研究ノート21:医療介入の加算性

2021年05月18日

 医原性を考える上で、介入interventionの概念は重要なキーワードの一つと考えている。治療という行為は医療介入とほとんど同じである。しかし一般の人にとっては治療=医療介入という意識はないだろうし、医師もそのような言い方はしない。そのような言い方をするのは専門家に限られる。疾病や傷害の自然経過に医療介入することは、患者が希望する救命や回復など好ましい結果に到達することを目的にしている。それゆえに医師には患者からの要請に応える応召義務[1]が法的に定められている。この応召義務は医療介入の重要な要素である。このことは、介入の結果如何について重大な違法性、過失のない限り、免責するものとして機能している。しかしその免責は自戒的な医療行為とセットでなければならない。

 私が米国系の製薬会社日本法人に勤務していた時の上司は医師資格を持っていた。その方が国家試験に合格したとき、教授から「これで皆さんは人を殺す資格を得たのです」と言われたことを話された。この話は医療介入が法的基盤に拠っていることを示している。このことは、医療行為だけでなく、医療システムが不十分にしか機能しなかった場合の訴訟において、原告(被害者)が敗訴するか、あるいはやむなく和解に追い込まれるかの背景となっている。そのように考える根拠は、薬害事件で原告側の争うべき理由のほとんどが、これまでの裁判事例で医療提供側の完全な落ち度として認められず、被告側に有利に解釈されてきたことである。もっとも裁判で有罪とするためには、法の厳密な解釈に適合する必要があり、薬害事件を断罪するために訴訟は適さない、と考えるべきであろうか。長いサラリーマン生活から学んだことの一つは、問題に直面したとき、するべきこととしてはならないことの二つがあるということであった(このことは倫理にも通じると思っている)。さらに広げると、人生を送るにあたって何事にも同じことが当てはまる。「小さな親切、大きなお世話」というフレーズがはやったことがあったが、介入は間違えばこの俗な言い方の通りになる。

 医療における介入の代表的なものは、薬の服用、手術などである。その中でも薬について考えてみたい。薬局でびっくりする光景は、大量の薬を受け取る人が少なくないことである。大量とはちょっとした買い物袋ぐらいのかさばりである。何種類もの薬が長期間分処方されたに違いないと思われる。薬は種類によって処方できる最長期間が設定されているものもあるので、目いっぱいの処方されているのであろう。薬をいくつも処方することはPolypharmacyと言われ、避けるべき医療行為とされている。ひとつ一つの薬の危険性あるいは有害性は少なくても、それらが相加的、相乗的にどのような影響を及ぼすかは系統的な知見として存在していないのである。私たちは、無視しうる影響を積み重ねるとき、その総体の影響もまた無視しうると認識しているのではないだろうか?認知の限界として考察するべき点である。

 特に高齢者はいくつもの不具合を抱えており、その一つ一つの不具合について少なくとも一つ以上の薬が処方されることが多い。先のびっくりする光景はそのようなケースであろう。薬の副作用は服用する薬の数が多くなれば発現しやすくなる。一般に10を超えると発現率は急上昇すると言われる。副作用でなくともあちこちの機能低下を招く。これらの機能低下や不調を新たな病気と思い、受診してさらに追加の薬が処方されると悪循環が存在する。日本老年学会は薬の数をせいぜい5つまでとしている。

https://www.jpn-geriat-soc.or.jp/info/topics/pdf/20161117_01_01.pdf

 認知症で苦しむ高齢者を、専門医(あるいは専門病院で)に診てもらうと、薬の数を大幅に減らした結果、認知症が改善したという話を聞くことが少なくない。患者とその家族が不具合ごとにドクターショッピングを繰り返すうちに、薬の数が膨れ上がってしまったのである。現在でも、別々の医師が処方した薬が重複し、あるいは類似して(同種同効)不必要と考えられる処方であったとしてもそれをコントロールする有効なシステムはない。クロロマイセチンという強力な抗生物質を別々のクリニックから処方され、結果として多重投与された少女が、致死的な再生不良性貧血によって死亡した時代の問題[2]は未だに続いている。

 当時から改善されたことはお薬手帳が作られたこと、診療明細書が発行されるようになったことぐらいであり、医師の処方権の濫用を有効にチェックするシステムはないに等しい。薬剤師には処方箋に疑問を抱いたとき、処方医に疑義照会[3]を行う義務があるが、医師と薬剤師の力関係、および処方箋の妥当性を確認する患者データに薬剤師がアクセスできないので、疑義照会は表面的なものにならざるを得ない[4]。医師が薬を必要以上に長期間処方し、患者に漫然と服用させることも、介入の加算性の一形態であろう。必要な投薬期間を超えて、不必要な投薬期間を加算するからである。薬局も、長期間の服用に対して処方箋が出る限り、患者にアドバイスをしているようには見えない。

 日本では薬の使用に関して「適正使用proper use」ということが重要な概念とされてきた。ただしこれは、個々の臨床レベルに適用されており、社会全体に適用されているわけではない。簡潔に言えば、「適正使用」とは添付文書に記載のある要求事項を遵守して使用したか?ということである。社会全体として薬の望ましい使い方がされているかどうかは「合理的使用rational use」と言われて、世界保健機関WHOが提唱している。それでも個々の臨床レベルでの世界的な積み重ねが薬害耐性を拡散し、その強度を増していることに危機感を表すところまでになっている[5]。このように薬剤投与においては、加算的な対応になりやすく、漫然と継続し、その弊害についてチェック、コントロールする社会となっていない。そうであれば、コントロールするシステムを作るべきである、という発想が出てくる。しかし、これもまた加算的な対応と言わねばならない。

 この加算的対応について、最近の日経新聞に興味深い記事が載った(参考資料添付「現代人は引き算が苦手」20210509)。私たちは加算によって問題が解決するということを当たり前のように思いこんでいる。不足と思われるものには追加の策を画することが、また不完全と思われることには、新しい技術(あるいは異なるアプローチやシステム)が常により良い解決を与えてくれるものとして受け止めている。不祥事を起こした企業が、独立した調査委員会を設けて、検証するという近年の風潮は、企業統治の責任主体である取締役会では不十分だとして加算に依存するそのものである。

 記憶があいまいとなって誰の話であったか、記憶がたどれなくなったが、ある年配の医師の回想に次のような話があった。父親もまた内科医であり、父親が往診に出かけたときは、まだ若かった息子の医師が代役を務めていた。父親は抗生物質の処方に非常にやかましく、慎重であった。ある時、患者にサルファ剤を処方したことを父親に報告したところ、こっぴどく叱られたというものであった。抗生物質が日本で普及し始めた当時、薬剤耐性の発現には極めて注意深かったのである。

 このような慎重さが当時の医師の常識(あるいは分別と言うべきか)であったとするならば、システムを構築することで誤りやミスを防ぐという発想は対極のものと考えるべきである。このエピソードは、抗生物質の薬剤耐性発現の可能性を、一人一人の医師の意識レベルで抑制しようというものである。システムを構築することは他人に依存することでもある。それは医師としての自覚を喪失することにつながる。自分の失敗や不注意を他人がカバーしてくれるシステムがあるべき、という無意識の傲慢さにも変化する。さらに他者への責任転嫁の体質になりうる。

 ある集団なり組織が何らかの関係性を保っているときに、新たな要素が加われば、全体の複雑性は増す。例えば要素数が5であるとき、要素間の関係数は10である。要素数が6になれば、関係数は15となる。複雑性が増すことで組織の正味のperformanceが向上すればよいが、要素間の調整などに使われるロスも増える。組織内での調整が十分に機能しなければ、組織の不具合も大きくなる。加算モードによる介入は基本的に複雑性を増す方向に動く可能性をはらんでいる。複雑性が増せば、エラー、濫用も起こりやすく、また責任の所在もあやふやになる。現代社会の病理の一つであろう。

 しかし加算によるアプローチにも大きな利点もある。分かりやすい一例は集積した工業団地の発展である。集積は技術が連鎖的に発展してきたことに寄与している。連鎖的に発展することで社会の変化のスピードはますます速くなっている。エレツ・エイデン&ジャン=ハティースト・ミシェルは、Ngramを用いた集合的学習(社会としての学習)の研究の結果、発明が社会の中に普及する速度は、10年ごとにほぼ2.5年ずつ短くなっていると推論している。この状況は技術発展のみを尺度として考えれば素晴らしく、好ましいことである。

 「一般のがん患者の生存率はこの25年以上不変である」とイリッチは脱病院化社会の中で指摘し、「パパニコラウによる膣分泌物テストの診断的有効性はたしかであるし、もし検査を年4回行い、早期手術をすれば明らかに術後5年の生存率を高めるものである。ある種の皮膚がんの治療の有効性が高い。しかし他の大部分のがんに有効な治療があるかとなると、明らかな証拠はなにもない」と断じた。しかしイリッチの指摘から50年後の今日、癌患者全体の生存率は大幅に改善されている。Polypharmacyは薬物療法における加算的介入の好ましくない事象であるが、今日がんの治療は薬物療法+手術+放射線療法+免疫療法が有力な柱であり、これらの組み合わせすなわち加算的介入となっている。加算的介入の成果は確実に上がってきていると言えよう。

 反面、急速なスピードで発展し、複雑性を増した現代医療について一般人の理解はついていけなくなっている。そのことがまた新たな困難、問題を生んでいることは間違いない。これらの現象についてさらなる考察が必要である。人類は長い間、食糧の確保に苦しめられてきた。農業や土木技術が食糧問題の解決に寄与し、それがまた人口増加という新たな問題を生んできた。飢えを克服してきた過程の記憶から、問題や課題への対処において、人類には本能的に加算によるアプローチを優先する傾向が身に備わったと言えるかもしれない。

 

[1]診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。—医師法第19条第1項

診療に従事する歯科医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。—歯科医師法19条第1項

[2] "クロマイ裁判"14年4か月 : 次女・千華(8歳)の薬害死をめぐる闘いの日々 : ドキュメント

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002925521-00

[3] 疑義照会とは、薬剤師が処方箋を元に調剤を行う際、処方箋の記載に疑問点や不明点を感じた場合に処方箋の作成者に対して内容の確認を行うこと。 処方箋監査の際に発生することが多い業務だが、調剤業務のどのフロー(調製や調剤薬鑑査、交付時や服薬指導など)においても、疑問点等が生じた場合は必ず行われる。

[4] この点、筆者が大学病院に入院したときはさすがに薬剤部との連携は取れていたと感じた。問題は一般のクリニックがそれぞれ独立して、処方箋を出すところにある。

[5] WHOは抗菌薬耐性に関連してOne Healthという概念を持ち出している。生産される抗菌薬の半分は動植物界で使用され、薬剤耐性発現の大きな要因と認識されてきたからである。ヒト+動植物界を合わせた世界全体で考えなければどうにもならない、というところまで来ているのである。

Previous
Previous

研究ノート22:生命現象の状態数を考える

Next
Next

研究ノート20:データは万能か?