研究ノート25:アカデミアが群衆化の引き金を引く

2021年12月07日

 

 

群衆の愚かさについての研究者や学者の考察は少なくない。仮説へのヒント12(オルテガとイリッチの同時代性)と文学校提出作品(医療における全体主義の水脈について)でも取り上げた。これらの考察で共通する視点は、政治指導者(体制)というごく一部エリートの人間集団と、それ以外の国民、市民、民衆、一般人を全てひっくるめて二項対立させた考察である。群衆は個性を持たず、熱狂しやすく冷めやすく、自分の考えを持たない、いわば烏合の衆のように捉えられている。しかし群衆は熱狂化することと不可分なものなのか、熱狂化したときに初めて群衆となると言えるのか、素朴な疑問がある。

 私が医原性に関心を持つ直接の理由は、私が安全性部門の責任者の一人として経験したイレッサの薬害事件である。この事件は、従来の抗がん剤につきものの細胞毒性を持たない、初の分子標的薬として、かつ世界で初めて日本が承認するという薬学、薬事的に画期的な特徴を背景としていた。イレッサへの期待は、異常と思えるほどの熱狂であった。それは患者とその家族、医療界、行政を巻き込んだ一種の社会現象ですらあったかもしれない。このあたりの事情は被害者が結成した薬害被害者の会のホームページに詳しい[1]。話は20年前にさかのぼるが、私がAstraZeneca社(日本法人)の安全性部門の責任者であったときに、AstraZeneca社が発売した抗がん剤イレッサによる肺障害(主として急性の間質性肺炎)という薬害事件が発生した。この健康被害は連日のように新聞で報道されたが、健康被害は一向に終息に向かわなかった。このことは私にとって不可解なことであった。マスコミでイレッサによる重篤な健康被害が、新聞、テレビなどで連日報道されていながら、イレッサの医療機関における使用に抑制がかからなかったように見えたからである。

 ここでの論点は、医療機関における医師たちは、外部から見る限りイレッサを使い続け、発売前のプロモーションに安全性と効果を強調した専門家たちは口をつぐんでいたことである。それは発売前から昂っていたイレッサへの熱狂がそのようにさせていたのではないか、と考えるようになった。イレッサを巡る熱狂とイレッサの薬害拡大との関係は検証するべきテーマである。私たちは医師や医療の専門家は、一般の人びととは異なる見識と用心深さを備えていると信じてきたが、実はそうではなく、熱狂し、暴走するという点においてはこれまで論じられてきた群衆と何ら変わらないのではないか?

 話を群衆に戻す。

群衆とは、国民国家における最大多数からなる構成員であり、市民、国民でもある。一方で、社会学者や政治学者にとって、群衆とは常に上から目線の先にあるように思われる。その視界に入る「群衆」は互いに有機的関係をもたない個々の存在の集まりと捉えられている。本小論はこの「有機的関係をもたない個々の存在の集まり」という見方への懐疑から出発する。

 今日、人々は社会的に明確な境界を持つ、さまざまな集団に何重にも属している。しかし一人の人間がただ一つの集団にしか属していないということは稀であろう。そのために各集団はあいまいさを有することになり、それによる集団間の相互作用も容易に起きうる。卑近な例を挙げれば、会社勤めのサラリーマンが、家庭では父親であり夫であり、一歩家の外にでれば、自治会の役員であり、趣味に赴けば囲碁の会員であることである。それは一人の人間がいくつもの集団に同時に属しているという複雑さを持ち得ているのである。さらにその個人が属するそれぞれの集団の内部と外部の両方にネットワークを持っていることから、今日の「群衆」とは近代的な市民国家が成立したときのように、二項対立で理解できるほど単純なものでなくなっている。「群衆」というものの実態は一昔前とは比べ物にならないほど複雑で、理解は難しくなっている[2]。嘗て政治的指導集団とそれ以外の大多数の人びと、すなわち群衆を対置した図式で論じられたことを考えて直してみなければならない。

 

ル・ボンの「群集心理[3]」も二項対立という視点ではアーレントやオルテガと同じ立場に立っているように思える。しかし彼の言う群衆とは、圧倒的大多数の集団とは限らず、最小では10人以下のグループでも心理的群衆になり、例えば今日的な表現で言えば、ネットで繋がっているだけの「離れ離れになっている数千人の個人」の心が強烈に揺さぶられれば、心理的群衆の性質を持つようになるという。群衆とは一つ所に集合する必要はなく、大勢である必要はない。心理的につながって一つの方向に向いていればよいのである[4]。したがって、多数の人々が自動的に群衆となるのではなく、心理的につながって一つの方向性をもつ集団となるときに、初めて群衆となると解釈することができよう。いくつもの集団からなる複雑化した社会の中にさらにサブ群衆の集団があり、またそのサブ群衆の集団内にいくつもの集団が、いわば入れ子構造をなして社会全体が形成されているということが想像できよう。これらのまとまりある集団をクラスターとするなら、多くのクラスターは条件によって一斉に同期すると[5]考えられる。クラスターも複数存在すれば、クラスターから成る「群衆」を形成すると考えることができる。各クラスターは完全に独立ではありえず、相互にチャネルを有しているからである。

 イレッサに熱狂した集団は、患者と家族、医療界、行政、マスコミなど、それぞれのクラスターである。話は少し飛躍するが、還暦を過ぎて大学院に入学したことで、アカデミアとのつながりができた。例えば学会に所属するとか、学術誌に論文を投稿するなどである。アカデミアがすでに社会の一員としての集団であるので、アカデミアは専門家というクラスターと考えることができよう。そのクラスターの中ではやはり一部のエリートと「群衆」に分けることができる。例えばあるアカデミアを取り仕切る人々と、アカデミアの単なる一員としての多数である。私たち一般の社会人からすれば、アカデミアという集団はその専門性によって社会的に尊敬されるべき存在である。しかしアカデミアの内部においても、一部のエリート集団(特に権威のある学者、専門家、教授など)とそれ以外の一般「群衆」という集団が常に存在すると想定できるだろう。イレッサの事件に当てはめてみると、熱狂の最初のトリガーを引いたのはどのクラスターか、ということはあまり問題としない。重要なことは、クラスターから成る群衆の中でどのクラスターが熱狂化に重要な役割を果たしたか、と言うことであろう。

イレッサは抗がん剤であり、化学療法の専門家が使うべきと後に指摘されたが、当時は抗がん剤という化学療法のガイドラインも専門医制度もなかった。イレッサは安全性が高いという、発売前の専門家の言を信じたこともあってか、歯医者でさえ処方した例があったと言われる。処方医にとって、権威ある専門家の言は非常に影響力がある。権威をもつ専門家というクラスターが、医療現場というクラスターに影響を及ぼしていたことは十分にあり得ることであろう。そして多数の医師は群衆化してイレッサの処方に邁進したと考えれば納得できるところがある。ル・ボンの著した「群集心理」は、ヒトラーが熟読したと言われる。ヒトラー独りの演説に熱狂・狂喜する大衆の映像は今見ても空恐ろしいものがある。ル・ボンは一握りの人間、特に指導者たちが人民を支配するときに用いる手口を次のように洞察している。すなわち「断言」、「反復」、「感染」である。これらの作用はかなり緩慢であるが、その効果には永続性がある、としている。ナチスのその手口を群衆に拡散させた一つはマスコミである。今日ではマスコミ界だけでなくインターネットもクラスターの一つと考えることができるが、両者ともイレッサ事件でも熱狂化に加担する役割を担ったと言えよう。薬事行政の不備に起因してきた古典的な薬害事件が、新たな構造の薬害事件に変質した転換点である。その変質とは、古典的な薬害が供給サイドや薬事行政の手落ちから発生したのに対して、イレッサの薬害は医療関係のアカデミアとマスコミが熱狂化に重大な役割を担った、という点にある。それはAZ社が意図的に販売のために利用したのであるが、そのことを以てアカデミアとマスコミを免責すことにはならないであろう。

[1] http://i250-higainokai.com/INDEX.html 私たちが信じたイレッサ

[2] 参考資料:マーク・ブキャナン(2005).複雑な世界、単純な法則.草思社.東京

[3] ギュスラーヴ・ル・ボン(1993).群集心理.講談社学術文庫.東京

[4] 武田砂鉄(2021).ル・ボン群集心理.NHKテキスト

[5] 同期現象にはいろいろな事例がある。F.D.ピート(1989).シンクロニシティ.朝日出版社.東京

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