対する、神の憤りと罰の擬人化である。ネメシスの語は元来は「義憤」の意であるが、よく「復讐」と間違えられる(訳しにくい語である)。擬人化による成立のため、成立は比較的遅く、その神話は少ない。主に有翼の女性として表される。