Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(7)
変化して行く死のイメージ
商品化される死
どの社会でも、死についての強いイメージが、一般的な健康の概念を決定する。このようなイメージは、いつの日かは起こる出来事(=死)について文化的に影響を受けた予期というべきものであり、(社会)制度の構造、意識の底流にある神話、主だった社会の性格によって形作られる。
社会に広まった死に対するイメージは、その社会の人々の独立性、一人ひとりの関連性、自立性、活力を映し出す。大都会の医療文明が浸透すると同時に、斬新な死のイメージもまた入り込んでいるのだ。このイメージは、新しい技術とそれに呼応する倫理観に依存するようになると、国家を超える性格を帯びている。しかし、これらの技術は文化的に中立なものではなく、西洋文化の中で具体的な形をとり、西洋の倫理観を表現するものである。白人の死に対するイメージは、医療文明とともに広がり、文化の植民地化に大きな力として働いてきた。
「自然な死」というイメージは、医学的なケアのもとで、健康で老齢の状態で迎える死であり、ごく最近の理想である。500年の間に5つの段階を経て、現在は6つ目の段階を迎えている。各段階はそれぞれ偶像的な表現を生んだ。すなわち (1)15世紀の「死者の踊り」、(2)ルネサンス期の骸骨男によるダンス、いわゆる「死の舞踏」、(3)古代体制下の老いた淫婦の寝室風景、(4)消費と疫病のうろつき回る幻影と闘う19世紀の医師、(5)患者と死の間に立つ20世紀半ばの医師、(6)病院における集中治療の下での死、である。
自然死のイメージが進化する過程において、新たな(社会的)反応が引き起こされ、次第に医学的な性格を帯びてきた。自然死(という概念)の歴史は、死に抗う医療化の歴史である。
死者の敬虔な踊り
4世紀以降、教会は、裸の群衆が剣を振りかざして狂喜乱舞し、教会堂の墓の上で踊るという異教徒の伝統に反対してきた。しかし、教会による禁止令が頻繁に出されたことは、それがほとんど役に立たなかったことを物語っており、1000年もの間、キリスト教会や墓地は踊りのステージのままであった。死は生命の再生の機会であった。教会の墓地で死者と踊ることは、生の歓びを確かめ、性愛の讃美歌と詩の源泉でもあった。
しかし、14世紀後半になると、この踊ることの意識は、生者と死者との出会いから、瞑想的で内省的な体験へと変化していったようだ。1424年、最初の「死者の踊り」はパリの墓地の壁に描かれたものである。シメティエール・デ・イノセントのオリジナルは失われているが、優れたコピーによって復元することが可能である王、農民、教皇、書記、乙女がそれぞれ1体の遺骸と踊る。各人のパートナーは着飾った己の鏡像なのだ。形を成す肉体のうちに誰もが皆、死を抱え、その生涯を通じて死と共に踊るのである。中世後期には、内在する死が生者と向き合い、それぞれの死は死に行く者の身分に応じたシンボル、すなわち王には王冠、農民には熊手を携えていた。
墓の前で祖先と踊ることから、人々は、誰もが自分の死を受け入れながら人生を踊り抜く世界を表現するようになった。死は擬人化された姿としてではなく、おぞましい自意識、ばっくりと口を開けた墓を絶えず意識するものとして表現された。それはまだ、次の世紀に現われ、中世の落日に音楽を奏でて男女が共に踊ることになる骸骨ではなく、各自が老い、腐敗していく自分自身だったのだ。
この頃、鏡は日常生活の中で重要なものとなり、「死の鏡」が風靡する「世界」は幻覚的な淋しさをかきたてるものとなった。チョーサーやヴィロンにとって、死は喜びや痛みと同じくらい親密で官能的なものであった。
原始社会では、死は異境の世界からのやってくる者の仕業であると考えられていた。人々は死に人格なぞはないものと見なしていた。死は、誰かの悪意の結果である。この死を引き起こす誰かとは、嫉妬する邪悪な目であなたを見る隣人かもしれないし、魔女かもしれないし、あなたを迎えに来た先祖かもしれないし、あなたの前を横切る黒猫かもしれない。
キリスト教、イスラム教の中世を通じて、死は神の思し召しある御業の結果であるとみなされていた。臨終の床に死の姿は形を現わさず、ただ天使と悪魔が死にゆく者の口から抜け出していく魂をめぐって争うだけである。15世紀になってようやく、このイメージが変化し、後に 「自然死 」と呼ばれるものが出現する条件が整った。
死者の舞踏は、この移行段階の状況を象徴している。死は、異境の何者かによる仕業ではなく、人生における必然的で本質的な一部と考えられるに至ったのである。死は何者かに支配されるものではなく、3世紀にわたって、不滅の魂、神の摂理、天使や悪魔とは別の存在として考えられるようになった。
不気味な踊り
道徳という劇中で、死は新たな衣装を装い、新たな役割で登場する。15世紀末には、死はもはや単なる鏡像ではなく、「最後の4つのもの」の内、審判、天国、地獄に先立って主役の座を占めるようになった。とはいえ、ロマネスクの浮き彫りに描かれた黙示録を思わせる4人の騎手や、ピサの墓地から魂を拾い上げるコウモリのようなマエゲラ、あるいは神の命令を実行する単なる使者でもない。
死は、最初は神の使いとして、やがて自分の主権を主張するようになり、男、女、子供を呼び出す独自の存在となった。1538年、ハンス・ホルベインが初めて死の絵本を出版し、これがベストセラーとなった。踊る相手は腐敗した肉体を脱ぎ捨て、骸骨そのものと化している。死に絡み取られた人間の姿は、自然の力として描写される死の掌中で、狂気にさいなまれた疲弊を体現している。
ドイツの神秘主義者の「新しい献身」に染め上げられた「自己」から離れがたい鏡像に代わって、死は、すべての人を囲い込み、その後になぎ倒してしまうという、平等主義の掟を執行する者として描かれるようになった。死は生涯続く関係から、一瞬の出来事に変わってしまったのである。
中世の時代、永遠は神の存在なしには歴史の内にありえなかった。今や、死は、直線的に進む時間が停止し、永遠と人間が出会う地点となった。世界は永遠との出会いを聖餐することを止めたのである。ルターは、世界は腐敗の場であり、神が救うものとした。時計の普及は、このような意識の変化を象徴している。時間は連続するものであるという概念が優位に立つにつれ、その正確な測定への関心、物事の出来が時間的にどのような関係かを認識するようになり、自分が何者かであるかを認識するための新しい枠組みが創られるのである。自己認識は、人生の時間が完了するという観点からではなく、一連の出来事との関連で探し求められるようになる。死は全体の終わりでなくなり、一連の流れの中断となるのだ。
雑誌の表紙を裸の女性が飾るように、木版画の最初の50年のタイトルページには骸骨男が多く描かれた。死は砂時計を持ち、塔の時計台を打ち鳴らし、大概の鐘の拍子木は骨の形であった。昼も夜も同じ長さの時間を測ることができる新しい機械は、すべての人々を同じ規則の下に支配した。宗教改革の時代には死後を生きることは、生前の人生が変容し継続していくというそれまでの考えが否定され、地獄という恐ろしい罰か、天国における神からの過分な贈り物となった。
内なる恵みは、ただ信仰によってのみ義とされたのである。このように、16 世紀には、死はもはや来世への移行として考えられなくなり、人生の終焉に重点が置かれるようになる。天国や地獄の扉よりも、墓場の穴の方がはるかに大きく、死を迎えることは不死よりも確実で、王や法王、あるいは神(の権威)よりも正しいものとされた。死は人生の目的ではなく、人生の終わりとなった。
死が最終のもの、切迫するもの、離れがたいものであるという感覚は、新しく生じた時間感覚であるだけでなく、個について新しく生じた感覚でもあった。地上の「闘争する教会Church Militant」から天上の「勝利する教会Church Triumphant」への巡礼回廊では、死は二つの教会において非常に多く体験された重要な出来事であった。一人ひとりが己の死という最期に直面するようになったのである。
もちろん、死が自然の力となった以上、人々は死に行く芸術や技術を学ぶことで、死を克服しようとした。「Ars Moriendi」は、印刷された最初のマニュアルであり、その後200年間、さまざまなバージョンでベストセラーとなった。この本は多くの人に解釈されて読まれた。最も広く流通したのは、1491年にキャクストンがウエストミンスターで出版したもので、1500年以前には、「Art and Craft to knowe well to dye」というタイトルで、木版や活字による活版印刷版が作られている。ゴシック体で印刷されたこの小さな二つ折りの本は、「完璧な紳士」を教えるシリーズの一部であった。テーブルナイフの使い方から会話の仕方、泣き方、鼻のかみ方、チェスの仕方、祈り方、死に方に至るまで、「折り目正しく、敬虔な振る舞い」を教授するシリーズである。
この本は、徳のある生活によって死への準備を間接的に教えるものではなく、また、読者に対して、避けられない体力の衰えや死の危険を想起させるものでもなかった。この本は、現代的な意味での「ハウツー本」であり、死という務めに関する完全なガイドであり、健康なうちに学んでおき、来るべきその時に使えるように手元に置いておくための方法であった。この本は、修道士や禁欲主義者のために書かれたものではなく、聖職者の聖餐を受けられない「肉体をもつ世俗」の男性のために書かれたものである。この本は、サヴォナローラ、ルター、ジェレミー・テイラーといった人たちによる、世俗の諸事に応えようとする精神とは無縁の立場で書かれた同様の教えの(分かりやすい)モデルとなった。
男性は、死に際の自分の顔の表情に責任を感じていた。クーンストラーは、ちょうどこの頃、人物を描く際に、新しい技法が開発されたことを示した。それは、西洋の顔立ちの肖像画で、単に顔の特徴を出す以上のものを表現しようとするものである。実際、最初の肖像画は王子達を描いたもので、国葬の場において、亡き支配者の時間を超越した個性を表現するために、死後すぐに記憶を頼りに描かれたものである。ルネサンス初期の人文主義者たちは死者を、屍を喰う者や亡霊、あるいは聖人や象徴としてではなく、個人のまま、歴史を生きた存在として記憶することを望んだのである。
民衆の信仰に、死後の世界に対する新たな好奇心が生まれた。死体に関する幻想的なホラー小説や煉獄の芸術的表現が流行した。17世紀の幽霊や魂に対するグロテスクな関心が生じたのは、神の裁きではなく、死の呼び声に直面する精神が不安を募らせていたことを背景としている。キリスト教の影響の及ぶ至る所で、死の舞踏は各教区にある教会の入り口に飾られる装飾の定番となった。スペイン人がアメリカに持ち込んだ骸骨男は、アステカの死の偶像と融合した。その子孫はヨーロッパに渡り、オランダからチロル地方にまたがるハプスブルク帝国において、死のイメージに影響を持つようになった。宗教改革後、ヨーロッパ(人に)とって死(の概念)は不気味なものとなった。
同時に、人々が個人としての尊厳をもって死を迎えられるようにと、民間療法が盛んに行われるようになった。自分の病気が、死に近づくことを受け入れる必要があるのか、それとも何らかの治療が必要なのかを区別するために、新たな迷信が生まれたのである。聖なる泉に投げ入れた花が沈めば、薬にお金を使うのは無駄である。人々は死が訪れたときに備え、ラストダンスのためのステップをしっかり覚えておこうとした。
痛みに満ちた苦悶に対する作法は増えたが、その多くは新たな役割を演じながら死にゆく者の意識があるうちに行われる必要があった。子供たちは母親や父親の死を助けることができたが、子供たちが泣き崩れない場合に限られた。人は、間もなく己を飲み込まんとする大地にベッドから降ろして欲しい時を、また祈りが始まるときを周囲に伝えることとされた。しかし、ベッドの周囲に集まる人々は、死が訪れやすいようにドアを開けておくこと、死が驚いて立ち去らないよう、無用な音を立てないこと、そして死に逝く者を一人にするために、本人の最期に際して敬意をもって視線を外すことを承知していた。
神父も医者も15-16世紀にあっては、その時代の典型的な死に際して、貧しい人を助けることは期待されていなかった。大方、医療の記述には医者が行うことのできる、相反する二つのサービスを認めている。医師は治癒を助けるか、安らかで速やかな死の到来を助けるか、そのどちらかである。ヒポクラテスの顔、すなわち患者がすでに死の淵まで来ていることを示す兆候を認識することが医師の義務であった。治癒の際も、治療をあきらめる時も、医師は自然と手を携えて働くことを望んでいた。
医学が「延命」を可能にするかという問いについて、パレルモ、フェズ、そしてパリの医学部で激しい議論があった。アラブ人やユダヤ人の医師の多くは、この力を否定し、自然の摂理に干渉する試みは神への冒涜であると断言した。パラケルススの著作には、哲学的諦観と格闘した職業的な熱意がはっきりと表れている。「自然は、自らの進むべき道の境界を知っている。己が定めた期間に従って、生き物のそれぞれに相応しい寿命を与え、そのエネルギーは、生まれた瞬間から定められた終わりの時までに消費されるようにする。
人間の死は、日々の生活の終わり、息を引き取ること、生まれ持つ芳香に満ちた自然治癒力の行きつくところ、自然の理性的な光が絶えることであり、身体、魂、精神の3つの偉大な分離にほかならない。死は胎内への回帰である。(死というものの)超越性を排除することなく、死は自然現象になり、もはや何らかの悪しき者の業のゆえであるとする必要はなくなったのである。新しい死のイメージは、人体を物体に還元するのに役立った。それまで、死体は他のものとはまったく異なるものであり、あたかも人と同じように扱われていた。
法律もその立場に立ち、死者は生者を訴えたり、生者から訴えられたりすることができ、死者に対する刑事訴追も一般に行われた。後継者に毒殺された教皇ウルバン8世は、掘り起こされ、厳粛にシモニストと判定され、右手を切り落とされ、テヴェレ川に投げ込まれた。泥棒として絞首刑になった後も、裏切り者として首を切り落とされることもあった。死者も証人として呼び出されることがあった。未亡人は、鍵や財布を棺の上に置くことで、夫を絶縁することができた。今日でも、遺言執行者は死者の名で行動し、墓を「冒涜」したり、公共の墓地を公園にして世俗化したりすることを話題とすることがある。死体から法的地位を取り去るためには、死が自然なものであるという概念の出現が必要であった。
この概念の登場は、17世紀後半に一般に広まった、死や病気に対する新しい考え方への道も用意した。中世においては、人体は神聖なものであったが、今や医師のメスは死体そのものを切り裂くまでになった。その解剖は、人文主義者のガーソンによって、"冒涜的な冒涜であり、生者が死者に対する益もない残酷行為である "と見なされていた。
しかし、道徳劇に「普遍の死」が登場し始めると同時に、ルネサンス期の大学の大講堂に、死体が初めて教育対象として登場する。1375年にモンペリエで初めて公認された公開解剖が行われたとき、この新しい学問的活動は不愉快極まりないものとされ、以後数年間は繰り返されることが出来なかった。その一世代後、ドイツ帝国内では1年に1体の死体の解剖が許可された。ボローニャ大学でも、毎年クリスマスの直前に1体の死体が解剖され、その儀式は行列で始まり、悪魔祓いを伴い、3日間かけて行われた。
15世紀、スペインのレリダ大学では、3年に1度、犯罪者1人の死体を入手し、異端審問官から任命された公証人の立会いのもとで解剖することが許された。1540年のイギリスでは、大学の学部が年に4体の死体を絞首刑囚から引き取ることが許可された。1561年には、ベネチア元老院が絞首刑執行人にファロピウス博士の指示の下、「解剖」に適した死体を博士に提供するよう命じたほど、意識の変化は急速だった。レンブラントは1632年に「トゥルプ博士の授業」を描いている。公開解剖は絵画の題材として好まれ、オランダではカーニバルのイベントとして一般化した。テレビや映画の中の手術への第一歩が踏み出されたのである。医師は解剖学の知識を深め、その解剖技術を披露する力をつけたが、その知識と技術は医師の治癒能力の進歩とは不釣り合いであった
医療の儀式は、不気味なものとなった死の恐怖や苦悩に順応したり、鎮静したり、和らげたりするのに役立った。ヴェサリウスの解剖学は、科学的なセックスガイドが「プレイボーイ」や「ペントハウス」マガジンに匹敵するのと同様に、ホルバインの「死の舞踏」になにがしら匹敵するものとなったのである。
中産階級の死
バロックの終焉は貴族趣味的に描かれた天と対照をなすこととなった。教会堂の丸天井には、野蛮人、平民、貴族それぞれのスペースに最後の審判が描かれるが、その下にある「死の舞踏」の絵には、地位や階級を問わずに鎌を振るう草刈り人が描かれている。しかし、ブルジョア階級の台頭に伴い、死が平等である時代は終わりを告げ、余裕のある者は金を払って死を遠ざけるようになった。
フランシス・ベーコンは、延命が医師の新しい仕事であることを初めて語った人物である。彼は、医学を3つの領域に区分した: 「第一に健康の保持、第二に病気の治療、第三に延命」とし、「医学の第三の部分である延命について、これは新しい領域であり、足りないところもあるが、すべての中で最も崇高である」と賞賛した。
しかし、医学界はこの課題に向き合うことを考えもしなかったが、その150年後、この試みにお金を払おうとする顧客が現れた。これは新しいタイプの金持ちで、定年退職後に死ぬことを拒み、現役のまま自然衰弱のうちに死ぬことを要求したのである。彼は、活動的な老年期にあっても健康が保たれていない限り、死を受け入れないとした。モンテーニュはすでにこのような人物を驕りの極みだと嘲笑していた。曰く「これは最後の、そして極端な死に方である...寿命の限界で体力が衰えて死ぬことを期待し、命を縮めないよう己に課するとは、なんと愚かな考えだろうか...まるで、人が転んで首を折り、難破で溺れ、胸膜炎や疫病で死ぬことを自然に反すると見るかのように...一般的で、共通し、普遍に見られる死こそ自然死というべきだろう」。
そのような人々は、モンテーニュの時代には少なかったが、やがてその数は増えていくだろう。天国に行くことを期待する説教者、魂の存在を否定する哲学者、資本が一度ならず倍増することを望む商人たちは、自然に調和する唯一の死は、仕事中に訪れてくるものであると考えていた。
18世紀半ばまでに、60歳代の人々の年代別平均寿命が延びたことを示す証拠はないが、新しい技術によって老人となった金持ちが中年期にやっていたことを続けることが可能になったことは間違いないだろう。甘やかされた人々が仕事を続けることができるのは、生活や労働条件が緩和されたからである。産業革命は、弱者、病人、老人に雇用の機会を与え始めた。それまでは稀であった座りっぱなしの仕事が生まれたのである。
起業家精神と資本主義の高まりは、資本と経験を蓄積する時間のある実力者に有利に働いた。道路が整備され、痛風になった将軍が馬車から戦場を指揮できるようになり、高齢の外交官もロンドンからウィーンやモスクワへ移動できるようになった。中央集権的な国民国家は、いろいろな書士と資本家階級を肥大させる必要があった。老人という新しい小さな階級は、家庭や路上、職場での生活の身体的負担が減って、生き残る可能性が高くなった。歳を取ることは、人生を資本化する方法となった。カウンターや学校のベンチで机に向かっている年月が、市場で利子を生むようになったのだ。中産階級の若者たちは、才能の有無に関係なく、初めて学校に通うようになり、その結果、高齢でも現役として仕事に留まることができるようになった。
現役からの引退を避けることで、(己の)「社会的な死」をなくす余裕のある資本家階級は、若年者を管理するために「子供時代」を設けたのである。老人の経済的地位の向上とともに、その身体機能の価値も高まった。16世紀には「若い妻は老人にとって死である」、17世紀には「若い女中と遊ぶ老人は死と踊る」と言われた。ルイ14世の宮廷では、そのような好色な老人は笑いものだったが、ウィーン会議の頃には、嫉妬の対象になっていた。孫の愛人に求愛しながら死に行くことは、魅力的な最期を象徴するものとなったのである。
老人の社会的価値に関する新たな神話が生まれたのである。原始の狩猟民、採集民、遊牧民はたいてい老人を殺し、農民は老人を奥の部屋に閉じ込めたが、今や家長が文学的理想として登場してきたのである。家長は、その歳ゆえに知恵があるとされたのである。老人がよろめく体を保つに必要と思われる作法に心を砕くことがまず許容され、次にふさわしいものとされるようになった。薬屋や薬草屋、理髪師や外科医、大学で訓練を受けた医師や旅先のヤブ医者では対応しきれないこの仕事を引き受ける医師は、まだいなかった。しかし、それまでにないこの需要が、新しいタイプの自称治癒者を生み出すのに役立ったのである。
以前は、王や教皇だけが、死ぬまで指図する義務を負っていた。彼らだけが医師たちの診断を受けた。すなわち中世においてはサレルノから来たアラブ人や、パドヴァやモンペリエから来たルネサンス人である。しかし、王は宮廷医を置き、床屋が平民のためにしたように、瀉血し、清拭し、さらに毒物から守るようにした。王は人一倍長生きしようとはせず、お抱え医師団が衰え行く己に対して特別な威厳を与えてくれることも期待しなかった。
これに対して、新しく生まれた老人階級では、死は純然たる経済的価値に対する掛け値なしの価格であるとみなした。老いた会計士は、死を追い払う医師を求め、終わりが近づいたら、医師から正式に「宣告」を受け、その際に特別なボトルで最後の晩餐を振る舞われることを求めた。こうして上流階級に倣うように、もうろくした老人に「健康主義者(=健康オタク)」の役割が生まれ、18世紀には現代の医師の経済力の下地が築かれた。長寿が可能となり、死ぬまで引退を拒否できるようになり、不治の病にかかったときに医療支援を求めることができるようになって、新しい病気の概念、つまり老人が目指すべき健康の典型像を生み出したのである。
フランス革命前夜の数年の間に、この健康の典型像は金持ちや権力者に広まり、一世代も経たないうちに、慢性疾患は若く気取った人々の間で流行した。消費行動は早熟を示すものとなり、温暖な地域への旅行を必要とすることは天才であることの主張となった。長引く病気に対する医療は、たとえそれが早死をもたらすかもしれないことであったとしても、特別な証となったのである。
対照的に貧しい人々が病むときは、逆に考えられて、必ず死に至るような病気も「未治療の病気」と定義された。医師の治療が病気の転帰に影響を与えるかどうかは全く関係なく、治療を受けないことは不自然な死を宣告されること意味し、貧乏人は無教養で非生産的であるというブルジョア的なイメージに合致するようになった。これ以降、「自然な」死を迎えることができるのは、ある社会階級、つまり患者として死ぬ余裕のある人たちだけとなった。
健康とは、どのような医療サービスが必要になろうとも時宜を得た死を待つという特権となった。それ以前の時代には、死は砂時計を運んでいた。木版画では、死の淵にある者が死を拒むと、骸骨も見物人もニヤリと笑う。今や、中産階級は砂時計を捕え、死がいつやってくるかを告げてもらうために医師を雇った。啓蒙主義は医師に新たな力を与えたが、医師が重大な病気の予後に対しても新たな影響力を獲得したかどうかを検証することはできなかった。
臨床的死
フランス革命によって、死の医療化は短い期間ではあるが停滞した。フランス革命のイデオロギーの信奉者たちは、三位一体の理想に基づいて構築された社会では、死は不意には襲ってこないものと信じていた。しかし、医師が新たに手に入れた臨床の眼鏡によって、死を新たな視点で見ることを可能となった。
18世紀の商人たちが、自分たちが雇い、報酬を支払っていた怪しげな医者を装う山師の助けを借りて死の見通しを決めていたが、今や臨床医によって大衆の見方が形成され始めたのである。私たちは、死が「神の呼びかけ」から「自然」な出来事へと変化し、やがて「自然の力」へと変化していくのを見てきた。そして今や、死は医師が認めた病気の結果となった。
死は比喩的なものに過ぎなくなり、致死性の病がその座を奪った。「死」として崇められてきた自然が持つ普遍の力は、臨床的死をもたらす数々の原因に姿を変えたのである。今や多くの「死」が世界を徘徊している。19世紀後半の医者たちの蔵書には、患者の枕元で擬人化された病気と闘う医者の姿が描かれている。
病気の予後をコントロールしたいという医師の野心は、医者が死を支配する力を持っているという神話を生み出した。医者という職業に与えられた新たな力は、臨床医という新たな地位を生み出したのである。都市部の医者が臨床医となったのに対し、田舎では医者はまず定住し、次いで地元のエリートの一員となった。フランス革命当時、医者はまだ旅の民であった。ナポレオン戦争後に仕事のなくなった陸軍外科医たちは、広範な経験を積んで帰国し、生活の糧を求めた。戦場で鍛えられた軍人たちは、やがてフランス、イタリア、ドイツで最初の定住した治療師となった。素朴な民衆は彼らの医療技術を全く信用せず、生真面目な市民はその粗っぽいやり方にショックを受けたが、ナポレオン戦争の退役軍人たちの間で評判になり、彼らの顧客となった。
彼らは息子たちを都市にでき始めた新しい医学校に送り込み、戻ってきた息子たちが地方の医者の役割を作り上げ、それは第二次世界大戦の頃まで変わらなかった。彼らは、余裕のある中流階級の家庭医として安定した収入を得た。都市や町の富裕層の中には、有名な臨床医にかかっている生活をすることで名が知られる者も少なからずいたが、19世紀初頭には、町医者の競争相手として、助産師、抜歯職人、獣医、理髪師、そして時には保健婦といった、昔ながらの医療技術者が依然として大きな競争相手となっていた。
その新しい役割や上下からの抵抗にもかかわらず、ヨーロッパの田舎医者は、世紀半ばには中流階級の一員となっていた。田舎医者は田舎の有力者の従者の下働きをして十分な収入を得、他の有名人と家族ぐるみの付き合いをし、時折身分の低い病人を見舞い、手に負えない症例は知己のある都会の臨床医に送った。時宜を得た」死が中産階級の新興階級意識に端を発していたのに対し、「臨床的」死は、新しく科学的訓練を受けた医師の新興職業意識に端を発していた。以後、臨床的症状が現れた、時宜にかなって死を迎えることは中流階級の医師の理想となり、それはやがて労働組合の願望に組み込まれることになる。
自然死を求める労働組合
今世紀に入り、老人が臨床的訓練を受けた医師による治療を受けながら死を迎えることは、市民的権利として初めて認識されるようになった。老齢期の医療は組合契約に盛り込まれたのである。監督者の椅子に座ったまま、疲労困憊の末に衰弱死するという資本家の特権は、プロレタリアが要求する退職後の医療サービスに取って代わられた。
会社の中でみすぼらしい老人であり続けるというブルジョワの望みを、退職後の村で社会保障を受けながら活発な性生活を送るという夢が押しのけたのである。あらゆる臨床的な問題を生涯にわたってケアすることは、やがて自然死への志向を強く求めるようになった。生涯を通じて病院で医療のお世話を受けることは、社会がすべての構成員に提供するべきサービスとなった。
1909年に出版されたあるドイツの主要百科事典は、「自然死」を対比によって定義している: 「異常な死は、病気、暴力、意識されにくい慢性的障害から生じるため、自然死とは対極にある。評判になったある哲学概念辞典によれば、"自然死は既往歴もなく、明確な特定の原因もなく訪れる "とある。この不気味で幻惑的な死の概念が、社会進歩の概念と絡み合うようになったのである。
臨床上の死は法的に平等であるという主張は、ブルジョア個人主義の矛盾を労働者階級に広げた。自然死への権利は、産業労働の弊害からの解放や自己をケアする新たな自由と力としてではなく、医療サービスを平等に享受する主張と化したのである。したがって、この労働組合が謳う「平等な臨床死」という概念は、1792年にパリの国民議会で提案された理想とは正反対のものであり、徹底して医療化された理想であった。
第一に、この新しい死のイメージは、社会的統制の新しい段階を認め、支持している。治療が有効であろうとなかろうと、それを)(実行)義務であるとしたのである。医学的治療を受けずに死亡した場合は、検視官の事件となる。医師との出会いは、死を迎えることと同様に避けられないものとなる。私は、自殺しようとして失敗した女性を知っている。彼女は昏睡状態で病院に運ばれ、背骨に銃弾が食い込んでいた。外科医は英雄的手段を使って彼女を生かし、彼女のケースを成功だと考えた。彼女は生きているが、全身麻痺の状態となっている。外科医には、彼女がもはや自殺を企てる心配は無用のものとなった。
私たちの死に対する新しいイメージもまた、産業社会の思潮にふさわしいものになっている。世紀の変わり目には、すべての人間が、元来愚かな生まれであり、生産活動に従事する前の8年間は学校教育が必要な生徒であると定義されていたように、今日では、正しい方法で人生を送りたければ、あらゆる種類の治療が必要な患者として生まれたときに刻印されているのだ。義務教育を受けることが、仕事にありつけるかどうかの心配をなくす装置となったように、医療サービスは、不健康な仕事、汚れた都市、いらだちを覚える交通手段を緩和するための装置となったのである!産業社会では医師は人命救助を行うよう準備しているのに、非人間的な(社会)環境を心配する必要があるだろうか!
最後に、「強制された医療の下での死」は、死因について最も原始的な妄想が再び呼び起こされる。これまで見てきたように、未開の人びとは自分の死によって死ぬことはなく、骨の髄でさえ永続性をもつものであり、したがって彼らは自分自身を不死の獣のように考えていた。彼らの間では、死は常に超自然的な説明や誰かのせいにすることを必要とする。敵対する者による呪い、魔法使いの呪文、運命の女神の手の中で糸が切れたこと、あるいは神が死の天使を派遣したことなどである。鏡に映る己とのダンスにおいて、ヨーロッパ人の死は片方の意志から独立した代理人として立ち現れ、それは男女が自ら立ち向かわなければならない自然の不可抗力であったのだ。死が間近に迫っていることは、生命の儚さと優しさを絶妙に、そして絶え間なく思い起こさせるものだった。
中世後期には、「自然な」死の発見がヨーロッパの抒情詩や演劇の大きな源泉のひとつとなった。しかし、かつては自然がもたらす外部からの脅威とされていた死の切迫性は、新興の技術者にとって大きな課題となった。土木技師が大地を管理することを学び、教育学者が知識を管理することを学んだのなら、生物学者であり医師である者が死を管理しないわけがない。医師が人間と死との間に割り込んできたとき、死は400年前に獲得した直接的で親密な関係性を失った。顔と形を失った死は尊厳を失ったのである。
医師と死の関係の変化は、このテーマが図像学的にどう扱われてきたかを追えばよくわかる。「死の舞踏」の時代には、医師が登場することは珍しい。私が見つけた中で、死が医師を仲間として扱っている唯一の絵では、老人が医師の片方の手を握り、もう片方の手には尿の入ったコップを持ち、医師に診断を確かめるよう求めているように見える。「死の舞踏」の時代には、骸骨男は医師をジョークの主役にしている。
死の直後、朽ち往く肉体がまだ幾分残っているときには、死者は医師の鏡像の中で医師が自分の体内について何を知っているかを確認している。時間と共に肉体を失って骸骨となった男は、医師の無力さについて医者をからかい、謝礼について冗談を言ったり拒絶したりし、医者の処方に引けを取らぬ悪質な薬を提案してみたり、医者をダンスに引っかけて普通の人間の一人として扱う。バロック時代における死は、医者が品評会で商品を売っているところをからかったり、診察の邪魔をしたり、薬瓶を砂時計に変えたり、隔離施設を訪問する医者の代わりをしたりと、医者の活動に絶えず入り込んでくるようだ。
18世紀には新たなモチーフが登場する。死は、医師が悲観的な診断しかできないことをからかったり、医者が死を宣告した病人を見捨てたり、患者がまだ生きているのに医者を墓場に放り込んだりするのを楽しんでいるようだ。19世紀まで、死は常に医者か病人を相手にして常に主導権を握っていた。両者は病床の反対側にいる。臨床的な病や臨床的な死が大きく変化して初めて、医師がイニシアチブを取り、患者と死の間に割って入るような絵が見られるようになった。
医師が骸骨と格闘したり、若い女性を骸骨の抱擁から引き離したり、死の手から鎌を奪い取ったりするのを見るのは、第一次世界大戦後まで待たなければならない。1930年までには、微笑みを浮かべた白衣の男が、わめく骸骨に突進し、『マリーの治療辞典』2巻を持ってハエのように叩きつぶしている。他の写真では、医師が片手を上げて死をかわしながら、死に足を捕まえられている若い女性の腕を支えている。マックス・クリンガーは、医師が翼を持つ巨人の羽をむしり取っているところを表現している。
また、医師が骸骨を牢獄に閉じ込めたり、尻の骨を蹴ったりする姿もある。今や患者ではなく医師が死と闘っている。未開文化のように、死が勝利すると、再び誰かが責めを負う。その誰かとは、もはや魔女や先祖や神の顔をした人間ではなく、社会的な力の中に存在する敵である。今日、死に対する防衛が社会的セキュリティにあるとすれば、犯人も社会の中を徘徊しているのである。その犯人とは、労働者から十分な医療を奪う階級という敵であり、夜間診療を拒否する医師であり、薬の値段をつり上げる多国籍企業であり、医師に対する統制を放棄した資本主義的あるいは修正主義的な政府であり、デリー大学で医師の養成になにがしか関与してロンドンに送りこむ行政官などである。伝統的な部族長の死に対する魔女狩りは、近代化されつつある。早すぎる死や臨床的に必然ではなく死ぬことがあれば、無責任に医療介入を遅らせ、あるいは邪魔をした者が誰であるかを見つけることができる。
20世紀前半に生じた社会法制度の大部分の進歩は、このような産業的に作りこまれた死の画期的なイメージを利用することなしには不可能だっただろう。それらの法律の制定をたきつけることを必要とせず、制定をしなければならないというほど強い罪悪感にかられる必要もなかった。しかし、平等な死に向かって平等な医療を施すという主張によって、際限なく拡大する産業システムに対する私たち同時代の人々の依存度は強化されることになったのである。
集中治療室での死
邪悪な死の形態はさまざまであり、悪魔祓いは多面的であることを知らなければ、私たちの社会組織の深く根ざした構造を十分に理解することはできない。私たちの主だった組織は、「人類」を代表して、死を扱う機関や階級を向こうにして戦いをしかける巨大な防衛プログラムとなっている。これは全面戦争である。医療だけでなく、福祉、国際救援、開発プログラムもこの戦いに参加している。あらゆる色のイデオロギーに染まった官僚がこの聖戦に参加する。革命、弾圧、さらには内戦や国際戦争までもが正当化されるのは、病気や死を節度もなく生み出し、容認している独裁者や資本家を打ち負かすためである。
不思議なことに、死が倒すべき敵となったのは、まさに大量死が登場した瞬間だった。「不必要な」死というイメージだけでなく、世界の終わりというイメージも新しくなったのである!私の世界の終わりである「死」と、世界の終わりである「終末」は密接に関係している。この2つに対する私たちの態度は、明らかに原子力の状況に深く影響されている。黙示録は単なる神話的な憶測でなくなり、現実にあり得る不測の事態となった。ハルマゲドンは、神の意志や人間の罪、自然の法則によるものではなく、人間の直接的な決断の結果として起こりうるものとなった。コバルトは水素爆弾のように、死をコントロールできるという幻想を生み出す。社会的に医療化された儀式は、死に対して自滅を導く戦争によって社会的統制を行おうとする一面を表している。
マリノフスキーは、未開人にとって死は集団の結束、ひいては生存を脅かすことを考察している。死は恐怖を爆発させ、無分別な防衛行動を引き起こす。集団の連帯は、自然の出来事を社会的儀式とすることで保たれる。それによって、メンバーの死は特別に祝うべき場となる。
産業の支配は、伝統的な連帯の多くの絆を破壊し、往々にして希薄なものにしてきた。産業化された医療における人間性を失った儀式は、失われた絆に代わるまがい物の団結を生み出す。病院で死を迎えることを経済発展の目標として設定することで、すべての人々を「あらまほしい」死とはどういうものかと教え込むのである。すべての人々が同じような死に方に向かって歩むという神話は、「持たざる者」が恵まれない状況のうちに死んでいく現状を、医療制度をさらに拡大していくよう変革することで、「持つ者」の立場の側の罪悪感を薄れさせるのである。もちろん、高度に産業化された社会での医療化された死は、農業主体の国々とは異なる機能を持つ。産業化社会では、日常生活への医療による介入は、健康と死に関する一般的なイメージを変えるものではなく、むしろそれに便宜を図るものである。
その便宜とは医療化されたエリートの死のイメージを人々の間に拡散させ、将来の世代のために再生産するというものである。そして、患者が病院で死に行くことを信仰の内に覚悟するという文化的状況にない場合、「死を回避しようとする」ことは病院制度に基づく医療の成長は必然的に帝国主義的な介入の形態を取る。
社会的にも政治的にも死のイメージが押し付けられ、人々は伝統的な健康と死をなすものについての考え方を失う。人々の文化を凝集させていた自己イメージは解消され、ばらばらに離散した人々は、高度に「社会化」された健康の消費者という、巨大な集団に飲み込まれる。医療化された死が望まれるようになると、金持ちは際限のない保険料で釣り上げられ、貧乏人は金にまみれた死に対する憧れにあこがれを抱く。ブルジョア的個人主義の矛盾は、人々が現実を直視した態度で死ぬことができないことが示している。アッパー・ボルタとマリの国境を警備していた税関職員は、健康から死への重要性を私に説明した。私は彼の説明から、ニジェール沿いの村々ではおよそすべて違う言葉が話されているにもかかわらず、なぜ人々が互いに理解しあえるのか知りたいと思った。彼に言わせれば、それは言葉のありようと無関係であった。曰く 「私たちと同じように男児の包皮を切り、私たちと同じように死ぬのであれば、私たちは彼らをよく理解するのだ」と。
メキシコの多くの村で、社会保障制度が導入されるとどうなるかを見てきた。一世代にわたり、人々は伝統的な信念を守り続け、死や臨終、悲嘆に対処する方法を知っている。新しくやってきた看護師や医師は、自分たちのほうがよく知っていると考え、臨床的な死を祭る神殿がいかに邪悪であるか、またどういう死であれそれを免れるためには相当な代価を支払わなければならないことを教えこむ。彼らは、人々のセルフケアの技術を近代化する代わりに、病院で死ぬことの理想を説く。そうした布教活動によって、彼らは農民たちに、良い死に方を延々と探し求めるよう促す。それは農民たちをいつまでも消費者に留めおくことになるのである。
産業社会の主要な儀式と同様に、医療はゲームの形態をとっている。医師の主な役割は審判となる。医師は社会組織の代理人、あるいは代表者であり、全員がルールに従ってゲームをプレーするように仕向ける義務がある。ルールはもちろん、審判が指定した以外の方法でゲームを放棄したり、死んだりすることを禁じている。もはや死は、薬師(くすし)の自己成就的予言以外には起こらないのだ。
死が医療化されることで、医療は強固で統制された世界宗教となり、その教義は義務教育で教えられ、その倫理規定は社会環境を官僚主義的に再編成するために用いられている。セックスは教習するべき科目の一教科となり、スプーンを共有することは非衛生的とされた。
死との闘いは金持ちにとってライフスタイルの主要な関心事に過ぎないが、開発機関は世界中の貧しい人々にとっては、自分たちの行動を強制するルールになっている。高度に工業化された社会で発展した文化だけが、私が今述べた商業化された死のイメージがどのようなものであるかを呼び起こすことができるのであろう。極端な言い方をすれば、「自然死」とは、身体という組織がそれ以上の治療を拒絶する時点のことである。脳波が平坦になったことを示すと、人は死ぬ。最期の息を引き取ることでも、あるいは心臓が止まって死ぬのでもない。人間が生産者としてだけでなく、消費者としても役に立たなくなったときに、社会は人の死を認めるのである。すなわち莫大な費用をかけて育成してきた消費者を、完全な損失として計上しなければならない時点である。死ぬことで、消費者は究極の抵抗を行うのである。
従来、死から最も守られていたのは、社会が死を宣告した人間だった。社会は死刑囚がネクタイを使って首を吊るかもしれないという怖れを感じていた。死刑囚が死刑執行以前に命を絶てば、それは権威に対する抵抗になるかもしれない。今日、自ら死を招かないように最も守られているのは、危篤状態にある病人である。社会は、医療システムによって、いつ、どのような屈辱と侵襲を経た後に死ぬかを決定する。社会の医療化によって、自然死の時代は終わりを告げた。
西洋人は、死ぬという行為に責任を負う権利を失ったのである。健康、あるいはそれに対処する自律的な力は、息を引き取るまでの全てを奪われた。技術に依存した死は、(自然にあるがままの)死に勝利した。機械化された死に方は、それ以外の死すべてを征服し、破壊したのである。