研究ノート20:データは万能か?

2021年05月31日

 

はじめに

以前から感じていたことであるが、電子カルテが医療現場で普及し始めたころから、医者は診察において患者に向き直らず、語りかけず、パソコンばかり見ていることが多くなった。特に年代が若い医者ほどその傾向が顕著である。こうした傾向に非難が向けられるが、その背景というか理由には何があるのか、多分に思弁的な試みに終わることを覚悟のうえで、この小論で考えてみたいと思う。

 医師の見つめるパソコンには患者のデータが示されている。ではデータとは何か、という問いが直ちに出てくる。大日本百科事典の説明によると、データ(data) : データム(datum)の複数形で、「論拠・基礎資料、実験や観察などによって得られた事実や科学的数値」などを意味する。「与える」意のラテン語ダーレ(dare)の受身形からでたもの。近年はデータというと「数字」や「コンピュータが処理するもの」と捉えられがちですが、もともとは「客観的で再現性のある事実や数値」であり、必ずしも数字やコンピュータ分野の専門用語というわけではなかったようです。もともとラテン語のdare自体が「与える」という意味であり、「事実や知恵を与える・共有する」という意図も含んでいると考えられます。また、国際標準化機構の「ISO/IEC 2382-1」および日本工業規格の「X0001 情報処理用語-基本用語」において、「データ」の用語定義は “A reinterpretable representation of information in a formalized manner suitable for communication, interpretation, or processing.”「情報の表現であって、伝達、解釈または処理に適するように形式化され、再度情報として解釈できるもの」とされている。

 これらの説明や定義は、データの表現形式に焦点を当てているが、データがなんの目的で使われているということには言及していない。この点について大須賀節雄は、情報技術は他の多くの分野と異なり、特定の対象を持つというものはなく、全てのものが情報技術の対象となる。その意味で情報技術はこれら既存の多くの分野に横断的に関わり、研究のスタイル自体が他の分野と異なるはずである。このような見方をせざるを得なくなってきたのは、情報処理の経験が蓄積するとともに情報を他の分野と同じ目で見ることの無理が次第に明らかになってきたからである(科学技術と人間シリーズ第10巻第5章 技術のノウハウと言語化 科学/技術と言語 岩波書店 1999)。と解説している。この指摘を踏まえ、ここでは医療におけるデータついて考えてみる。

 医療における患者のデータには多くの種類がある。それらのほとんどは患者の内部環境に関するものである。データという用語は情報という言葉と互換できるところがある。患者の内部状況を医師の五感で把握する代わりに、検査データを通して患者の内部環境を再構成し、内部の状態を理解しようとしていると言えよう。そこには病態モデルとして確立したものも、確立途上のものもある。先に引用した大須賀が、「ともすると「情報」という概念がコンピュータを通して考えられるという傾向があった」と指摘していることは、データあるいは情報とコンピュータ操作との親和性を暗示している。もっともコンピュータによるデータ表示や閲覧に関する易操作性と、コンピュータを利用してデータを分析、解釈するということはおのずと異なるものであると思うが、少なくともコンピュータは医療従事者とある種の親和性があると言えよう。この親和性と医療の検査データ主義とが相まって、医師が患者を診ずにパソコンを覗くことに専心する傾向を強めていると考えている。

 医療情報とは何か、という問題提起

この小論では患者の検査データなどを情報と同義語と考える。もう一度大須賀の言葉を以下に引用する。技術ノウハウに関して、コンピュータによってあらわされる情報は全体の一部に過ぎない。したがって従来のようにコンピュータを中心として狭い範囲で情報の領域を設定し、その中で議論をするのではなく、一度コンピュータを離れて「情報とは何か?」を考え直す必要がある。(中略)このようなアプローチが必要なのは技術ノウハウの場合に限られないが、技術ノウハウはその典型的な問題の一つである。そこで「情報を科学する」ということの意味を考え直す必要が出てくる。これを論じることは実は人間の知的活動の全てに関わる大問題である。しかし少なくともこれに対する見通しをつけなければ技術ノウハウの問題はおろか、文化の正常な発展が見込めないと言ってよい。

医療は経験を含めた技術ノウハウである。ノウハウを表現し、伝達するための言語として形式化されたものがデータと理解することができる。もう少し厳密な立場をとれば、個々の医療データ、例えば臨床検査値は医療言語の一部(単語レベル)であるが、narrativeのレベルには至っていないように思われる。それは例えば、コンピュータのプログラムを書くようには、患者の内部環境を十分には記述しえないことが往々にしてあるということから推察される。慢性の痛みについて語るエピソード[1]は、現代医療の限界があることを示している。その限界の一つは原因についての説明ができないこと、第二は治療が往々にして徒労に終わっていることである。もちろんこの限界は固定不変のものではなく、現代医療はその限界を少しでも広げるように発展してきていると一般に信じられている。しかし原因について説明ができないということは、データが患者の内部環境を完全には記述しえていないことと密接に関連しているように考えられる。

 医療データはどこまで実態に接近しうるか

臨床検査データや画像データは患者の内部環境を把握するという目的を与えるということを前提として考える。

第一に、データを得るためには、測定機器が必要である。たとえば、血液をサンプルとする臨床検査機器がそうである。組織のがん化の程度のデータを得るためには、光学顕微鏡が必要である。そしてすべての測定機器には検出限界がある。検出限界以下の状態は臨床的に問題ないとされているが、それは正しいことであるのか。測定機器の進歩によって、ゲノム解析の精度が向上したために、血痕の分析から犯人とされた裁判がひっくり返った事例は、測定結果は常に留保が付けられた「現実の制約から逃れられない表現」に留まると考えなければならないことを示唆している。

 第二に、すべての測定には誤差が付きまとう。観測(測定)上、真の値には到達しえず、常に真の値に接近することができるだけであるという、観測の本質に関わる誤差がある。真の値に接近するということはともすれば「近似できる」という考えに置き換えられて、病態モデルを作ることに寄与しているが、真の値と観測結果との差異はわずかであり、それはモデルを作るうえで支障が生じないという前提に立っているのではないだろうか?わずかな差異が意味するところは別に考察してみたい。

 第三に、患者の状態をより良く、的確に判断するためのデータの種類は、現在ある種類で必要十分なのか、という課題がある。新しい種類のデータが追加採用されることは、データの特性が定義されることである。それは患者の状態を把握する視野が広がった(もしくは手段が増えた)ということができる(もちろんそれが臨床的意義のある視野の拡大と言うこととは直ちに言えず、データと解釈の両方の蓄積を待たねばならないのであるが)。このことは、患者の状態は離散的なデータの分析に基づいて、離散的な診断名へと転化されることである。新規の種類のデータ(セット)が発明されることで、より良い理解の指標が可能になるという信念に繋がる。

 以上の素朴な論点は、患者の内部状態を知るために行われる測定(観察)、特に機器を用いた検査領域におけるデータの限界に関する問題としてとりあえずひとまとめにしておきたい。

データの豊富化は有益な分析と解釈に常に寄与するか?

前節では、医療を含む医学と検査技術の進歩は、データを豊富にするがそこに内在する疑問について若干の思弁的考察を行った。この説では前項と密接に関連するが、データを読み解く医療者側について考察する。

測定に第一種の誤りと、第二種の誤りは観測の本質に由来するものがあることはよく知られているが、測定結果が妥当な範囲にであっても、病態と原因の解釈及び治療法の決定にも人間の認知の誤りに基づく第一種の誤りと第二種の誤りがあると思われる。認知には論理的な要素に加えて、価値観、感情などのヒューリスティックなバイアス要素を抜きにはできない。画像診断において見落としが生じ、重大な治療機会を逸した事例が報道されることは一例である。

 一方で、データの豊富化(新規のデータの種類が多くなること、精度が向上することなど)は、医師の判断に大きな負荷をかけ、さらにその負荷に逆らってますます時流に乗ったデータセットを偏重する方向に追いやる危険性をはらんでいる。医療データの豊富化は、診断ビジネスの推進力にもつながる。

話は少し変わって私的な経験であるが、10数年前に家内が階段から転落して足首を複雑骨折した時、治療にあたった医師は骨密度を測定して、家内の骨密度年齢は90歳超(当時家内は60歳ぐらいであった)で骨粗しょう症であると宣言した(家内に取って、それはもうショックであった。家内は、骨密度年齢が身体老化の実態を正しく示していると思い込んだのである)。医師は骨密度の向上こそ、骨折を防ぐ最善の治療法であるとして骨密度の低下を防ぐ薬を以来処方し続けている。ところが現在インターネットを調べてみると、

 「骨粗しょう症は、骨密度が低下して骨折しやすくなる病気とされていたため、予防にあたっては「骨密度」を中心に考えられていました。しかし、骨密度が正常範囲であるにもかかわらず、骨折リスクが高い患者さんがいることがわかり、その原因を調べると、人によって「骨質(こつしつ)」に違いがあることが明らかになってきました。そこで、骨粗しょう症の定義は「骨強度が低下し、骨折しやすくなる骨の病気」とあらためられ、「骨強度」には骨密度が70%、「骨質」が30%関係していると説明されるようになりました。つまり骨粗しょう症は、骨密度の低下と骨質の劣化、その両方が影響しあって骨折リスクが高まる病気といえます」とある。

この例では、骨密度に加えて「骨質」というデータが指標として採用され、病態の理解(定義)が変化したことを身近に示す例である。このようなことは極論すれば日進月歩の医学/医療の領域では頻繁に生じていると思われる。この新しい定義が妥当なものとなるかは、長期間にわたる検証が必要であろうが、新しい種類のデータを組み込んでの分析と解釈がより適切なものとして受け入れられる。

 大須賀は、技術ノウハウの問題として、1)技術、2)それを作りかつ理解する人間、3)人間同士の間で技術を伝承する手段としての言語、の三点を挙げている。本節で紹介した事例に見るように、データの豊富化は往々にして医学/医療側の人間の理解の混乱だけではなく、患者という医療の一方の当事者に混乱を引き起こす可能性がある。データの豊富化は医療技術を、患者を含めて利害関係者に「伝承する」ことに関する重要な課題であるが、伝承手段としての「言語」の問題でもあり、現代医療技術の本質に関わる事項であるように思える。言語と本質は分かちがたいものであると理解するならば、データとその豊富化の課題は大須賀の指摘する三点すべてに関わることと考えるのがよいかもしれない。

 医療データの豊富化、分析、解釈を通じてまず医師が、患者の病を分かり、それを患者に伝えて患者自身が自分の病を理解、納得できるということに貢献するのかどうかということを考える必要がある。医療には患者の納得が最終的に必要と思うからである。患者にとって病態モデルがどのような意味を持ちうるかも別途考察してみようと思う。

 恩師鈴木良次先生の著書「手の中の脳」[2]の一節第5章「手の働きによる理解」には、手を使う意味と意義について次の記載がある。

 「さて、手を動かすことによって自分の手の特性が分かるという筋書きは、手だけではなく、手が取り扱う対象の性質まで拡張される。(中略)このように、単に視覚によって対象をとらえるだけでなく、それを取り扱う能力を獲得することによってはじめて対象特性がより深く理解されるわけで、これは人間の成長にとって極めて重要なことである」

 パソコン上に現れるデータを視覚的読み取ることが臨床現場での主流となった今日、ここまで論じてきた医療データの本質にかかわる問題と、医師が五感と経験を駆使して初めて患者を理解しようとする姿勢を置き去りにした状況が相まって生まれ、さらに、医療、医学は科学的すなわちデータ優先であらねばならないという意識が加わっている。そのことに対する無批判がEBM (Evidence-based medicine)という流行を招いている一因と考えている。

 

[1] Dipex Japan 健康と病の語り:https://www.dipex-j.org/

[2] 鈴木良次(1994).手の中の脳.東京大学出版会.東京

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