研究ノート26:痛みの誅殺(1)

2022年02月25日

はじめに

「痛みの誅殺」(原題:The Killing of Pain)[1]はイバン・イリッチの脱病院化社会(原題Limits to Medicine)の第III部、文化的医原病の小序に続く1章である。第I部臨床的医原病、第II部社会的医原病とは異なり、第III部における彼の考察は相当に難しくなっている。一つには翻訳が原文に忠実にあろうとして直訳的傾向があること、二つ目には筆者自身が文化的、哲学的な文章の素養がないためである。そのことはいったん横に置き、イリッチは何故「痛みの誅殺」を文化的医原病の冒頭に提示したのか。本論は最初に彼の生きた時代背景から始める。

イリッチは1926年にオーストリアに生まれた。1950年ごろに研究のために立ち寄ったニューヨークでプエルトリコ人のスラムに遭遇し、願い出てプエルトリコ街の教会の神父として赴任し、最下層の人びとのために尽くす。この活動は1956年、当時30歳だった彼がプエルトリコ大学の副学長に任命されるまで続いたようである。

一方この時代のアメリカ社会は「痛み」に対してどのようであったか。1900年のオピエート常用者は総人口7600万人のうち約30万人であった。この比率は現在と大差ないとされる。大半はモルヒネによる快感を求めていた。1900年当時は今日と異なり、アヘンやモルヒネ入りの薬が処方箋なしに入手できた。現在のアメリカと同じく過剰摂取が常用となり、規制を必要とする識者が増えたが全面禁止とすることは、その医療的価値が大きすぎることから選択肢になかった。これは現在でも変わらない。政策立案者は規制を強化し、化学者は痛みを和らげる力は維持したまま、依存性のない鎮痛剤となる化合物の探索を続けた。そしてオピエートの問題は依然として続いていた。イリッチが脱病院化社会を著したのは1971年、彼が45歳ぐらいの時であるからアメリカの、特に都市部の状況を十分に観察し、考察できる時間はあったであろう。アメリカ社会の底辺で病む人々が何に救いを求め、何を代償として失ってきたかを問うたのが第III部であり、その最初に取り上げたものがオピエートによる痛みからの解放であった。彼は神父として赴任したのであるから、彼の言う「痛み」には身体的なものだけではなく、精神的、心理的な痛みも含まれていると考えるのが妥当である。

 イリッチは文化的医原「病痛みの誅殺」の小序で以下のように述べる(抜粋)。

 いかなる文化の中にも健康についての独特のゲシタルト(形態)と、痛み、病気、損傷、死に対しての独特かつ適切な態度を形成する。そして痛み、病気、損傷、死のそれぞれは伝統的に受苦の技術を持つ。すべての伝統文化は各個人が痛みに耐えられるようにし、病気、けがを理解できるものとし、死の影を意味あるものにする手段と能力を与える。そのような文化の中では健康ケアは常に食べ、飲み、働き、政治をし、歌い、夢を見、戦い、受苦することを教える。

 これに対して現代の無国籍な医療企業により広められているイデオロギーはこのような伝統的文化の機能に逆らう。すなわち現代の医療化は個人の痛み、病気、死に対する欲求の(文化的)欲求を否定する。苦しみ、癒し、死ぬことは本質的に文化が人々に教えた自立的活動であるが、今日では技術的官僚による新しい政策分野の問題であると見なされている。

 

この小論ではイリッチの小序の言明をヒントにして、痛みを持つ人々が痛みを受容するプロセスと、痛みを除去することが技術官僚による政策分野の問題となっていることを見ていく。

 

「痛み」の語り部

痛みは症状であって疾病そのものではないとされる。そして痛みは個人のものであって、他人と共有できない。慢性の痛みを抱えて生きる人々の声[2]を聴くことは、現代人が「痛み」とどのように向き合っているか、知ることになる。

 痛みが何らかの原因で慢性化すると、日常の大部分、あるいは全部と言ってよいほどが痛みに支配されたものとなる。例外があるとすれば、眠っているときだけというが、そもそも痛みのために入眠が困難となる。布団の重み、食事をするために咀嚼することだけで痛みが増強する。日常生活の全て、家族、親戚、友人はもちろん医療者とのかかわりを含めて、痛みを持たない人には想像ができないほどの苦痛と負荷を与える。このような慢性化した痛みをもつ人々はどのように受容するのか。以下はDipex Japan「健康と病の語り」との中で慢性の痛みについて語った現代日本に生きる人々の多くの語りの中から、「慢性の痛みとは?」、「痛みの治療と選択」、「痛みと向き合う」、「痛みと共に生きる知恵」、の各項目にまとめられた部分を要約したものである(黄色のマーカー部分は筆者による)。

 ■慢性の痛みとは?

1痛みは主観的なものだが、確かにそこにあるもの

・本当に痛いのか聞かれるが、痛いということしか言えない。言葉でうまく伝えられないのが残念(インタビュー22、期間4年以上、脊椎関節炎)。

・痛みを感じているのは私なので、私にしかわからない。共有できないし、理解されない。慢性的に痛いのが普通で、外からはわからないので、説明しても伝わらない(インタビュー28、期間11年 頚椎椎間板ヘルニア)。

・見た目は普通だが怠けているのではなく本当に動けない。理解してもらうには、自分に乗り移って感じてもらうしか、わからないような関節の痛み、筋肉のだるさがある(インタビュー39、期間24年以上、オーバーラップ症候群)。

 2当事者が語る慢性の痛みの特徴

・朝起きたら、腰が痛くて起き上がれず、箪笥につかまりやっと立ち上がった。整形外科やマッサージに行ったがなかなか良くならなかった。それから25年痛みが続いている(インタビュー04、25年、腰痛症)。

・小学生のときから激しい肩こりと頭痛があり、20代でその痛みが全身に広がり、手の指先、足先、関節の痛み、内臓の痛みまで出て、30代で痛くて寝たきりとなってしまった(インタビュー21、期間42年、線維筋痛症、未分化型結合組織病)。

皮膚炎を繰り返しているうちに感染症がひどくなり、皮膚炎が治っても右手の痺れと痛みは消えず、肩や首なども痛くなった。線維筋痛症と診断がつき、気持ちは落ち着いた(インタビュー17、期間5年、線維筋痛症)。

・痛みの原因となる複数のきっかけ

・顎関節症で顎に負担がかかっており、肩・首も痛く治療を始めた。その後、右被殻出血になり左半身不完全麻痺が出て、顎関節由来の痛みがひどくなり、なかなか治らない(インタビュー37、期間20年、右脳被殻出血、右顎関節症)。

・平成5年に車にはねられ頭部を打撲。痛みが頭→背中→腰へと移っていき、その後も複数回の事故や足の骨折をし、手術を2回受けた(インタビュー34、期間23年、線維筋痛症)。

・複数回の事故や足の骨折のあと、狭心症、鼠経ヘルニアの手術等により、現在は、全身のあちこちに痛みが生じている(インタビュー34、期間23年、線維筋痛症)。

「痛み」は日常用語であるが、“国際疼痛学会(International Association for the Study of Pain)組織の実質的あるいは潜在的な傷害に結びつくか、このような傷害を表す言葉を使って述べられる不快な感覚、情動体験である”と、定義している。

 しかしこのような医学的定義は、ここの登場する語り部にはほとんど役に立たないもののように思われる。痛みは、他人に伝えることが極めて困難で、感覚体験の共有はほぼ不可能であると語られている。また、他人が外見から見ても理解さえしてもらえないなど、主観的、個人的体験であって他者との関係を構築しえない。さらに痛みは映像化も客観的指標を用いた定量化も現在のところほとんど不可能である。当然のことながら他人が定義した痛みに、痛みを抱える人にとって意味を見つけることは可能だろうか。医学的定義と痛みの実態は既にかけ離れている。

慢性という言葉は急性と対比されて、急激に悪化しないが、長期にわたり、緩徐に進行あるいは継続している、というニュアンスがある。しかしそのような意味合いは語り部の苦痛を言葉として表面的に理解することさえ不可能にしてしまう。痛みは持続し、拡大し、治癒はおろか緩解も困難であるという、語り部にとって抜きがたいものが抜け落ちている。

 以下の「痛みの治療と選択」では、語り部が長期にわたっていかに回復に向けて、主として現代医療に、さらには伝統医療から民間療法までに頼ってきたかを示している。

 ■痛みの治療と選択

1-1薬物療法1:痛みの慢性化の経過と薬の種類

・市販薬を試したあと、ロキソニンを処方された。最初はよく効いたがそのうち全く効かなくなった(インタビュー05、期間10年、慢性頭痛)。

・シップ薬やボルタレン座薬、飲み薬を使って5-6年様子を見たが、次第に効かなくなった(インタビュー06、腰椎椎間板ヘルニア)。

・ペインクリニックの医師に、固定した痛みに非ステロイド鎮痛剤は効かないと言われた。栄養補助ドリンク剤を飲んで気晴らしするぐらい(インタビュー12、期間3年半、開胸術後疼痛症候群)。

・線維筋痛症と診断されてから、それまでの痛み止めやシップに代わってリリカ(一般名プレガバリン)と抗てんかん薬、睡眠導入剤が出されるようになった。副作用でぼーっとするのでなるべく飲まずにやり過ごす(インタビュー17、期間5年、線維筋痛症)。

・今はノイロトロピンとトリプタノールを半量と抑肝散を飲んでいて、痛みが強い時はリリカも飲む(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群)。

・日常生活に支障をきたしていた。リリカを飲んでも全く効かなかった。海外の情報を探し、トラマール、アセトアミノフェン、ノイロトロピンを出してもらってペインコントロールが図れるようになった(インタビュー09、期間5年、線維筋痛症)。

 1-2麻薬に指定されていないオピオイド系鎮痛薬(弱オピオイド)を使う

・シェーングレン症候群の診断がついて入院したとき、リリカが出された。主治医が「秘密の薬」と呼ぶトラムセット(トラマドールとアセトアミノフェンの合剤)は4-5回目の入院でようやく出してもらえた(インタビュー18、期間10年、原発性シェーグレン症候群、)。

 ・今はリリカ、セレコックス、トラムセットの三種をその日の体調に合わせて飲んでいる。痛みはゼロではないが半分程度になっている(インタビュー06、期間22年、腰椎椎間板ヘルニア)。

・線維筋痛症の診断後、ステロイドパルス療法でびっくりするぐらい楽になったが、ステロイドを減量すると痛みがもとに戻ってしまった(インタビュー21、期間42年、線維筋痛症、未分化型結合組織病)。

 ・ペンタジンの注射も感動的に痛みが消え、幸せになる治療であったが、使えば使うほど副作用が出たので薬に頼るだけでなく、痛みとうまくやっていくことを考えるようになった(インタビュー21、期間線維筋痛症、未分化型結合組織病)。

1-3医療用麻薬を使う

・主治医に「もうモルヒネしかない」と言われた。アヘン患者のイメージがあって踏み切れなかったが、痛みには勝てず飲み始めたら楽になった(インタビュー07、期間23年、術後腰椎癒着性クモ膜炎および右下肢抹消神経症)。

・だんだんトラムセットが効かなくなってきたのでモルヒネを使い始め、量が増えて飲むのが大変になったので今はフェントステープを貼っている。医療用麻薬は適切な使い方をすれば中毒にならないと聞いていたので、モルヒネも試すことができた。ただ将来の出産に影響するか不安がある(インタビュー08、6年、慢性難治性疼痛)。

・医療用麻薬を使うようになって副作用でご飯が食べられなくなり、丸々2年ぐらい傾聴栄養剤をのんでしのいでいる。この状態から脱したいが薬の選択肢がない(インタビュー25、期間17年、脳幹部不全損傷)。

・モルヒネに対する医療者の考え方が異なり、処方してくれていた医師がいなくなると診療を拒否されたり、強引に減量されたりして普通の生活ができなくなってしまった(インタビュー07、期間23年、腰椎椎間板ヘルニア及び右下肢末梢神経症)。

・医療用麻酔の副作用がつらいので緩和ケアをしている医療機関に相談したが、がん性疼痛ではないので断られてしまう。慢性疼痛の患者が相談するところが欲しい(インタビュー25、期間17年、脳幹部不全損傷)

2-薬物療法2:薬とのつきあい方

2-1効果と副作用のバランスを考えて薬を選ぶ

・線維筋痛症の痛みにはトラムセット、筋肉のけいれんには筋弛緩剤、頭痛にはロキソニンなどその時々の症状に合わせて使う。ここまで来るには多彩な副作用を経験した(インタビュー20、期間20年、線維筋痛症)。

・テグレトールを飲む量が増え、リリカやトラマドールも試したが眠気がひどくてダメだった。薬は合う、合わないがあるので副作用が出たら医師とよく相談が必要(インタビュー03、22年、三叉神経痛)。

2-2薬の過剰摂取と依存

・痛みが強い時に、それまでため込んだ痛み止めや睡眠導入剤をまとめ飲みしたことを主治医に話したところ、作用機序の違う3種の薬の組み合わせを飲むようにしてくれた(インタビュー06、期間22年、腰椎椎間板ヘルニア)。

・ゾーミッグを飲むと痛みが嘘のようにスーッと消えた。最初は1日1回だっだが飲み過ぎに対する警戒心がなかったので、予防的に1日3回飲むようになって(過剰摂取)中毒を起こした(インタビュー05、期間10年、慢性頭痛)。

・ゾーミック服用後に吐き気や手のしびれ、発汗、息切れ、過呼吸などの副作用が出るようになり、救急外来で「合法的な薬の中毒」と言われた(インタビュー05、期間10年、慢性頭痛)。

2-3薬による痛みの抑制をあきらめる

・痛み止めを飲んでも効かず、副作用が出るだけなので飲んでいない。痛みのため不眠とうつ状態になるので睡眠導入剤と精神安定剤を飲んでいる(インタビュー33、期間12年、胸椎、頚椎、腰椎後縦靱帯骨化症)。

・これまでいろんな治療をやりすぎてしまった。今は体の左右のバランスを整えるという民間療法を受けながら飲む薬をできるだけ減らしている(インタビュー19、期間11年以上、自律神経失調症、慢性疲労症候群)。

 ・どんな薬を飲んでも痛みは軽減されなかったが、EMRD(眼球運動による脱感作と再処理法)という心理療法を受けて初めて変化を感じた。今は睡眠導入剤以外服用していない(インタビュー16、期間7年、慢性疼痛障害)。

・転げまわるような痛みでさまざまな医療機関を受診したが、ブロック注射も投薬も効果がなかった。今も痛みの自覚がないのは睡眠薬を飲んで寝ているときだけだ(インタビュー12、期間15年以上、腰椎すべり症)。

3神経ブロック

・ブロック注射で体がリセットされ、家族性地中海熱の頭痛や関節痛が劇的に楽になった。毎週打てるといいが今は月に一回なのでモルヒネ系の貼り薬を増やして対処している(インタビュー40、期間40年、家族性地中海熱)。

・線維筋痛症の痛みを和らげるため、星状神経ブロックの際に点滴で麻酔薬を入れるとトローンと眠くなり、それは至福の時だった(インタビュー19、期間11年以上、自律神経失調症、慢性疲労症候群)。

・線維筋痛症でブロック注射を受けていたが、一定回数を超えると自費扱いになるので続けられない。効果が切れれば痛みが再発する。その繰り返しでその場しのぎの治療だった(インタビュー09、期間5年、線維筋痛症)。

・ブロック注射は5,6年前に2回ぐらい、さらに10年ぐらい前にも数回受けているが、1回も効果がなかったので今は腰の痛みに対して何の治療もしていない(インタビュー12、期間15年以上、腰椎すべり症)。

・硬膜外ブロックで麻酔液が流れるとつねっても感じなくなったが、CRPSの足首の痛みは消えず、麻酔がかかっているのになぜ痛いのかわからず怖くなった(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群)。

・硬膜外、仙骨、クモ膜下、神経根とさまざまなブロック療法を試したが、入院が必要なものもあるのでそんなにはできないし、効かなくなってきたのでモルヒネを増やしてもらった(インタビュー07、腰椎看板ヘルニア及び右下肢抹消神経痛)。

・3週間薬を投与し続ける持続硬膜外ブロックでCRPSの痛みは半減したが、その後は良くも悪くもならず、今も月2回の神経ブロックを受けている(インタビュー32、期間3年、複合性局所疼痛症候群)。

・筋肉注射は筋肉を傷つけるからよくない、という医師もいるが硬膜外ブロックで合併症を経験したこともあり、結局は自分で選択するしかない(インタビュー25、期間17年、脳幹部不全損傷)。

 4リハビリテーション・理学療法

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・シェーグレン症候群のリハビリとして」月に一度、足の血行を良くするケアを受けている。ほぐされると足が暖かくなるが、効果が続くのはその日1日ぐらい(インタビュー18、期間10年、原発性シェーグレン症候群)。

・運動療法と認知神経リハビリを受けている。正常な感覚を持つ右足と比較して脳の誤動作を修正する。週に1,2回受け、効果を実感している(インタビュー32、期間3年、複合性局所疼痛症候群)。

・目を閉じて左足の輪郭が描けるか?と聞かれ、膝から下が消え、そこにはただ痛みだけがあることに衝撃を受けた。認知神経リハビリは、モノを感じ取るためのリハビリだと思う。実際に動かす前に、頭の中で動かしてみるなどして脳のエラーを発見する。感覚をイメージできない動きは頭の中でもできない。動かすに必要な要素をつなぎ合わせ新しく「学習」して、依然とは別の足を「作り直し」たように思う(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群)。

4-2リハビリへの思い

・運動主体のデイケアを週二回利用。痛みの一日が始まると思うと固まって動きたくない…とも思うが、動くと痛みは軽くなり、動けることが喜びになっていく。動かすことはつらいが、動かさないことへの恐怖、プレッシャーがあり、やりすぎて余計に壊してしまうことも。リハビリ仲間はやりすぎないでと声をかけてくれる(インタビュー37、期間20年、右脳被殻出血、右額関節症)。

・リハビリを卒業して5年。日常生活には支障がなくなったが、もう養護教諭の仕事はできないと医師に言われ、できないことを改めて自覚しかなり落ち込んだ(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群)。

・リハの先生が来てくれることが楽しみ。歩行訓練やマッサージの時に「なんでも話を聴くよ」「もっと自分をほめてあげて」と慰めるようなことをいってくれることが一番の救い(インタビュー15、視床痛、腰痛)。

・理学療法士は終わりのない不都合さを抱えるように付き合ってくれる存在。維持できることが理学療法の効果(インタビュー37、期間20年、右脳被殻出血、右顎関節症)。

5認知行動療法的アプローチ

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・様々な医療機関を受診したが薬は効果がなく、痛みの専門病院で運動や認知行動療法を含む3ヶ月のプログラムを受けた。痛みはあるが年単位で杖なしで歩ける程度に回復した(インタビュー12、期間15年以上、腰椎滑り症)。

.・認知行動療法など心理学の本を読み、健康法や民間療法も色々試したが結局成果は出ず、身体も動かず無理だと感じ、熱心にしなくなったら身体が楽になった(インタビュー20、期間20年、線維筋痛症)。

5-2個別継続的な心理(精神)療法

・EMDR[3]は脳に刻まれたトラウマ記憶が症状の根本にある前提で、指の動きに合わせて目を動かし、トラウマ記憶を想い出すと記憶の再処理がはかれる、と聞いている。現在、EMDRによる治療を受けている途中。記憶を1つ処理した後に、痛みの感じ方が変わったので効果を感じる一方、副作用のような症状も出ている(見当識障害とか、ちょっと意識障害とか記憶障害みたいなもの)(インタビュー16、期間7年、慢性疼痛障害)。

・顎関節症の治療の一環として、うつ系のカウンセリングの紹介を受けたが、内にこもっていく合わないタイプのカウンセリングだった(インタビュー37、期間20年、右脳被殻出血、右額関節症)。

・自分の思考を変えるきっかけとして臨床心理士を頼った。保険の効かない高額なものはとても無理と思い、ネットでNPO法人の1回2000円程度のものを見つけた(インタビュー09、期間5年、線維筋痛症)。

・痛み自体は変わらなくても、毎年少しずつ「境地」が変化するので。それを知るためにセラピストがいると身近にいない。自分で記録し、変化を見つけるようにしている(インタビュー28、期間11年、頚椎椎間板ヘルニア、頚椎損傷)。

5-3当事者の視点を活かす 痛みをケアする立場へ

・NLP[4]を学び、試行錯誤して専用のカリキュラムを作り、人にも伝えるなかで体調コントロールが出来るようになり、寝たきりだったところから社会復帰した(インタビュー21、期間42年、線維筋痛症、未分化型結合組織病、他)。

・NLPで痛みは楽になっていったが、今は線維筋痛症以外の病気もあって、気持ちや考え方だけではどうしようもないと感じることがある(インタビュー21、期間42年、線維筋痛症、未分化型結合組織病、他)。

・古巣の病院で自分の臨床での苦労話を、せきを切ったように話した。担当医はただ頷いて聞いてくれた。前医と見立ては変わらないのに、以降は痛みが気にならなくなった(インタビュー38、期間8年以上、頚椎症)。

・痛みをきっかけに、研究の軸足を基礎医学から自分の体験を元にした当事者研究へと移した。痛みは「あなたの物語についていけない」と身体が教えてくれる、意味あるもの(インタビュー38、期間8年以上、頚椎症)。

・自分が医師として診療にあたるときも、症状の「意味」を徹底し、診察が楽になったが、その一方で物語を変えるタイミング、その伝え方の難しさを感じている(インタビュー38、期間8年以上、頚椎症)。

5-4痛いのは私のせい?―心の問題とみなされること

・痛みを引き起こすのは、自分の考え方がいけないのでは?神経質なところや底のほうにある強情なところがいけないのでは?と思うまでに切羽詰まっていた(インタビュー05、期間10年、慢性疼痛)

・最近では慢性の痛みというと、まず心や成育歴、受けとめ方の問題と言われる。痛みが消えないのは自分のせいと言われているよう。慢性痛全てに当てはめるのは止めてほしい(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群)。

6集学的治療:多方面からの専門的アプローチ

・様々な医療機関を受診したが薬は効果がなく、痛みの専門病院で運動や認知行動療法を含む3ヶ月のプログラムを受けた。痛みはあるが年単位で杖なしで歩ける程度に回復した(インタビュー12、期間15年以上、腰椎滑り症)。

・整形や麻酔、リハの医師やスタッフ、学生など、院内のほとんどの職種が都合のつく限り参加する患者会で、ざっくばらんに話ができた。おかげで今、仕事に復帰できている(インタビュー06、期間22年、腰椎椎間板ヘルニア)。

・入院中たまたま参加しはじめ、半信半疑で週1回、3カ月ほど参加した患者会。そこで学生から聞いた痛みのとらえ方の話が、考え方を変えるきっかけになった(インタビュー06、期間22年、腰椎椎間板ヘルニア)。

・入院したとき、訪問リハの理学療法士がすぐ来てくれ、腰が痛くないベッドの角度やトイレについて一緒に考えてくれた上、休日返上で病院の担当看護師に伝えてくれた(インタビュー15、期間6年、視床痛、腰痛)

・慢性疼痛の患者は、わらをもすがる思いで色々な方法を探し、痛みを抱えた状態であちこち行かざるを得ない。自分に合う方法を教えてくれる場所があったらいいのに(インタビュー29、期間13年、不明)

・モルヒネに対する医療者の考え方が異なり、処方してくれていた医師がいなくなると診察を拒否されたり、強引に減薬されたりして、普通の生活ができなくなってしまった(インタビュー07、期間23年、腰椎椎間板ヘルニア、右下肢抹消神経症)。

・慢性の痛みには集学的医療が必要。慢性疼痛の社会的コストは大きい。色々な人が知恵を出すことで活躍の場が増やせるし、情報が得られることで患者も希望を持てる(インタビュー35、期間20年、脊椎損傷後神経因性疼痛)

7代替療法・民間療法

7-1わらをもつかむ思いで

・自分は治るんだという気持ちで、鍼灸、整体、アロマ、骨盤矯正、健康ドリンクなど、いいといわれることはほとんどやり尽くしたが、お金がかかっただけで状況は変わらなかった(インタビュー07、期間23年、腰椎椎間板ヘルニア、右下肢抹消神経症)。

・治らない難病だということを理解していなかった頃は、TV通販で売られている漢方薬をはじめ、痛みに効くと言われるものは何でも飲んでいたが、お金が続かなかった(インタビュー33、期間12年、胸椎・頚椎・腰椎後縦靱帯骨化症)。

7-2西洋近代医学に限界を感じて

・西洋医学的な検査では異常が見つからず、医師から「もうやめよう」「自分で調べて」「怠けてるだけ」といったことを言われたので、根本的に民間療法に切り替えることにした(インタビュー36、期間8年、不明(重度の過敏性腸症候群、身体表現性疼痛の疑い)。

・「エネルギー療法」を始めて大学病院で処方されていた安定剤の服用をやめた。4カ月ほどで消化器症状が落ち着いてきて、アルバイトに応募する気力も出てきた(インタビュー36、期間8年、不明(重度の過敏性腸症候群、身体表現性疼痛の疑い)。

・鍼(はり)治療は即効性があって早く楽になれた。整形外科に行って牽引をしても治るのに時間がかかると思ったが、じっくり治していたら今の痛みはなかったかもしれない(インタビュー04、期間25年、腰痛症)。

・民間療法がこんなにひどい痛みに効くか半信半疑だったが、斜頸の甥が受けていた、からだの左右のバランスを整える治療を試してみたところ、3回目で膝の痛みが治まった(インタビュー19、期間11年、自律神経失調症・慢性疲労症候群)。

・病院で出た漢方エキス剤は効果が感じられずやめてしまったが、漢方薬局では頭痛だけでなく便秘など全身の症状に合わせて調合してもらえるので続けていきたい(インタビュー05、期間10年、慢性頭痛)。

・西洋薬も飲みながら、鍼(はり)に1週間に1度くらい通っていた。全身の気血の巡りを整えることで、三叉神経痛の痛みの感じ方が変化したのかもしれない(インタビュー03、期間22年、三叉神経痛)。

・術後に整体師の勉強をするうちに自分の体の中心バランスが悪いということに気づいた。ナースの仕事に戻ってからも筋肉が堅くなる前に整体師仲間にほぐしてもらっていた(インタビュー06、腰椎椎間板ヘルニア)。

7-3自分で実践することの効用

・民間療法で教わった自分専用の体操を家でやっていると、からだがカーッと熱くなって調子が良くなる。同時に考え方がポジティブになり、ストレスに強いからだになったと思う(インタビュー19、期間11年以上、自律神経失調症、慢性疲労症候群)。

自己治療は宇宙のエネルギーを自分に伝わらせて「お手当をする」もので、最初は体がぐわーっと熱くなるが、毎日やっていると次第に熱の波が小さくなって良くなっていく(インタビュー36、期間8年、不明)。

・地元で笑いヨガのリーダー研修を受講して、線維筋痛症の仲間との交流会でも笑いヨガをやってきた。笑いで痛みが消えるとは限らないが、家庭でも笑うように心がけている(インタビュー34)

7-4自分の生活を見つめ直すきっかけに

ヨガや瞑想を通して自分と向き合う時間を持つことがせっかちな自分に助けになった。自分との対話が痛みのコントロールにもつながったのではないかと思う(インタビュー01、期間23年、線維筋痛症)。

7-5懐疑的なまなざし

痛む右手に鍼を刺すなんて考えられないと思ったが、ツボは左右対称なので左手の同じところに打てば効くと勧められた。試してみたが効果は感じられなかった(インタビュー13、期間2年、複合性局所疼痛症候群)。

・ひどい痛みに苦しむ母を心配した妹がハンドパワーの祈祷師のもとに連れていったと聞きショックを受けた。3-4回通ったが効き目はなかった(インタビュー03、慢性の痛みを持つ76歳女性の娘)。

7-6自由診療による経済的負担

・東洋医学や精神科での自費診療で膨大にお金がかかり、生まれ育った家を売却するまでにいたり、一時期、親族との関係も悪化した(インタビュー40、期間40年、家族性地中海熱)

高名な中国の鍼(はり)の先生にかかり、漢方も処方してもらったときには、1年間で300万円かかった。杖なしで歩けるようにはなったが、痛みがなくなるということはなかった(インタビュー16、期間7年、慢性疼痛症候群)。

語り部の、恢復への諦めない試行錯誤の努力と我慢は相当なものである。持続する痛みの苦痛はそのような努力と我慢を要求するもの、と理解すべきであろう。個人の試行錯誤はそれぞれであるが、およそ思いつく回復への手段が列挙されている。語り部は、現代医学の鎮痛薬による緩解の試みから入っている。幸いにかなりの程度の緩解に至った人もいるが、多くの人は現代医学の鎮痛剤による対処法の限界、さらには無力さに直面している。そのような状況の中で現代医学の鎮痛剤ではなく、伝統医療、リハビリや心理療法などが効果をもたらしているケースもある。現代医学を含めあらゆる医療手段に頼って試行錯誤する状況は、まさしく「痛みを誅殺」しようとする段階と言えるだろう。その試みの中で多くの語り部は、痛みには全身とのかかわり、脳機能や精神・心理的なものとのかかわりがあることも発見するに至っているようである。

■痛みと向き合う

1.   慢性化した痛みをどう受け止めるか?

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・痛みを追い出すのではなく、一緒に暮らすような発想になった(インタビュー41:期間4年、繊維筋痛症の疑い)。

・医師から「あなたの老いがそのうち追いついていくから」と言われ、ショックだったが今では痛みが消えるということは期待していない(インタビュー23、期間3年半、開胸術後疼痛症候群)。

・最初は年数がたてば痛みがなくなっていくと思っていたが、今では痛みのない日はなかなか来ないことは分かっているので、痛みに支配されないよう他のことに集中したい(インタビュー08、期間6年、慢性難治性疼痛)。

・診断がつくまではどうして捻挫が治らないのか不思議だったが、CRPSという病がついて納得がいった。痛みが広がっていないのは言い兆候なのだろう(インタビュー32、期間3年、複合性局所疼痛症候群)。

1-2絶望、不安と向き合う

・ドライアイスを当てたような視床痛とつきあって6年になり、耐えるのに疲れて、時々こどもがいなかったら早く死んだ方が楽になると思うこともある(インタビュー15、期間6年、視床痛、腰痛)。

・余りの痛さに眠れず「もう逝っちゃおうか」と思っていたところ、どうして分かったのか、かかりつけ医に「死んだらだめだからね」と言われ、家族へ責任感から踏み止まった(インタビュー⒓、期間15年以上、腰椎すべり症)。

・この痛みが一生続くというのが耐えられず、死にたいという気持ちになる。家族もいるし、そうする勇気もないが、そこまで痛いというのがこの病気(CRPS)だと思う(インタビュー30、期間14年、複合性局所疼痛症候群)。

・痛みが一生続くと思うとつらく、先が見えないのが不安。これからの人生がもったいない結果に終わるかと考えてしまう(インタビュー13、期間2年、複合性局所疼痛症候群)。

1-3変化の過程と転機

・痛みから逃げることができないまま命が続き、もがきを繰り返しながら何かを得ている(インタビュー28、期間11年、頚椎椎間板ヘルニア(2005)、頚椎損傷(2011))。

・以前は完全な健康体を目指していたが、結局悪化してきた。元気でバリバリ働くのは絶対無理だと分かった。一生付き合う覚悟ができた(インタビュー20、期間20年、線維筋痛症)。

・病気が治らなくても一緒に歩んで行ける自信を持てているのは、この状況で夢をあきらめず博士号を取ったことがきっかけ(インタビュー01、期間16年、関節リュウマチ)。

・楽器の演奏はあきらめたが、合唱に誘われ長丁場の曲を歌いきることができたのを転機に、できることをやって行こうと考えるようになった(インタビュー11、期間10年以上、リウマチ)。

1-4諦めるのか受け入れるのか

・腰の痛みはもうよくならないとあきらめているが、それは痛みと仲良く同居して行くしかないという意味での諦めだ(インタビュー04、期間25年、腰痛症)。

・痛みが日常になったが痛みから逃げてはだめだと言われている。それはあきらめとは違いありのままを受け入れることだ(インタビュー12、期間15年以上、腰椎すべり症)。

・壁は乗り越えられないと明らかに分かったらそれは「受け入れ」。あきらめたとも思わなくなるのが受け入れではないか(インタビュー42、期間9年、複合性局所疼痛症候群I型)。

・以前は闘おう、乗り越えようという気持ちが先走っていた。今は受け入れることはまだできないが、手ごわい隣人として接していこうと思う(インタビュー12、期間14年、線維筋痛症)。

・神様、仏様から与えられた試練だと思うしかない(インタビュー39、期間24年以上、オーバーラップ症候群)。

1-5痛みのある自分を受け入れる

・最初の2年はただ恨み節で泣いていたが、これが普通の日常生活と思うようになって痛みも全部ひっくるめて今の私がある(インタビュー12、期間23年、腰椎椎間板ヘルニア(術後腰椎癒着性くも膜炎)+右下肢抹消神経痛)。

・痛みと闘っていくのが自分の人生。人生とはみんなアンフェアなものだ(インタビュー24、期間26年、頚椎ヘルニア、腰椎椎間板症、仙腸関節障害)。

・しばらくはなにかするたびに「痛い」と口にしたが、痛みがある自分を否定しない生き方をするように考えを変えた(インタビュー33、期間12年、胸椎・頚椎・腰椎術後じん帯骨化症)。

・何で自分が病気に選ばれてしまったのか。インタビューに協力するのも病気に選ばれた意味がそこにあると思いたいからかもしれない(インタビュー16、期間7年、慢性疼痛障害)。

長い試行錯誤の期間を経てようやく痛みからの恢復が不可能と知るとき、痛みを抱える人々は死にたくなるほどの絶望に追い込まれる。そこから一歩ずつ痛みの受容の過程が始まる。他人に背中を押された、というより痛みと格闘する中で自ら受容の入り口を見つけるようである。人々は身体的、精神的に耐えてきた「痛み」を、受容すべき「苦」に変化させる境地にたどり着き、痛みの「意味」と「人生」を見出すように思える。

■痛みと共に生きる知恵

1-1

・医師に聞いた「痛みを邪魔にしない」「痛みから逃げない」「生き生き」「明るい生活」という4つのモットーを冷蔵庫に貼って自分の目標にしている(インタビュー12、期間15年以上、腰椎すべり症)。

1-2痛みをなくすことをゴールにしない

・完全に痛みが無くなったら嬉しいがそれをゴールとするのではなく、どこかで折り合いをつけて、痛みがあっても生活を楽しめるようにしていきたい(インタビュー41、期間4年、線維筋痛症の疑い)。

・「治らなきゃ何もできない」と考えたら人生は絶望的だが、痛い中で何かができるかを考えられたら、今のつらさが半分になってきっと楽だと思う(インタビュー25、期間17年、脳幹部不全損傷)。 

・以前は痛みをゼロにしなければ気が済まず薬を飲み過ぎて副作用に苦しんだが、今では「動ける範囲の痛みならよし」として人にも薬にも完璧を求めなくなった (インタビュー05、期間10年、慢性頭痛)。

1-3痛くてもやりたいことをやる

痛みがなくなったらやりたかったお寺回りに「すぐ行きなさい」と勧められ、痛かったが6回に分けて回ってきた。「痛いから」と逃げずに自分の思いを実践することも必要(インタビュー12、期間15年以上、腰椎すべり症)。

痛みがあっても何かできたというのがないと何もない人生になってしまう。翌日具合が悪くなるリスクがあっても、自分ができる小さなことを最大限にやろうと思っている(インタビュー20、期間20年、線維筋痛症)。

・「痛い」と常に言っているのではなく、「痛い」と言うのを休憩させて、小さなことでも楽しいことに挑戦してみることで、痛みを少しずつ減らす方法を自分で見つけていく(インタビュー39、期間24年以上、オーバーラップ症候群(是遠心性強皮症、シェーグレン症候群)。

1-4痛みに支配されない

・授業や外出中に急に刺さるように痛んで家に帰らねばならないこともあるが、そんな時は別な日に行ければいいと思う。一瞬にとらわれてすべてが終わりと思わないようにしている(インタビュー13、期間2年、複合性局所疼痛症候群)。

・痛みで生活や人生のコントロールができなくなる感じがあるが、痛みをバロメーターにして生活やメンタル面のコントロールが付くようになり、敗北感から少し這い上がった(インタビュー01、期間16年、関節リュウマチ)

・最初はこの痛みは一生取れないのかと思って焦ったが、次第に自分で何とかして10の痛みを0にするのではなく8にしようという方向に考えが変わり、整体の勉強も始めた(インタビュー06、期間22年、用椎椎間板ヘルニア)。

1-5痛みを客観化する

・痛みと治療に関して毎日記録をつけて自分の痛みの基準を作ることで、いつも「今が一番痛い」と思いがちなのが、「以前より良くなっている」と実感しやすくなった(インタビュー13、期間2年、複合性局所疼痛症候群)。

・自分の体を実験台にして、寝るときの姿勢や運動によって自分の痛みがどうなるかを毎日毎日研究した(インタビュー24、期間26年、頚椎ヘルニア、腰椎椎間板症、仙腸関節障害)。

・放送大学の講義を参考にして、脳の中の痛みを感じる箇所が働かないように、自分でも音楽を聞くなどして、脳の違うところを活動させるようにしようと考えた(インタビュー39、期間24年以上、オーバーラップ症候群)

・理学療法士が定期的に握力や痛みの度合いを測定してくれるので、自分でもそれを数値で確認することができて、リハビリを努力しようという気持ちの支えになっている(インタビュー37、期間20年、右脳被殻出血、右顎関節症)

・毎日、朝昼晩と痛みの変化の記録をつけていると、逆に痛みから離れられなくなってしまうので、痛みがあってもどうすれば楽に過ごせるかを考えたほうがいい(インタビュー21、期間42年、線維筋痛症、未分化型結合組織病、他)。

語り部は、痛みを人生の一部として(一部という表現は適切でないかもしれない)受け入れることによって、少なくとも精神的な安堵を得、それが身体的に、日常生活の良い影響に繋がっていると語る。痛みに勝利したという高揚感はないが、人生に完璧を求めず、隣人と折り合いをつけ、抗わず、持続する痛みの中でも何ができるかを考えるようになる。それは自分を責めず、痛みを持つ人生を丸ごと承認することのようである。このような態度は極めて高度な悟りの境地のように見える。痛みとの闘いは、現代医療(医療技術、医学)、医療者を含めて自分の外側へ助けを全面的に求める行為であるのに対して、絶望から一種の悟りにたどり着く行為の中心にあるのはおのれ自身と向き合うことである。その遷移の過程にあっては、自分自身の記録をつけ、実験台にして、身体内部の声を聴き、脳機能のエラーまでも把握することができるようである。

こうした語り部の心境や考え方の変化は、痛みを誅殺するという作業ではなく、痛み、苦痛を受容することに成功したことを示している。それは医療技術、医療者の助けがあったとしても、本人の生活と生存への健全な「知恵」と「意欲」がそうさせたと言ってよいのだろう。

米国におけるオピオイドの濫用と政策課題

Dipexジャパンの語り部の中で、医療用麻薬(オピオイド)によって中毒を経験したケースは限られている。日本では現時点で緩和ケアにおいても医療用麻薬の使用量は欧米に比べて低水準にある。患者も医療サイドもオピオイドに対する警戒心がまだ健在である。他方、米国のオピオイド濫用と社会的危機は数十年前から続く米国の抱える問題であり続けている。その状況は世界保健機関WHOも憂いているが、最近のLancetに掲載されたEditorial記事を以下に紹介する[5]

Lancet editorial 20220205: Managing the opioid crisis and beyond(訳)

2020年は、北米のオピオイド流行において、これまでで最も死者の多い年となりました。米国では10万人以上の薬物の過剰摂取が記録され、そのうち約7万6000人はオピオイドに起因するとされ、2019年より約30%増加、カナダでは単年度で67%増加し、6200人以上の死者が出ています。COVID-19の大流行という例外的な状況は、治療プログラムやナロキソンのような救命薬へのアクセスを妨げ、サポートネットワークを制限することによって、多くの過剰摂取による死亡を助長した可能性があります。しかし、オピオイドの流行は、1995年にオキシコンチンが承認され、安全でリスクの低い徐放性オピオイド鎮痛剤として【誤って】(カッコは筆者による)販売されて以来、絶えず、複雑で、数十年にわたる危機であった。

オピオイド危機の背景を明らかにすることは、しばしば米国に特有な要因が協働していることに焦点を当てることになる。米国食品医薬品局(FDA)による一連の疑惑的な決定や、麻薬取締局(DEA)によるオピオイド製造の大幅な増加など、多くのことが語られてきた。オピオイドの潜在的な致死性について、公衆衛生関係者や救急隊が早くから警告していたにもかかわらず、聞き入れられることはなかった。いわゆる規制の虜、つまり公共の利益よりも企業の利益を優先させることが、米国における医薬品製造の慣行に染み付いているのだ。パデュー・ファーマ(オキシコンチンの製造元)のような製薬会社は、政治運動や支援団体、医学部のプログラムに多額の資金を提供することで、圧倒的な力を行使してきた。調査ジャーナリストであるパトリック・ラデン・キーフは、著書『痛みの帝国』の中で、「オピオイド危機は、公的機関を破壊する民間企業の素晴らしい能力についてのたとえ話である」と述べている。

このような背景から、オピオイドの蔓延が進み、痛みの商業化が定着し、影響を受ける機関が広がっていることを認識し、新しい報告書「北米および世界におけるオピオイド危機への対応:スタンフォード-ランセット委員会の提言」が発表されたのです。同委員会は、北米におけるオピオイド流行の状況を分析し、危機を脱却するための政策立案者の行動計画を示しています。1999年以来、北米では、少なくとも3つの波にわたって、オピオイドの過剰摂取による死者が60万人以上発生しています。この10年間に、実質的な政策改革がなければ、さらに100万〜200万人がオピオイドの過剰摂取で死亡すると予測されています。

2011年以降、処方されたオピオイド、拡大するヘロイン市場、フェンタニルなどの違法な合成オピオイドによって、「絶望の死」という物語に残酷な再配置が行われた。オピオイド過剰摂取による死亡は、黒人(10万人当たり27人)、アメリカ先住民およびアメリカンインディアン(10万人当たり28人)で増え、2020年には歴史的に見て多い白人死亡数(10万人当たり26人)を上回ることになったのである。人口動態の変化に加え、委員会は、オピオイド使用障害(OUD)の治療において、中毒を慢性疾患と位置づけ、大きく転換するよう求めています。例えば、メタドンやブプレノルフィンの提供など、地域に特化した薬物療法サービスを追加した地域専門依存症センターに対して一貫した資金提供を行うことで、米国における依存症治療モデルにも大きな影響を与えるものです。委員会は、OUDの治療と痛みの治療における革新の必要性を強調し、バイデン政権に国家疼痛戦略を再活性化し、集団レベルの指標と研究、予防プログラム、提供者の訓練、サービスの提供を改善するよう呼びかけています。

オピオイドの蔓延に終止符を打つための革新と変革には、強化された規制が必要である。米国の制度は、市販後調査や医師教育の失敗、規制当局と産業界の金銭的利益相反の容認によって、破壊された。しかし、オピオイド危機の教訓は、北米だけで起こりうるということではない。欺瞞的なマーケティングや処方方法を抑制し、低所得国向けの補助金付きジェネリックモルヒネに国際的な資金を提供しなければ、他のオピオイド危機の可能性も残されているのだ。COVID-19が医療システムを荒廃させ、資源に乏しい環境での痛みのニーズが満たされず、企業が新しい市場を求めても自己規制に委ねているところでは、世界に広がるリスクはより大きくなるのです。痛みを管理するためには、欲も管理しなければならないのです。

 

何故米国社会がこのような濫用に走っているのか。この記事を読んで直ちに連想されるのはサリドマイド薬害事件の背景である。第二次世界大戦終了後のヨーロッパ社会は戦場となった荒廃から立ち上がれるかどうかという不安を抱えたものであったという[6]。それゆえに人々は安眠を求めた[7]とされる。その不安が社会を覆う時期に、従来から危険性の高いバルビツール系睡眠剤とは一線を画した、安全性の高い睡眠剤としてサリドマイドが大々的に宣伝されたのである。記事が、オキシコンチンが安全でリスクの低い徐放性オピオイド鎮痛剤として【誤って】販売されたと指摘したことは、サリドマイド発売時の再現のようであるである。サリドマイド販売時の状況と類比すれば、米国におけるオピオイド濫用は米国社会が少なくとも数十年前から明らかに病み始めていることを反映しているとも言えよう。

オピオイド濫用の懸念は米国白人のみならず、米国の黒人、先住アメリカ人の間にも拡大していることである。それにとどまらず世界の低・中諸国に広がる懸念がある。現代医療とそれを支持する医療産業は恩恵の果実と同時に負も文化、民族、国の境を容易に超えさせていく。これがイリッチの言う「無国籍の医療企業」の影響である。無国籍の医療企業には負の部分を世界に拡散しようという意図は毛頭ないにせよ、結果としてそうなるかもしれないという想像力もないのである。

この状況に対してスタンフォード-ランセット委員会が国家疼痛戦略の見直しと再活性化をバイデン政権に提言を行った。そして記事は「オピオイドの蔓延に終止符を打つための革新と変革には、強化された規制が必要である。米国の制度は、市販後調査や医師教育の失敗、規制当局と産業界の金銭的利益相反の容認によって、破壊された」ことに言及していることは法規制、制度、・政策上の技術的問題として認識されていることを示す。米国社会が表面よりもより深いところで病が進行していることは言及されていない。それは「痛み」そのものへの理解を踏まえようという立場ではなく、オピオイドの濫用という社会問題の対処に焦点を当てるものである。言い換えれば、万人にとって普遍的な痛みとはなにかという根源的な問いが、医療技術、政策上の課題にすり替えられているのである。

オキシコンチンは果たして【誤って】販売されたのか

Editorialは、オキシコンチンが安全でリスクの低い徐放性オピオイドとして【誤って】発売されたことを指摘している。オピオイド製剤はこれまでいくつも開発・市販されているが、その開発の狙いは依存性が全くなく、しかし鎮痛作用は従来と変わらず保持されている薬物で、さらには従来のオピオイド中毒者を治療できるものであった。

しかしこの試みはことごとく失敗に終わってきた。というのは薬物中毒性が従来になく弱いものであるという触れ込みのものであっても、必ず使用量が増え新たな中毒患者を作り出してしまうのである。これは人間の脳に脳内オピオイドが存在するためであるとされている[8]。中毒性が弱いものは安全性が高い、という触れ込みは、オピオイド開発歴史の中で繰り返されてきた陥穽を考慮していない。オキシコンチンがGateway drugと言われるのは、中毒性が少ないとして宣伝を信用し、使っているうちに深みへ誘い込まれる入口ということを意味する。麻薬という言葉は、愉楽・快感・多幸感を与えるという不思議な薬物であることと、魅入られて虜になることの両義であろう。原文のerroneouslyは単なる誤り、あるいは承認してはならないことを間違って承認したという第一種の誤りなどではなく、「繰り返されてきた過ち」を「分かっていて」承認したとして理解するべきであろう。

 本論冒頭で述べたように、医療用オピオイドはその医療価値が余りに大きく、私たちは全てを禁止とすることはできない段階に踏み込んでいる。オピオイド常習者の米国人口に対する比率は1900年代初期と大差がないとしても、その入手について処方箋を必要とする規制がかかっている。そのことを考慮すれば、オピオイドの問題ははるかに深刻化していると考えるべきである。

これから先、依存性が全くなく、鎮痛作用は従来のものと同等の薬物が開発されるまでは、オピオイドの負の部分と医療用価値とのトレードオフを強いられ、続けざるを得ない。残念ながら、トレードオフが機能せず、オピオイドが濫用され、公衆衛生の問題であり続ける状況の根底には、米国社会に社会不安と分断が存在し続けていることが無視できないと思われる。

イリッチの医療批判は先駆的であると同時に、医療の負の部分に対して焦点を合わせ、表現が過激なものであったことが多くの反感、反論を招いた。米国社会の底辺の人びとを見た彼にとってはバランスよく目配りの効いた、誰にとっても収まりの付くような批判はあり得なかったと考える。とはいえ、イリッチは、医療として必要な部分までを含めたものではないと思う。本小論は痛みの誅殺の小序のテキストをヒントとした。次は痛みの誅殺のテキスト本論について考察したい。

[1] 言わずもがなであるが、俗に言われる痛み止めはPain killerである。

[2] DipexJapan:健康と病の語り。慢性の痛みについて語っている。

[3] EMDR

[4] ※NLPとは、Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラミング)の略称で、心理学と言語学から体系化された人間心理とコミュニケーションに関する技法のひとつ、とされている。

[5] AI翻訳サービスであるDeeplを用いた機械翻訳である(筆者によるPost editingは行っていない)。

[6] Stephens,T and Brynner,R(2001).Dark Remedy The impact of thalidomide and its revival of a vital medicine. New York: Perseus Publishing

[7] 痛みの語り部のある人は、安眠の間は痛みから解放されると語っている。ある人は、耐え難い痛みのためになかなか入眠できないことを訴えている。さらに痛みの対処に医療用麻薬を点滴されたとき、それは至福の時だったと述べている。この三つが組み合わされば、強力な睡眠薬や麻薬に依存した状況が生まれるのは当然であると言えよう。

[8] トーマス・ヘイガー(2020).歴史を変えた10の薬.すばる舎

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