Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(11)

不平等に対する公平性の権利

 

健康に関する最も一般的ではっきりしている政治問題は、医療を受けることに不公平な偏りがあり、貧乏人より金持ち、無力な者より有力者を優遇しているという非難である。専門家が受ける医療水準は、スウェーデンやチェコスロバキアからインドネシアやセネガルまで、国によって大きな差はないが、一般市民が受けるサービスの価値は、国によって千差万別である。多くの貧しい国々では、少数の人々は社会的に多数の人びとよりもはるかに多くのものを得るように最初から決まっている。金持ちだからというよりも、軍人や官僚の子供であったり、大きな病院の近くに住んでいたりするからである。豊かな国では、マイノリティとされる様々の人々は恵まれないが、それは一人当たりの金銭的分配が少ないということではなく、必要とする金額よりはるかに少ない金額しか得られないからである。

 スラムの住人は、必要になっても医者にかかれないし、もっと悪いことには、老人が貧しくて「家」に閉じ込められていれば、医者から逃げ出すこともできない。こうしたことや似たような理由から、政党は健康への願いを、医療機関へ平等に受診できる機会を求める要求へと変えていく。政治家たちは通常、医療制度から生みだされる財には疑問を挟まないが、特権階級のためのものはすべて、自分たち選良に権利があると主張するのである。

貧しい国々では、国民の大部分を占める貧困層が富裕層よりも医療を受けられないのは明らかである。少数の人々が受けるサービスに医療予算のほとんどが使われ、大多数の人々からあらゆる種類のサービスを奪っている。キューバを除くラテンアメリカ全土では、最も貧困な人びとの階層人口の5分の1、すなわち40人に1人しか、5年間の義務教育を終えていない。重病になって病院の治療が期待できる人々の割合も同様である。ベネゼラでは一日病院にかかれば、一日の収入の10倍もの費用が必要である。同様にボリビアでは40倍にもなる。ラテンアメリカのどこでも、富裕層は人口の3%で、大卒者、労働者の指導層、政党幹部、金やコネだけでサービスを受けられる家族に限られる。これらの少数の人々は、高額な治療を受け、多くの場合、自分が好む医師から治療を受ける。ほとんどの医師は、患者と同じ社会階級出身で、政府の金で国際水準の訓練を受けている。

病院での治療機会が不平等であるにもかかわらず、医療が受けられるかどうかは、個人の収入と必然的に相関するわけではない。メキシコでは、人口の約3パーセントが社会保障制度(ISSSTE)を利用できる。ISSSTEは、特別な社会保障制度であり、人手による看護ケアと高度な技術を組み合わされていると公表されている。この幸運な人々は、大臣であろうと事務職であろうと、真に平等な待遇を受ける公務員で構成されており、実証モデルの参加者として、質の高いケアを期待することができる。したがって、田舎の村の学校長でも新聞を読めば、メキシコの外科はシカゴの外科と同じくらい充実しており、彼を手術する外科医はヒューストンの外科医の水準に達していることが分かる。高級官僚が入院すると、生まれて初めて労働者と病室を共有しなければならないので、イライラするかもしれない。しかし彼らは上級管理者にも下級の部下にも等しく医療を提供するという社会主義の公約が高いレベルで守られていることには満足している。

どちらの患者も、自分たちが等しく特権的な搾取者であるという事実を見落としがちである。3%の患者にベッド、設備、管理、医療技術を提供するには、国全体の公的医療予算の3分の1が必要である。貧困国において、すべての貧困者が質において均一な医療を平等に受けられるようにするためには、現在の医療専門職の訓練と活動のほとんどを中止しなければならない。しかし、特別扱いされる社会的、経済的、医学的、あるいは個人的な理由があったとしても、全ての人が一定以上の医療を受けることがないというのであれば、全国民に効果のある基本的保健サービスを提供することは、十分に安いものである。貧しい国々で公平性が優先され、サービスが効果的な医療の基本に限れば、全人口が現代医療の脱医療化を共有し、セルフケアのための技術と自信を身につけるようになり、その結果、自国を社会的医原性から守ることができるだろう。

 豊かな国では、健康の経済というものは幾分か難しい問題である。一見すると、貧者への関心は保健医療の総予算をさらに増額させるように働くように見える。しかし、人々がサービス機関によるケアに依存するようになればなるほど、平等な受診機会と平等な恩恵を備えた公平性が何であるかを明確にすることは難しくなる。公平性とは金持ちと貧乏人に等しく金をかければ実現するものであろうか?それとも、平等な結果を得るためには、お金がかかろうとも貧しい人々にも同じ「教育」を受けさせる必要があるのだろうか?あるいは、教育制度が公平であるためには、貧しい人々が、アカデミックな上昇志向を競い合う富裕層よりも、屈辱を受け、傷つくことがないようにしなければならないのだろうか?それとも、すべての国民が同じような学習環境を共有して初めて、学習機会の公平性がもたらされるのだろうか?

 教育分野ではすでに繰り広げられているのであるが、医療機関の受診機会における公平対平等の戦いが、医療分野でも起こりつつある。教育分野とは対照的に、健康におけるこの問題はこれまでのデータで容易に分かることである。アメリカ国民の中で最も貧しい層であっても、一人当たりの医療費支出を見れば、そのような医療が医原性を帯びるベースラインはとっくに通り過ぎていることがわかる。豊かな国々では、セルフケアを強化するために使われるのであれば、貧しい人々へのサービス予算は十分すぎるほどある。恵まれない人々に限定したとしても受診機会を単に増やすことは、専門家の幻想や不法行為も平等になるだけのことであろう。

 健康には、自由と権利という2つの側面がある。特に強調したいのは、健康とは、人が自分自身の生物学的状態と身近な環境の状態をコントロールできる自律性の範囲を指すということである。この意味で、健康とは、生きる自由の度合いと同じである。法律はまずもって、自由としての健康の公平な分配を保証すべきであるが、それは、有機的な政治が創り出す環境の条件に依存する。しかし(その保証の度合いが)ある一定の強度を超えると、医療がいかに公平に分配されても、自由としての健康を窒息させてしまう。この根源的な意味において、健康をケアするとは秩序を保った自由の問題なのである。この概念に暗黙のうちに含まれているのは、何かをする上で譲ることのできない自由という好ましい立場であり、そこでは市民の持つ自由と権利とは区別されなければならない。政府から縛られることなく行動する自由は、人々が財やサービスを得ることを保証するために国家が制定する市民権よりも広い範囲に及ぶ。

 市民的自由は、私の願いをかなえてほしいと、他者に押し付けるものではない。政府に対する限り、人は自分の意見を自由に公表することができるが、だとしてもある新聞社がその意見を掲載する義務を意味するものではない。ある人が礼拝の場でワインを飲む必要があっても、モスクの建物の中でそれをよしとする必要はない。同時に、自由の保証人としての国家は、平等な権利を保護する法律を制定することができる。それなくして人々は自由を謳歌することはないだろう。

 このような権利は平等に意味を与えるが、(権利として勝ち取った)自由は(自然状態として与えられている)自由に形を与える。話す自由、学ぶ自由、治すことの自由を消滅させる確実な方法のひとつは、市民権を市民の義務に転化することで、それらをある枠組みにはめ込むことである。医療の自由が過剰医療によって窒息させられるのと同じように、独学の自由は過剰教育社会で押しつぶされるだろう。多くのコストのかかる平等レベルを実現させるために、(自然に与えられた)自由が消滅するほど経済活動は全て、拡大するのである。

私たちはここに至って、医療活動の管理・配分・組織の政治的・法的規制を通じて、社会的に医原性を持つ医療の悪影響を矯正しようとする動きに関心を持つことになる。しかし、医療が公益事業である限り、2つの制限を優先させない限り、いかなる改革も効果的なものとはなりえない。第一は、個人が要求できる医療機関での治療の総量に関するものである。公的資源を要する治療を受ける場合、その人と同程度の緊急性のある他の患者の、一人当たりかなり安価な治療を受ける機会が(専門家の意見によるのではなく)その人の判断で、奪い取ってしまうほどの大量のサービスを受けてはならない。逆に、いかなる医療サービスも、個人の意思に反して強制的に押し付けられてはならない。患者は誰であっても、本人の同意なしに、健康の名の下に、拘束、投獄、入院、治療、その他何であっても虐待を受けてはならない。

 第二の制限は、医療ビジネス全体に関するものである。ここでは、健康は自由であるべきという考え方から、健康サービスの総生産量を、自律的な健康生産と非自律的な健康生産が相まって相乗効果が最大化となるような、準医原的というべき穏やかな限界内に抑制しなければならない。民主主義社会では、このような制限は、公平性の保証なしには、おそらく達成不可能であろう。その意味で、公平性の政治学は、おそらく健康プログラムが効果を持つために不可欠な要素である。逆に、公平性への関心が医療サービスの総生産に対する制約と結びつかず、制度としての医療の拡大に対する対抗力として働かなければ、公平性への関心は何ほどのものとなるであろうか。

 

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