Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(8)
6. 反生産的であるものの具体例
医原病は、社会に対する産業の破壊的支配の一側面であり、主要な産業部門に顕れてきた奇異な反生産そのものであると理解される場合にのみコントロールされることになるだろう。せわしく生きることに時間を費やすこと、感性を鈍らせる教育、自己破壊的な軍事力による防衛、惑わせる情報、不安を煽る住宅プロジェクトと同じく、病原性を持つ医学もまた、自律的行動を麻痺させる過剰な工業生産の結果なのである。
このような現代産業特有の過剰生産に焦点を当てて考えるには、苛立たしい過剰生産を、よく混同されやすい他の2つの経済的負担のカテゴリー、すなわち限界効用の低減と負の外部性とは明確に区別しなければならない。好ましくない生産性がどのような具体的な要求不満からなるものかを、物価上昇や耐え難い社会的コストから区別しなければ、医療、交通、メディア、教育など、技術を基盤とする事業の社会的評価は、費用効率の計算にとどまり、これら各領域が持つ手段がどれほど有効であるかという根本的な批判に近づくことさえできないだろう。
直接費用は、レンタル料、労働力、材料、その他の対価を反映したものである。旅客1マイル当たりの生産コストには、車両と道路を建設・運営するために支払われる費用と、輸送業に支配権を持つ資本家にもたらされる利益(生産手段を所有する資本家が課す利子と、(インフラとサービス)提供に使われる知識のストックを独占する官僚が要求する役得)が含まれる。価格は、消費者が自腹で支払うか、税金で賄われる公的機関が消費者に代わって購入するかにかかわらず、これらのさまざまな賃貸料の合計である。
負の外部性とは、金銭的価格に含まれない社会的コストの名称である。すなわち私が1旅客マイルを消費するたびに他人に押し付けている負担、苦痛、迷惑、傷害を指す一般的な呼称である。私の車が街にまき散らす汚れ、騒音、醜悪、衝突事故や公害による害、私が燃やす酸素や拡散させる有毒物による環境の悪化、警察署の経費増大、さらには交通に伴う貧困層への差別など、すべてが1マイルごとに発生する負の外部性である。負の外部性のいくつかはサービスの購買価格に含めることができる。例えば、衝突事故による損害は保険で賄われる。市場価格に反映されない他の外部性も何らかの方法で価格に取り込める。
例えば、排気ガスが原因で発生するガンの治療費を燃料1ガロンごとに上乗せして、ガンの発見や手術、あるいは公害防止装置や防毒マスクによるガン予防に充てることができる。しかし、外部性の大部分は定量化することも内部化することもできない。石油資源や大気中の酸素の枯渇を防ぐためにガソリン価格を上げれば、旅客マイルはより高価なものとなり、特権的になる。環境破壊は軽減されるが、社会的不公正は増大する。工業生産の強度があるレベルを超えると、外部性は削減されることはなく、他の分野に移動させられるだけである。
反生産性は、個人的コストでも社会的コストでもない。それは、通貨単位から得られる効用逓減や、あらゆる形態の外部的な不利益とは異なるものである。制度設計によってもたらされるはずものが、反対に社会から奪われてしまう場合というのはいつでも生じるものである。それは社会に組み込まれている失敗である。商品やサービスの価格は、消費者が購買しようとするものの対価を測るものである。すなわち外部性とは消費にともない社会が何を許容するかを示すものである。これに対して反生産性は、取引活動から生じる認知的不協和がどのぐらいの程度であるかを測る。それは経済領域に組み込まれて機能している代案の社会的指標であると言える。
医療ビジネスにおける医原病は、時間を無駄に喰うだけの交通機関の発達、無味乾燥なコミュニケーション、無能化の徹底を押し進める教育トレーニング、住宅開発による荒廃、そして異常な過食習慣など、どれも同じように苛立たしく立ち現れる、行き過ぎた過剰生産の典型例にすぎない。この明白になった反生産性は、産業生産(全体)の望ましくない副作用であり、それを発生させる特定の経済領域から外部化することはできない。根本的には、技術的な過誤でも階級的な搾取でもなく、産業的でないものあるいは専門家に独占されない何ものかの発展に不可欠の環境、社会、心理面における諸条件が(行き過ぎた)産業によって破壊されたことによるものである。反生産性は、自己を律しようとする活動が産業によって麻痺させられた結果である。
私たちの共有する現実世界の認識が産業によって歪められているために、私たちは企業の反生産性のレベルに気づかなくなっている。私たちは、学びが計画化され、住いが標準化され、移動が動力化され、コミュニケーションがプログラム化され、人類が消費する食料品の大部分が、地域をまたがって流通するようになった最初の時代を生きている。
このように著しく産業化された社会では、人々は何かを自らしようとするよりも、何かを手に入れるように条件づけられ、自ら創造するよりも、購入するものに価値を見出すように教育される。人々は、(自ら)学び、癒し、己の道を見つけることよりも、(他人から)教えてもらい、感動するようにさせられ、扱われ、案内されることを望む。人間性を失った施設が個人の機能を果たすよう割り振られる。癒しは病人が自ら取り組むものとは見なされなくなる。それは身体各部の修理工の義務となり、やがて個人レベルでのサービスから無数の病院の治療実績へと変化する。その過程で、社会は医療制度のために再編成され、自分の健康を自分で守ることはますます難しくなる。商品やサービスが個人の自由であるべき領域に乱雑に侵入するのである。
学校は教育を、自動車は移動手段を、医療は健康の営為を生産する。これらの生産物は、商品の特徴をすべて備えた基本の商品である。その生産コストはGNPに加算したり差し引いたりすることができ、その希少性は限界価値という用語で測定することができ、そのコストは通貨換算で設定することができる。その性質から、これらの商品は市場を形成する。学校教育や自動車輸送と同様、医療も資本集約的な商品生産の結果である。すなわち生産されるサービスは他人のためにデザインされたものであり、他人と一緒に作り上げるものでも、生産者のためでもない。
私たちの世界観は産業化されているために、人々が自由に創り出している市場では測れない使用価値と、これらの商品が競合していることが見落とされがちである。人は見て、行って学び、自分の足で動き、癒し、己の健康に気を配り、他人の健康にも貢献するのである。これらの活動は市場活動に対抗しうる利用価値を持っている。有益な学習、運動、癒しはGNPには表れない。人々は母国語を学び、歩き回り、子どもを産み育て、骨折した骨の使い方を回復させ、地産の材料で食事を用意し、能力に多少の差はあっても、楽しみながらこれらのことを行う。これらはすべて有用な活動であって、そのための時間は大方の場合、お金のために行われることはないだろうし、行われることもできない。とは言え、お金が有り余っているようだと、それらの活動の価値は引き下げられもする。
具体的な社会的目標の達成は、産業の産出という概念すなわち、その生産量や分配と社会的コストを表すグラフで測ることはできない。産業の各領域の有効性は、社会が生みだす商品の使用価値がどれだけ生まれるのかということで決まる。ある社会が、優れた移動性、住居、栄養を生産するのに有効であるかは、市場に出回る基本的な商品と、他者に譲り渡してはならない(個人の)自発的な営為とがうまく調和することに拠っている。
多くの人々のニーズが家庭内あるいは共同体が生産するもので満足できるならば、期待度と満足度のギャップは小さく、かつ安定する。勉学、旅行、病気のケアは、(人間の営為が)高度に分業化した結果であり、自ら投入した労力と自己抑制的に手に入れたものの結果である。ぎりぎりの生活では、生産に使われる道具を使うことでどういうニーズが満たされるかということがおのずから決まるのである。例えば、人々は病気になったときに何が期待できるかを知っている。村や近くの町の誰かが、過去に効いた治療法をすべて知っているが、その先のことは予想もつかない奇跡の領域なのである。
19世紀後半までは、西洋諸国であっても、ほとんどの家庭で良く知られていた治療法が実践されていた。大半の学習、運動、治癒は各人が自分で行い、必要な道具は家族や村で作られていた。もちろん、このような自己完結的な営為は、共同体の出来うる範囲の及ばない、工業的に設計、製造される製品によって補完することも可能である。自転車、印刷機、レコーダー、X線装置など、工業的に作られた製品を使えば、自律的な活動を効果的に、また各人が行うこともできる。しかし、社会の成り立ちは産業界に圧倒的に有利であって、自律的活動は妨げられ、価値が低く見られ、阻止されることもある。自律的生産の在り方と非自律的生産の在り方の関係は互いに、否定的な意味合いを帯びる。
管理された商品生産に有利な社会構造には、つまるところ破壊的な二つの側面がある。人々は行動するためではなく消費するよう訓練され、同時に人々の行動範囲は狭められる。工業製品は職人を労働から引き離す。自転車通勤の習慣のある人は、耐えがたい交通状況によって道路から追い立てられ、自分の病気は自分で治すことに慣れていた患者は、昨日まで使っていた治療薬が処方箋でしか手に入らなくなっていることを知るが、今後はほとんど手に入らなくなる。
賃金労働と顧客との関係が拡大する一方で、自律的な営為と贈与の関係は衰退する。社会的目標を効果的に達成できるかどうかは、2つの基本的な生産様式が互いを補い合うか、妨げ合うかによって決まる。物理的・社会的環境がどのようなものであるかを効果的に知り、コントロールできるようになるには、人々が受ける正式な教育と、プログラムされていない方法で学習する機会と意欲に左右される。効果的な交通は、人々が迅速かつ便利に行くべきところに行けるかどうかにかかっている。病人の効果的なケアは、痛みや機能障害を我慢できるようにし、回復がどれほど進むかに依存する。
こうしたニーズの効果的な充足度に関して、工業製品の製造や販売の効率や、証明書の数、乗降客数、住宅戸数、医療行為の件数とは明確に区別されなければならない。あるレベルを超えると、これらの生産統計はすべて救済策として必要とされるだけのものになる。つまりそれまで工業製品が麻痺させていた個人的な活動にとって代わるようになる。効果的な欲求充足を評価するための社会的基準は、工業製品の生産とマーケティングを評価するための測定基準とは一致しない。測定は、主要な社会的目標の達成度を見る場合に、総合的な効果に対して自発的な活動から生まれる寄与を無視するため、この総合的な効果が増加しているか、あるいは減少しているかを示すことはできない。例えば、卒業生の数は一般的な能力と反比例の関係にあるかもしれない。
技術的な測定は、誰が産業成長の受益者で、誰が敗者なのか、誰が多くのものを得て、多くのことができる少数者なのか、誰が工業製品を少し利用しただけで自発的な有効性を失い、一段と悪化した多数派なのかを示すことはほとんどできない。そのバランスを評価できるのは政治的判断だけである。
逆効果を生む制度化によって最も痛めつけられるのは、金銭的に最も貧しい人ではない。人間性を失った価値観による典型的な犠牲者は、産業的に豊かな人々のために作られた環境の中で生きる無力な人々である。無力な人々の中には、社会的に比較的裕福な人々や、慈悲深い総合施設の入居者も含まれる。依存は人々を無力な者とし、近代化された貧困に貶める。この新たに生じた窮乏感を改善するための政策は無益であるばかりか、貧困を悪化させるだろう。自律性を守るのではなく、より多くの物質的生活を約束することで、無力化する依存度を強めることになる。
ベンガルやペルーの貧困者たちは、時折雇用され、時折市場経済に足を踏み入れることで生き延びている。彼らは、日々の糧を食いつなぎ、肥えた時期と痩せた時期を交互に繰り返し、物々交換などの贈与関係を結び、市場向けに作るものでなく、市場が求めるでもない財物やサービスを交換している。テレビがない田舎では、彼らは伝統的な手本に従って建てられた家での生活を楽しんでいる。町に引きずり込まれたり、押し出されたりして、彼らは鉄鋼・石油業地区の端っこに不法占拠し、そこで自作の小屋の積み木となる廃材のスクラップを使ってとりあえずの経済活動を行う。人々は市場の食料に依存するようになるにつれ、極度の飢饉にさらされるようになるのだ。
何世代にも存続するうちに、ホモ・サピエンスは進化の全過程に亘って、多種多様な文化形態を発展させる高い能力を示した。それらの文化形態は、共有可能な資源、あるいは限られた条件下ならば公にも交換できる資源(量)の範囲内で全の人びとが生活できることを目指した。地域社会のこの対応能力が世界的規模で等しく無力化してきたことは、帝国主義と現代における工業的発展及びその本質的な要素から派生したものと共に拡大してきた。
地域社会の有効性よりも財政的な効率性を重視し、一般市民よりも専門家による管理を重視して組織された新しい生産手段が低開発国へ侵入すると、必然的に伝統や自主的な学びを失墜させ、教師、医師、ソーシャルワーカーによる治療の必要性を生み出す。道路やラジオによって人々の生活は工業的水準に押し上げられるが、工芸品や住まい、健康の営為は、(工業製品が)押しのけた伝統的技能を圧殺してしまうよりはるかに短い期間のうちに退化してしまう。
アステカのマッサージは安らぎを与えるが、多くの人びとは、もはや時代遅れだと信じて効用を認めようとしない。一般家庭のベッドは、そこに寝起きする人が心地悪いと自覚するよりもずっと早く評判が悪くなる。開発計画が功を奏したのは、石油缶を使う地域の予期しなかった回復力のおかげであることが多かったのである。個人にとって、何が必要であるかという認識が専門家の診断に基づく場合、依存は痛みを伴う能力障害に変わる。米国の高齢者は、再びそのパラダイムとなりうる。彼らは、相対的レベルの特権では到底かなえられない緊急の事態を経験するよう教え込まれている。
脆弱な人々を支えるために税金が使われれば使われるほど、人々の衰えに対する意識は鋭くなる。同時に人々の、自分のことは自分で何とかするという能力は、それを促してきた社会の仕組みが事実上消滅したために退化してしまった。高齢者は過剰に特化したサービスがもたらした貧困化の一例である。米国の高齢者は、高コストの収奪に苦しむ極端な一例にすぎない。老いは病気と同じようなものであると考えるようになった人々は、延々と続く治療費を支払うために、際限のない経済的欲求を抱くようになった。そういう治療のほとんどは効果がなく、屈辱的で苦痛を伴い、特別な環境に閉じ込められることを要求されることが多いのである。
工業的に近代化された貧困の5つの様相が、金持ちが引退後に気ままに生活する施設で風刺的に現れている: 若いうちに亡くなる人が少なくなるにつれて慢性疾患の発生率が高まること、健康対策によって臨床的にダメージを受ける人が増えること、医療サービスが成長するよりも速くに、医療への需要が高まり、拡大すること、人々が自分の苦しみと折り合いをつけるのに役立つ環境や文化的資源が少なくなり、その結果、多くのこまごましたことまでを医療サービスに頼らざるを得なくなること、人々は障害や痛みとともに生きる能力を失い、あらゆる不快な状態を専門のサービス業者の管理に依存するようになること、である。健康産業が過剰に拡大し、積み重なった結果、人々が困難に立ち向かい、身体や環境の変化に対応する力が妨げられている。
もちろん、医療の過剰拡大による破壊的な力というものが、衛生管理、予防接種、媒介虫の駆除、確立された健康教育、健全な建築物、安全な機械類、応急処置の一般的な能力、歯科医療や一次医療を受ける平等な機会を意味するということではなく、同時によく考えられた複合的なサービスなどが、セルフケアと自立性を育む真の近代文化に適合しないということを言うのでもない。人びとと環境との関係に技術的な介入を行っても、個人の行動の自由度に応じて、ある強度以下に留まる限り、そのような介入は、生体が対処し、自らの未来を創造する能力を高めることが出来よう。しかし、あるレベルを超えると、他者による生命の管理は必然として、まず生体の重要な反応を制限し、次いで損ない、最後には無力なものにしてしまう。それゆえに健康の営為が逆に健康の否定に変質するのである。