研究ノート6: 技術の操作性

2020年06月01日

私は製薬企業で臨床開発部門と安全性部門の両方の業務を経験した。一般に臨床開発部門は安全性部門より格が上とみられている。これは厚生労働省(審査部門と安全対策課)などでも同様であるという。企業と行政では異なる理由によるのかもしれないが。製薬企業が新薬を上市することは事業の拡大に直結するから、地味な安全性業務よりもてはやされることは自明ともいえる。

製薬企業からCROに移ってから両業務の違いに関して、品質管理部門の責任者と論争したことを覚えている。その責任者の曰く「安全性業務は科学的とは言えない。市販後調査や安全性のデータは雑音ばかりで、明確なことは一つもない。臨床開発は科学的である」という趣旨であった。

津田敏秀は医学と仮説[1]の中で、疫学者ロスマンとグリーンランドの次の言葉を引用している。実験(著者注:臨床)研究はしばしば観察者の操作管理性をある程度必要とする。これは疫学では達成できない。つまりこの操作管理のみが実験研究からの推論を強化できるのである。しかし現象観察の程度が強化されているわけではない。そして、そもそもこのような操作管理は誤りを防ぐ保証にならない。加えて実験研究からのメカニズム的証拠だけでは科学者も政策決定者も決して説得されない。

臨床開発においても精密なプロトコルは必須である。自然科学における研究対象とは異なるが、人間を対象とする研究だけに倫理性と科学性を両立するべく技術的な操作手法を駆使してプロトコルが作成される。それは試験系をコントロール(操作)するという意思に基づく。

一方、市販後の使用(特別)成績調査や安全性のデータは臨床現場の使用(処方)実態の観察に基づくものであり、疫学的性格をもっている。両者の調査研究の違いは明瞭である。先の品質管理責任者の言は、臨床開発は操作性を持つが故に科学的であり、安全性は操作性を持ちえないために科学とはなりえないという信念に基づくものと解釈できる。ただし、本人が明確にそのことを理解しているかは別問題であったが。

押しなべて技術にはいくつかの操作性に関する要素が含まれている。第一に医薬品の開発に臨床試験は不可欠であり、その実験技術は二重盲検試験のプロトコル作成に集約されている。ヒトを対象として必要な倫理性を確保しながら、エンドポイントの証明を確実なものとするプロトコルをデザインする操作性は開発者にとってのだいご味である。デザインとは操作性と不可分になる。加えるならば、ある技術自体の操作を容易にするツールの開発は、操作性の本質について無自覚な状態にさせる。例えば二群比較試験において、有意差のある成績を生成するために必要な症例数の算出法がパソコンで利用できるのは初歩的な事例である。

 第二に臨床データは容易に外部からの影響を受ける。それはバイアスによるものではなく、悪意ある人為的な操作である。データの改変はその最たるものである。データそのものを操作する、生成されなかったデータを付加する、あるいは都合の悪いデータを削除する(あるいは採用しない)、などである。データをして語らしめるということは隠された茶番となる。これは操作性と倫理の葛藤である。表面化するたびに、研究倫理に悖るという批判が繰り返され、防止策が強化されるが、操作性の誘惑は常に人間の本性に訴えかける。データに対する悪意のある操作事例は洋の東西を問わず。枚挙にいとまがない。

 第三に、これらデータに対する操作は、医薬品の承認の可能性を高め、あるいはより多く使ってもらうという意図から出ている。すなわち自然経過に任せた販売実績を待つのではなく、将来に対する強い介入を意図している。言葉を変えれば、技術の操作性は将来を操作しようというところまでを含んでいる[2]。将来の好ましい結果を期待して、現在のなにものかに技術を適用することは、将来に対する介入となる。病気であればその自然経過を当てにせず、予後という未来を出来るだけ有利な、好ましいものに変えようとするヒトの本能的なものであろう。

[1] 津田敏秀.2011.医学と仮説-原因と結果の科学を考える-.岩波書店

[2] ディオバン事件は近年の典型例である。

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