研究ノート30:WHOのPower志向

2022年05月17日

 

仮説へのヒント33で世界保健機関WHOの二つの宣言(アルマアタ宣言とアスタナ宣言)を取り上げ、これらの宣言が人々の「健康の実現」が各国それぞれにおける課題であると同時に、グローバルに共有するべき政治課題であるとしたことを考察した。健康の実現を世界規模で共有するべき課題という観点からは、国連が主導したMDGs(ミレニアム開発目標)とSDGs(持続可能な開発目標)にも触れなければならないが、ここではWHO自身が健康の実現についてどのような志向をもっているかと言うことについて考えてみる。

 

WHOの発信するニュース記事を10年近くウオッチしていて気が付くことは、Exposure,

Eliminate, Eradicate, Battle, Preventable, Controlという単語が頻繁に出現することである。

まずExposureは、人体が環境から好ましくない刺激や作用を受けるときに使われている。例えば、土中の鉛、大気中の汚染微粒子、海水中のマイクロプラスティック、河川中の感染性微生物などが存在し、人体に影響が入り込んでくる状況である。心や精神の健康については、職場での人間関係や労働条件悪化によるストレスについても用いられている。

 

これらの事例は、人口集団の健康を良好に維持するには、それら好ましくない要素を回避、排除することである、とWHOが考えることを示している。とは言え、環境中の好ましくない要素を根絶することは容易ではない。他の要因に影響を与えずに、特定の要因だけを根絶、排除できることはほとんど困難である。他の要因は、その要素を作り出して生活する人々や利害関係者も含むからである。したがって、より現実的なアプローチは、健康を損ねた人体を医療によって回復、修復させることである。

 

予防接種は好ましくない要素(ウイルス、細菌など)を、人体に回避(防御)させるWHOの基本戦略である。ワクチンが存在する疾病について、WHOはPreventable diseaseと呼び、もしワクチン接種が出来なかったために死亡すれば、その死はPreventable deathとされる。特に新生児から5歳未満の幼児に対するワクチン接種キャンペーンは、WHOの使命にとって生命線である。

 

成人の生活習慣病(非感染性疾患NCDs:Non-communicable diseases)も、生活習慣を見直すか、効果的な治療手段が手に入れば、軽減すると考えられている。例えば糖尿病は安価なインシュリンが広く入手できさえすれば、多くの人々が寿命を全うすることができるとされる(すなわち、糖尿病による早期の死はPreventableであると考えられている)。しかし安価なインシュリンすら入手がかなわず、平均寿命に達する前に死亡すれば、その死はImmature deathと形容される。

 

感染症に対するワクチンと糖尿病に対するインシュリンの事例は、個体における医療的対応であると同時に、それが集団内で確実に広がれば公衆衛生的対応になる。WHOが医療手段の価格低減に固執してきた背景である。WHOはPreventableな死を公衆衛生上の課題と捉え、可能な限り減らそうと努力してきている。

 

しかし、公衆衛生的対応が成功したとしても、感染の病原体が無くなったわけではなく、糖尿病を誘発する社会的、文化的、生物学的リスクから解放されたわけではない。集団の健康とは、環境の劣化と対抗手段との、常に不安定な均衡の上に成り立っている(私たちは集団の健康が安定に保たれる状態がどこかにある、という幻想を抱いているかもしれない)。しかし集団の健康を維持するためには、対抗手段についての継続的なメンテナンスとアップデートを行うだけでなく、さらに環境を望ましい状態に変化させるという踏み込みが要求される。

 

WHOは喫煙者の人々に対してタバコの害を説き、他方で、各国政府に対してタバコ規制を働きかけている。それにはタバコのパッケージのデザインと警告、そして値上げによるマイナスインセンティブも含まれる。タバコ産業(企業)そのものを潰すということは、WHOとして言えないので、周囲から締め上げるアプローチを取らざるを得ない。それだけにWHOが関与する事項や利害関係者は増えていくことになる。WHOの守備範囲が限りなく広がる一因である。喫煙の習慣とその弊害については、現在のところワクチンやインシュリンに対応する安価で、効果的な治療薬がない。個人の習慣とそれを容認している社会的、文化的環境を矯正することが今のところの対応である。

 

他の要因にほとんど影響を与えず、その要因や現象をEliminateすることが困難と考えられる時にはControlという用語が使われる傾向にあるようである。例えば、CDC (Centers for Disease Control and Prevention疾病対策予防センター)は広く疾病、傷害、障害の管理と予防を使命としている米国の機関である。CDCの名称の一部であるDiseaseに疾病、傷害、障害の3つを含めてControlすることを目的としていることは示唆的である。

 

Controlの本意は、望むことを行うことができる、ということにあるが、その根底にはPowerがあって、ある状況、組織、システムなどを己の支配下に置く、(すなわち管理)という想定がある(COBUIL英英辞典)。病気、ことに感染症全体を根絶することはできないので、特定の疾患が暴走しないよう、力を行使して制御するという考えである。この考えを進めれば、対象に対する操作性Operability、介入Interventionなどの発想に繋がる。現代において技術は社会問題を解決する力の源泉である。健康の回復、維持もまた個別化された医療技術によってなされている。医療技術が進歩すればするほど、力の源泉と見なされ、介入が日常化することは避けられないことであろう。

 

Elimination, Battle, Preventable, Controlも全てPowerを根底に置いている。個別化された医療技術の、人口集団への適用は拡大し続けている。保健医療の分野において世界を主導する権威を信任されたWHOが、パンデミック対する旗振りを機に、より大きな力の付与を国際社会に求める志向は当然の帰結と言うべきと思われる。

 

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参考:WHO第150回執行理事会開幕: 5つの優先課題

(WHO発信ニュース2022年1月、木村訳)

 

第150回執行理事会は、2022年1月24日~29日に開催されます。執行理事会は、最高の意思決定機関である世界保健総会(5月22-28日開催予定)の下準備をする役割を負っており、総会が承認した国が選出する34名で構成されています(日本からは中谷比呂樹氏が出席)。

 

理事会の開催にあたり、事務局長の掲げた5つの優先課題(要旨)は次の通りです。

 

これからの5年間、WHOが責任を持つべきことは、各国の成果を出す能力を大幅に強化することです。

第一に、今回のパンデミックから学ぶことは、各国が健康と福祉・幸福な状態を促進するため、緊急に発想の転換に向けた支援することです。

第二は、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの基盤として、プライマリー・ヘルス・ケアに向けた医療システムの抜本的な方向転換を支援することです。これは保健サービスへ普及、拡大、維持し、家計負担を減らすことを意味します。

第三は、あらゆるレベルで疫病やパンデミックに対する備えと対応のためのシステムとツールを早急に強化することです。

第四は、健康増進と疾病予防、早期診断と症例管理、疫病やパンデミックの予防、早期発見、迅速な対応など、科学、研究イノベーション、データ、デジタル技術を活用することです。

第五は、WHOをグローバルヘルス領域において世界を指導し、方向付けを行う権威ある組織として、緊急に強化することです。

 

(木村注:WHOの課題はいくつもあるが、その中で財政の課題は最も大きいものの一つである。各国の負担金拠出渋りにWHOは慢性的に悩まされている)

 

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