研究ノート22:生命現象の状態数を考える
2021年06月01 日
このテーマは3つの別々の記憶から出て来ている。一つは大学一年生の時の代数の最初の授業で、先生(失礼ながらお名前を失念した)が黒板に一本の直線を引き、これは数直線であり、連続して見えるが実は隙間だらけである、ということから話を始められた。
二つ目は私が4年生(落第したので大学5年目)恩師鈴木良次先生の授業で、生命の状態が変化している様子を二次元上で表されて、生命が安定しているときはどこかの点の近傍(安定点付近)にあり、命が危ない時にはその近傍から遠ざかっていく、というようなイメージの講義された。
三番目は、1990年代にスペインに行ったとき、ガウディの設計した建物が、曲線で形を成していること、ガウディの「自然界には直線は存在しない。直線は人間に属する。曲線は神に属する」という名言は、私には自然の状態は連続的に変化していくものあることを示唆していると思われたことである。
これらの3つの記憶は今日まで残ったが脈絡はなかった。最近になって結合し、生命の状態は連続的に変化するのか、離散的に変化するのか、という問いが浮かんできた。この小論ではそのことを思弁的であるが考察してみたい。
生命の状態の数は?
生命には動的平衡状態と言われる概念が適用される。この状態は安定しているが一定不動ではなく、ある範囲内で揺らぎをもつ状態と説明されれば、私たちの日常世界の言葉で理解できる。時間芸術である音楽に揺らぎは必須である。ところで揺らぎは生命現象が連続的に変化するものであるのか、あるいは離散的に変動するものなのかと言うことを考えてみる。離散的であるとすれば、生命の状態は有限であり、連続的であれば無限であると素朴に考えられよう。
一例として、生命状態の一部を表現している臨床検査値を取り上げる。臨床検査値には大多数の健康者が示す上限値や下限値が設定されており、その範囲内で正常、範囲を逸脱すれば異常、であると離散的な状態に位置づけられる。例えば、肥満指数であるBMIについては、BMI<18.5(低体重)、18.5以上25.0未満(普通体重)、25.0以上30未満(軽度肥満)などである。これは体重や身長など、連続的に変化する(と認識されている)測定量が離散的データとして扱われていることを意味する。すなわちアナログ量はカテゴリー化されることでデジタル量に恣意的に変換されている。恣意的というのはBMIの式(体重kg÷身長mの二乗)は決め事として世界共通に了解されているが、正常か異常か、などの判断区分は各国で違いがあるからである。
デジタルデータが離散変数であるために、離散量と離散量の間の状況が欠落せざるを得ない。BMI値であれば、低体重と普通体重の間の状態は設定されていない。これら離散量が正常域に含まれるならば、実際的な問題は少ないと見なせる。しかし正常域を逸脱する場合は、どの程度の逸脱が問題になるのかの医学的判断は恣意的なものとなる。恣意的とは人種差や個人差を考慮せざるをえないからである。体重や身長が検査値データが連続量とするならば、それが離散データとして扱われるときに医学的意味を与えられていることになる。医学的意味を持つ状態が生命現象の状態と厳密に対応(あるいは連動)していると考えれば(あくまでも医学的観点からであるが)、生命体が取り得る状態の数はどれほどになるのだろうか?その逆は成り立つのであろうか?
離散データと離散データの間隔を次第に狭くしていくと何が考えられるだろうか? 横軸を検査値(たとえばBMI)に基づいたカテゴリー(離散データ)に対応する間隔とし、縦軸を臨床的意義あるいは病態の程度を表す指標(離散データ)とする。このマス目に切られた平面は、マス目が細かくなってもやはりデジタル平面である。違うところはどこまでも細かく区切られていくマス目の交点すべてに、臨床的意義を与えることが現実には不可能であろう。
BMIを例にとれば、仮に15.0から始めて35.0まで0.1刻みでスケールを作るとする。18.4と18.5の差に明確な臨床的意味が与えられるだろうか?では刻みが0.01になれば18.49と18.50ではどうか?現実には、そのような思考は無意味ということで済まされるに違いない。しかし18.49と18.50の状態の違いは確実に存在すると考えなければならないが、人間の認知として生命現象の状態数を全て数え上げて意味を与えることは不可能ということになる。
以上の思考実験から、アナログデータはデジタルデータに変換して医学/医療上意味を持つことで実用になり、反対にデジタルデータは、離散の間隔をどこまでも狭くしていくと、事実上アナログデータと同じになって臨床的意義の説明機能を喪失すると言えないだろうか。
デジタルデータとアナログデータの同一性の思弁的類推
前節での思考実験によって、デジタルデータとアナログデータが究極で人の認知として区別がつかなくなると仮想した。認知、識別できなければ同一のもの、と考えることは乱暴であろうか?小さいころ、映写機(映画)の原理は1秒間に24コマの静止画像を見せることで、人間には動きが連続して見える、ということを教わった。すなわち認識の錯誤を利用した技術である。スーラという画家は点描派で知られているが、そのタッチの一つ一つはそれぞれに異なる単一色である。単色の点が形成する画像(絵)を遠目に観れば、普通の視力の持ち主には離散する点の集合体ではなく、パレット上での混色技術を用いて連続的に塗られた絵として認識されよう。すなわち視覚の中で混色を作り上げる技法である。ジョジュル・スーラ作グランド・ジャット島の日曜日の午後などは格好の例である。
もう一つ例を挙げてみよう。AI(人工知能)は思考過程がブラックボックスであると言われる。IT専門技術者のモデル的な説明によれば、ブラックボックスという表現は適切ではなく、AIが導いた答え(推論という)がどのように出てきたかを理解するためには、何千万もある状態変数の一つひとつを数え上げることから始めなければならず、それは事実上人間にとっては不可能である、それを一般の人に分かりよくするためにブラックボックスと言っているとのことである。この説明で興味を惹くところは、脳を例にとればその機能が神経細胞の活動によるものであり、神経細胞の機能は閾値を超えた興奮にある(0は興奮していない。1は興奮しているとするデジタル)と理解するならば、脳の状態は有限であるが無数に等しい離散した状態を取り得る。すなわち脳活動の(微細な)状態数も原理的には全て数え上げられるものかもしれない。人間の理解はある程度以上のマクロな状態でしか認識できないと考えるべきではないか。
脳だけをとっても神経活動の状態は把握不可能な数であるならば、生命体全体の状態はどれほどの数になるのか想像はつかない。生命現象の本質はデジタル的性質を持つと考えることは想像しにくいことであるが、生命機能の状態数が事実上無限であり、人の認知・認識の限界をはるかに超えるために、外部に現れた状態はアナログ量として認識されると考えることは可能かもしれない。あるいは、光の本質が波動か粒子かと議論が二分された時代を経て、現在では波動と粒子の二重の性格を持つと理解されているのと同じく、生命という動的な現象とはアナログ量の変化でもありデジタル量の変化でもあると理解すべきなのかもしれない。
病態モデルの有用性と限界
疾病の理解には典型的な病態が検討される。近年では病態モデルを動物で作ることも可能になり、治療薬の創出に大きく貢献している。ここで典型的な病態とは、病態指標データが統計学的に中央値付近(もしくは最尤値付近)に現われるものと考えられる。臨床検査値の正常域(基準値)とは、一般に健康と見なされる人びと数千人について測定したデータの95[1]%が含まれる範囲によって決まる。引用した糖尿病(あるいは高血糖症)の事例では血糖値を糖尿病の診断指標として用いている。病態モデルはあくまでもモデルであるが、それは大部分のケースを理解し、有効な治療に役立っている。もっとも、もともと統計学的な根拠に基づくものであるから、大部分のケースに有効であることは当然と言えば当然であるが。
反面、ある病態モデルから外れた場合には、病名もつけられず治療にも難渋するという状況が生じるだろう。病態モデルから外れたとしても、患者の病状は確かに存在するのであって、それは先に述べた生命機能の状態数を全て拾い上げられない、という現実の制約から生じていると仮定できよう。医療には経験が不可欠であるとされてきた。医局のカンファレンスは経験の共有と伝承の場でもある。経験が豊富であることは、患者の状態の多くを識っているという医療の本道であろう。患者は自分の病態を、医学、医療が作り上げた典型的病態像、すなわち科学的モデルを以て理解するしかないのであるが、そのモデルは本来病態の全てを網羅しえないものである。本質的なモデルを志向するほど、単純化のためにモデルに含まれる状態数は限られざるを得ない。切り捨てられた状態数の中に、人によっては重大な影響を及ぼすものがあり得る。それが個人差と言われるものかもしれない。
モデルにはモデルであるための制約から逃れられないにも関わらず、患者は人為的に作られた病態モデルが自分の病に適合するはず、と考えることが、医学・医療の限界として否定的に論じられる一因ではないだろうか。Dipexの健康と病の語りには、医療から見放されても自分の病を理解し、共生しようという苦闘がつづられている。
Dipex 健康と病の語り
(慢性の痛みインタビュー者31から抜粋)
2002年、自分が運転していた車で事故に遭い、同乗していた妻は頸髄損傷により四肢などに重い麻痺を背負う身になった。リハビリ専門病院を退院直前の、受傷後半年を経過したころから、下半身の灼熱痛、手外側に物が触れただけで痛みを感じるアロディニア、ひどい腰痛などが現れ現在も続いている。
妻から「足が焦げたような、焼かれているような気がする。燃えていないか確かめてほしい」と言われ、激しい痛みに襲われていることに気づいたが、妻の体に何が起こっているのか理解ができなかった。痛み止めの薬が処方されたが効果はなく、痛みは増すばかりで、深刻な病気を疑い将来を悲観し不安が募っていった。
医師に妻の痛みについて相談しても相手にしてもらえず、「リハビリを怠ける口実、性格が悪い」などという印象を持たれ大変なショックを味わった。インターネットなどで情報を集めて調べることで、脊髄・頸髄損傷者の一部に同様の激しい痛みを持つ人がいることが分かり、妻が言っていることに間違いはなく、怠けや性格の問題ではないことがわかった。訪問リハビリ担当の理学療法士から、痛みが強くリハビリが進まない妻に対して、「痛い痛いと言い続ける患者は、もう診てあげられない」と言われリハビリを打ち切られるという経験もした。(後略)
[1] http://lab-tky.umin.jp/patient/kijyun.html