Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(6)
疾病の発明と排斥
フランス革命によって大いなる2つの神話が生まれた。1つは、医師が聖職者に取って代わることができるというもの。もう1つは、政治が変ることで社会が本来の健全な状態に戻るというものである。病気は公的な性格を持つものとなった。今や病気は進歩の名の下に病人だけの関心事ではなくなってしまったのである。
1792年に入って数ヶ月間、パリの国民議会は、病気の治療で利益を得ていた医師たちに代わり、平等、自由、友愛の世が到来するとともに、消えゆく運命にある悪(=病気)を管理するための医療の官僚的システムをどうするか決めようとした。新しい聖職は、教会から収奪した資金で賄われることになっていた。この聖職者は、国民が健康な生活を送るために戦闘的な転換を図り、病気治療における医学的ケアの必要性を抑制しようとするものであった。各家庭では再び家族の面倒を見ることができるようになり、村においては身寄りのない病人を養うことができるようになる。国民健康保険が健康管理を担当し、食事についての法令制定を主管し、国民が新しく得た自由を、充実した生活と健全な楽しみのために使うよう強制しようとするものであった。医学の官僚たちは市民の遵守状況を監督し、保健衛生の行政長官は慈善家や搾取者から(人々を)守るために衛生裁判所を統括する。
さらに過激なのは、乞食撲滅のための小委員会の提案である。その内容やスタイルは、紅衛兵やブラックパンサーの公約と同様で、健康管理を民衆に戻すことを要求している。プライマリーケア(一次医療)は住民のものであるという主張であった。病気療養のための公費は、病人の収入を補うために使うのが最善である。もし病院が必要なら、高齢者、不治の患者、精神を病んだ患者、孤児などそれぞれに特化するべきものである。病気は政治が腐敗したことの症状であり、政府が刷新されれば解消されるものである。
感染症の温床である病院は今日的なもので、容易に説明が付けられる。病院は、古代末期にキリスト教の保護を受けて、旅行者、浮浪者、棄民のための宿舎として出現した。十字軍の時代には、アラブ人に倣って医師が定期的に病院を訪れるようになった。中世後期には、貧困にあえぐ人々を保護する慈善施設として、病院は都市建築に組み込まれた。18世紀後半まで病院に収容されることは、大概戻ってくる見込みがない状態を意味した。健康を取り戻すために病院へ行く者はなかったのである。病人、精神を病むもの、不具を抱えた障碍者、てんかん患者、不治の病を持つ患者、孤児、そして年齢や性別に関係なく四肢を切断された人たちがごちゃ混ぜにされていた。収容者には食事が与えられ、教導士や敬虔な信徒が慰問に訪れ、医師は慈善訪問を行った。治療費は、乏しい予算の3パーセントにも満たなかった。半分以上の予算は病院のスープ(=食事)のためにつかわれ、修道女たちは、わずかな手当てでも生活することができた。刑務所と同様、病院は最後の手段と考えられていた。誰も病院を、収容者の治療を行うための場所だとは考えていなかった。
その論理の帰着として、極端な考え方の者の中には、乞食委員会の勧告を飛び越して、病院の全面的な廃止を要求したものもいた。「病院は、必然的に病人をかき集める場所であり、患者に社会的な烙印を押し、悲惨をもたらす。もし社会が病院を必要とし続けるなら、それは政治改革が失敗した証拠である "と。
ルソーの考え違いは、病気というものをその「自然な状態」に回復させたいという願望と、社会を「野生の病気」に戻したいという願望との間を小刻みに振れていたことである。この病気というものは自己を抑制するように働き、美徳とスタイルをもって耐え、病を得た金持ちが世話を受けたのと同じく、貧しい人々も家庭で世話ができるものである。病気が複雑で、手に負えないもの、耐え難いものになるのは、搾取によって家庭が崩壊したときだけであり、悪性で卑しいものとなるのは、都市化と文明の到来によるものである。ルソーの支持者たちにとって、病院で見られる病気は、あらゆる形態の社会の不公正と同じく、人為的なものであり、自堕落な人々や、その人々によって困窮させられた人々の間で蔓延しているものなのである。
病院では、病気は完全に腐敗したものとなる。すなわち、痙攣、発熱、消化不良、(栄養不良を示す)青みがかった尿、呼吸抑制を特徴とする「発疹チフス(=刑務所熱)」となり、最終的には死に至る。そうなるのは、(収容されてから)8日目か、11日目、さもなくば13日目のことである。医学が初めて政治の問題となったのは、このような考え方が言葉で語られるようになったことによるものである。社会を健全にするための技術計画は、文明の病を取り除く社会再建の呼びかけから始まったのである。デュボスが「健康の蜃気楼」と呼んだものは、政治的プログラムとして始まった。
1790年代の一般的な表現には、人や環境に生物医学的な介入を行うという発想はまったく入っていなかった。王政復古のときに、病気をなくすという任務が医療に引き継がれたのである。ウィーン会議以降、病院が急増し、医学校がもてはやされた。しかし、疾病(という概念)はまだ専門的なものではなかった。 1770年には、一般診療所でもペストと痘瘡のほかにはほとんど知られていなかったが、1860年までには、一般市民は1ダースぐらいの病気の医学的名称が分かるようになった。救い主、奇跡の人として医師が突然現れたのは、新しい(医療)技術の有効性が証明されたからではなく、失敗に終わった政治的革命の追求に信憑性を与えようとする魔法の儀式が必要だったからである。もし「病気」と「健康」が公的資源を必要と主張するのであれば、これらの概念は実際に機能するものでなければならない。病は、人類にはびこり、実験室で移植や培養が可能で、病棟、記録、予算、博物館に収めることができる、誰が見てもそれと分かる疾病に変える必要があった。病気はこうして行政管理に組み込まれ、エリートの一派が支配階級からその管理と撲滅の自治を任されたのである。
医療の対象は、水面下の新しい政治的イデオロギーによって定義され、医師や患者とはまったく独立に存在するものとしての地位を獲得していった。私たちは、病気の実体というものが誕生したのが、どれほど最近のことであるかを忘れがちである。19世紀半ばには、ヒポクラテスの言葉が引用され、支持されていた: 「健康か病気かを判断する材料となる重さ、形、計算を見出すことはできない。医学の世界では、医師の感覚以外には確かなものは存在しない」。病気は、なお医師の所見を反映する個人的な苦悩であり続けていた。この医学的な概念が臨床的な実体を持つものへと変化することは、天文学におけるコペルニクスの業績に匹敵する医学上の出来事であり、人間は自分自身の宇宙の中心から放たれ、遠ざかっていった。ヨブはプロメテウスになったのである。
コペルニクスが天文学に与えた簡潔さを医学にもたらしたいという欲求は、ガリレオの時代からあった。デカルトは、この展望を実行に移すべく思索を重ねた。デカルトは、人体を時計仕掛けのものと考え、魂と肉体の間だけでなく、患者の訴えと医師の目との間にも新たな距離を設けたのである。この機械論的な枠組みの中で、痛みは赤信号に変わり、病気は機械的なトラブルに変わった。病気の分類が可能になった。鉱物や植物を分類することができるように、病気も医師である分類学者によって識別、分類することができるようになった。医学の新しい目的のための論理的枠組みができたのである。病気は人間を苦悩させるものとしてではなく、医療システムの中心に置かれ、(a)測定による実践の検証、(b)臨床研究と実験、(c)工学的基準に基づいた評価を受けることができるようになった。
古代には病気の基準というものはなかった。ガリレオの同時代人が、病人に計測を適用しようとした最初であったが、ほとんど成功しなかった。ガレノスが、尿は大静脈から直接分泌され、その成分は血液の性質を直接示すと教えて以来、医師たちは尿を味わい、匂いを嗅ぎ、太陽や月の光によってそれを測定してきた。16世紀以降、錬金術師たちは比重をかなりの精度で測定できるようになり、その手法を病人の尿に応用するようになった。その結果、尿の比重の変化には、何十種類もの異なる意味があることがわかった。この初期の測定によって、医師たちは新しい測定を学ぶ中で、診断や治療の意味を読み取るようになった。物理的な測定を行うことで、病気が本当に存在し、その存在論的な主体性を医師や患者が理解しているものから信じうるものとなる段階が整ったのである。
統計の使用はこの信念を支えた。統計学は、病気が環境中に存在し、人を侵し、感染する可能性をもつものであることを「示す」ものであった。1721年にアメリカで行われ、1722年にロンドンで発表された統計学を用いた最初の臨床研究は、天然痘がマサチューセッツ州を襲っていること、そして予防接種を受けた人々はその脅威から守られていることを示す確固たるデータであった。この試験は天然痘予防の精力的な予防活動よりも、セイラム魔女裁判の際に審問したときの怒りでよく知られているコットン・メイザー医師が実施したものである。17世紀から18世紀にかけて、病人の体温を測定する医師は、同僚からヤブ医者とみなされていた。フランス革命の頃、イギリスの医師たちは、臨床で用いる体温計を横目で見ていた。脈拍の測定と並んで、体温測定が臨床の常識となったのは、聴診器がラエンネックによって初めて使われてから30年近く経った1845年頃のことである。
医師の関心は病人から病気へと移っていったのである、病院は、病気の博物館となった。病棟には治療を行おうとする医師に、自分の体を展示品として提供する貧困者がたくさんいたのである。病院が「症例」を研究し比較する論理的な場所であるという認識は、18世紀末に発展した。医師たちは、さまざまな病人が集まる病院を訪れ、同じ病気の複数の「症例」を選び出す訓練をした。「Bedside vision」という臨床における観察眼を養ったのである。19世紀に入ってからの数十年間、病院に対する医学的な考え方はさらに発展した。それまでは、新米医師は講義や講演、論争によって訓練を受けていたのである。
今や、ベッドサイドはクリニックとなり、医師の卵に病気を見せ、認識する訓練の場となった。病気に対する臨床的アプローチは、臨床の場で病気について語る新しい言語と、学生に病気を見せるために病気ごとに再編成、特化した病院を誕生させたのである。19世紀初頭に診断の場となった病院は、今や教育の場となった。やがて、治療法を試みる研究室となり、世紀末には治療法を並べ立てる場所となった。今日、伝染病患者を収容する病院は修理工場として区分けされている。これらすべてのことは何段階にもわたって生じている。19世紀には、診療所は病気の運び屋(=病人)を集め、病気を特定し、病人の人口調査を行う場所となった。医学が現実をどのように認識するかは、医療の実践よりもずっと早く、病院を基盤とするようになったのである。
フランス革命家が患者のために要求した専門病院が現実のものとなったのは、医師が病気を分類する必要があったからである。19世紀の間、病理学はもっぱら解剖学的な異常(所見)の分類にとどまっていた。しかし、19世紀末になって初めて、クロード・ベルナールの弟子たちが、機能の病理を分類し、名称を与えるようになった。病気と同様に、健康も臨床的な地位を獲得し、臨床的な症状がないこととなり、正常の臨床的基準が幸福(かつ健康)と見なされるようになった。もし、200年以上の間に、普遍的な基準の価値が次々と生まれなければ、病気が異常と関連づけられることはなかっただろう。1635年、リシュリュー枢機卿の要望により、フランス国王は、フランス語の保護と完成を目的として、最も著名と思われる40人のフランス文学者からなるアカデミーを創立した。しかし、実際には発達する生産手段を支配するようになった新興ブルジョアジーの言語を押し付けることになったのである。
新しく登場した資本主義の生産者階級の言葉は、すべての階級の規範となった。国家権力は、制定法の枠を超えて、表現手段を規制するまでに拡大した。市民は、教会の教義や国家の民法や刑法が及んでいない領域で、エリートの規範的な力を認識することを学んだ。フランス文法の成文化された規則に反するものは、独自の制裁を受けるようになった。つまり、話し手をその場に立たせ、階級や職業の特権を奪ってしまうのである。低俗なフランス語はアカデミックな水準を下回るものであり、同様に、健康を害するとは臨床的水準に達しないものであるのと見なされた。
ラテン語のノルマは「正方形」を意味し、大工仕事における四角形である。1830年代まで、英語の 「normal」は地面に対して直角に立つという意味だった。1840年代には、一般的な型に適合していることを意味するようになった。1880年代には、アメリカでは、物事だけでなく、人について通常の状態も意味するようになった。フランスでは、この言葉は幾何学から社会へと転化した。Ecole normale(高等師範学校)は、帝国の教師を養成する学校を意味する。医学的な意味合いを持たせたのは、1840年頃、オーギュスト・コントによる。彼は、生体の正常な状態に関する法則が分かれば、比較病理学に取り組むことができるようになるとの考えを述べたのである。19世紀最後の10年間の間に、病院の規範と基準が診断と治療の基礎となった。このことが成り立つためには、すべての(臨床的に)異常な兆候が病と考える必要はなく、臨床標準から逸脱したものを病気として捉え、治療の方針を示して、医療介入を正当化することができれば十分であった。発展から衰退までわずか1世紀半も続かなかった病院医療の時代が終わりを告げようとしている。臨床検査が社会に浸透したのである。社会(全体)がクリニックとなり、すべての国民は、血圧が正常値の範囲内に収まるように常時モニタリングされ、コントロールされる患者となったのである。
どこの病院でも、人員、資金、アクセス、管理の問題が深刻化しているが、これは病気の概念における新たな危機の兆候と解釈することができる。この危機は、2つの相反する解決策があり、どちらも現在の病院を必要ないものにするものであるため、真の危機といえる。第一の解決策は、医療をさらに病的なまでに医療化し、外来患者に対する医療専門家の臨床的影響力をさらに拡大することである。もう一つは、病気という概念を批判的に、科学的に健全な形で脱医療化することである。
この危機を健全に解決するためには、医学生物学や医学技術よりも、医学的認識論の方がはるかに重要である。この認識論は、診断と治療の論理と、診断と治療の社会的性質を明らかにする必要がある。とりわけ精神的な病気に相対する身体的な病気についてはそうである。すべての病気は、社会的に創られた実在である。その意味とそれに対する反応には歴史がある 。この歴史を研究することは、我々がどれほど医学的イデオロギーの囚人となっているかを理解することになる。近年、多くの著者が、精神が逸脱した状態を 「病気」と見なすことを否定しようとしている。逆説的だが、著者たちは、病気一般について同様な問題提起することを、さらに難しくしてしまったのである。ライファー、ゴフマン、サス、レイング、そしてその他の人々は皆、精神病の政治的発生と政治的目的への利用に関心を持っている。
その主張を明確にするために、彼らは皆、「実体性のない」精神病と「実体性を持つ」身体疾患を対比する。彼らの考えでは、自然科学の言語は、医師が研究するすべての病態を記述しようとしているが、実際には身体疾患の場合にのみ可能であるとする。身体的な病気は身体に限定され、解剖学的、生理学的、遺伝学的に理解されるものである。これらの症状が「本当に」存在するかどうかは、測定と実験によって確認することができ、価値体系を参照する必要はない。しかし、このようなことは、心の病には当てはまらない。「病」であるかどうかは、すべて精神医学的な判断に依存している。精神科医は市民の社会的、倫理的、政治的な代理人として行動する。これらの「精神」状態の測定や実験は、精神科医が社会的に広めている偏見と整合するイデオロギーの枠組みの中でしか行うことができない。病気の蔓延は、疎外された社会の中での生活のせいにされており、政治的改革は、多くの精神的な病気をなくす反面、身体的な病気の人たちに対して、より公平な技術的治療を提供するにとどまるであろう。
このような精神医学に反する立場は、精神的な逸脱(異常もしくは疾患、病)は病気の性格を持たないものとし、身体的な病気は政治的なものではないとする立場を正当化するもので、西洋では主流ではないが、現代中国では、精神疾患が政治的問題として考えられており、その考えは公式の教義に近いと思われる。毛沢東派の政治家は精神病者に責任を負う。ベルマンは、中国人は、階級的敵対勢力である逸脱者を病院に閉じ込め、あたかも感染症と同じような病気であるかのように扱うことで非政治化するという、ロシアの修正主義的実践に反対していると報告している。彼らは敵対的アプローチのみが良い結果を生むとうそぶくのである。つまり、知らぬ間に階級的対立者となった人々を集中的に政治的に再教育するのである。自己批判は人々を政治的に活発にし、健康にするのであると。ここでもまた、精神的な逸脱はもっぱら非臨床的なものであるとして、物質的実体を持つ病気とは別物であるという信念を強化している。
先進工業社会では、病気の実体の認識論的正当性を維持することに高い関心がある。病気が人に取り憑くものであり、また人が「catch」し、「get」するものである限り、こうした自然のプロセスによる犠牲者(=患者)は、自分自身に対する責任を免れることができるのである。主観的な病の現実に苦悩すること、怠惰で不道徳、あるいは無力が非難ではなく同情されるものとなる。また、病気を「物事のあり方」が表出したものとして謙虚に受け入れれば、病気は呪われたからではなく迫害された結果とみなすことができる。そして、高度な産業社会の病的なストレスを増大させることに協力したことの政治的責任から解放されるのである。高度な産業社会は病を引き起こすものである。というのは、人々が環境に順応していくことを不可能とし、さらに環境との関係が破綻したとき「論理的」代替で修復することを不可能にするからである。もし医学が、人々の生物学的な順応障害(=病気)を、人々に押し付けられた、あるいは人々が自分で選択せざるを得なかった生き方の欠陥であると説明しなければ、人々は(産業社会という)環境に反抗するだろう。
患者が個人的には政治的無実であるという、診断上の保証は生産と消費に一層駆り立てることを正当化する衛生マスクとして機能する。個人の身体に発現する実体としての病気についての医学的診断は、被害者を非難する隠された非道徳的な方法である。医師は、体制側の一員であり、専門家としての同僚が設計し、管理する環境に人々が順応できない状況を生み出したことを非難する代わりに、病人が社会に適合していないと判断するのである。このように、実体としての病気は、政治的に都合のよい神話を体現するものであると解釈できる。その神話とは、病気は人体という物質への産業社会の要求に対して、造反する人の体内で生じる物質に起因するとするのである。
どの社会でも、疾病の分類(nosology)は社会を映し出すものである。社会が生み出す病気は、医師によって官僚が好みそうな名前に新しく生まれ変わる。「学習障害」、「ハイパーキネシス」、「微細脳機能障害」は、親に子供がなぜ学習しようとしないかを説明し、学校の不寛容さや無能さを説明するものとして機能する。例えば「高血圧症」は社会を悪化させるものであり、ストレスをモニタリングする根拠となる。診断が納得のいくものであればあるほど、また治療が価値あるものであればあるほど、人々にその両方が必要であると納得させるのは容易であり、しかも(医療という)産業成長に抗う可能性も抑えるのである。組合に組織された労働者は、税金や保険につぎ込んだお金の一部を取り戻すという考え違いの喜びと、それによってより平等に扱われるという錯覚すること以外に理由がなければ、できるだけ高額な治療を要求する。
病気が器質的あるいは行動的な異常として認識されるようになる以前は、病気になった人は、医師の目には己の苦悩が見て取れており、己の苦しみが独自的なものであると見えていることを自覚できたのである。しかし、今、患者が目にするのは、出納を業務とする生物学的な会計士の視線である。患者の病気は、本人から取り去られ、会計企業の原材料にされる。病状は、患者が理解しがたい言語による抽象的なルールに従って解釈される。患者は、医師が闘おうとする病気が存在することについて教えられるが、それは、患者の協力を得るために医師が必要と考える範囲内のものである。病人は、自分の苦悩を表現する、意味のある言葉を奪われ、言葉の迷路にはまり込んでさらに苦悩が増すことになるのである。
科学用語が身体に関する言葉を支配するようになる以前は、この分野の日常的用語のレパートリーは非常に豊かであった。農夫の言葉は現代にその他からの多くを伝承している。諺、格言はすぐにでも役立つ教えを含んでいるのである。バビロニア人やギリシャ人の医師がまとめた患者の主訴の表現は、ドイツのブルーカラー労働者の表現と比較されている。古代と同じように、患者は口ごもり、あがき、彼らをつかんだもの、彼がとらえたものについて説明する。しかし、産業労働者が自分の痛みを無味乾燥な「それ」と呼ぶのに対し、古代の人々は、自分を噛んだり刺したりする病魔を色彩にあふれた表現豊かな名前で呼んでいたのである。
そのうちに、社会一般の会話が、エリート職業(=医師を含む医療従事者)の特別な言葉に依存するようになると、病気は階級支配の道具となる。大学で学んだ者や官僚は、こうして医師が行う治療の同僚となり、労働者は支配階級の言葉を話せない存在として、取り残されるままとなるのである。医療効果を普通の言葉で評価すると、効果的な診断と治療のほとんどが、一般の人びとの理解を超えるものとはならないことが分かる。実際、害(=多くの場合副作用)よりも効き目があることが明らかな診断や治療法のほとんどは、2つの特徴がある。それは、原材料が非常に安価であることと、自分自身あるいは家族が使うためにデザインされ、パッケージに入っていることである。例えば、カナダの薬は、健康を増進させるために必要なものは非常に安価であり、そのコストで現代医薬品を浪費しているインドの全人口をカバーできるだろう。
最も一般的な診断・治療器具に必要なスキルは、非常に基本的なものなので、関心のある人が注意深く指示を守ることで、おそらく(正規の)医療行為よりも効果的で正しく使用することができるだろう。専門家である医師、精神科医、歯科医、助産師、理学療法士、眼科医よりも、医療を職業としない「裸足の」素人でも深く関心をもつ人の方が、より効果的に対処ができるものがほとんどであろう。その他の大部分も、プロの医師、精神科医、歯科医、助産師、理学療法士、眼科医よりも、「裸足の」関心を持つ素人の方がうまく扱えるかもしれない。効果的な現代医療が平易なものであるという証拠が議論されると、医療関係者はたいてい、病人は不安で感情的になって合理的な自己治療ができないし、医者でさえ自分の病気の子供を治療するためには同僚を呼び寄せるのだと言って反論する。さらに、悪意を持つ素人は、希少で貴重な医学知識の独占的な管理者を組織化してしまうだろう、とも。
これらの異論は、消費者の期待が(医療)サービスに対する姿勢を形作り、医療資源が病院での使用を考慮した商品となり、医療効率化の神話が支配する社会で提起されるのであれば、すべてその通りである。しかし、一般人が技術を利用することで、誰もが手の届く目標を効果的に追い求めることを目指してきた社会にあってはそのような反論は有効ではないだろう。