研究ノート8:理解不能な病名がもたらすもの
「その病んだ状態をなんというか?」という一見シンプルな問いは一般人にとっても、医療、医学の専門家にとっても大変重要である。もちろん重要であることの意味合いは全く異なっている。
新しい病気を発見し、それに名前を付けることは医学研究者にとって非常に名誉なこととされている[1]が、そのためか日本の医学界で病人を治す臨床医は一般に医学研究者より低くみられていた。病める状態に名前が付き、その状態をもたらすなにがしかの知識(原因あるいはメカニズム、予後など)が得られて両者が結合するようになったのはそれほど昔のことではない。ある病名が表す症状は近接する症状(少なくとも異なる病名がつく)と区別がつきにくいことは少なくない。私の経験の一つに、脳梗塞と脳出血の鑑別診断の事例がある。昔私が最初に転職したDainabot社(米国のAbbott社の日本法人である)が、日本で脳血栓溶解剤であるウロキナーゼ[2]を発売した。
脳梗塞は脳血管が詰まることにより発症し、脳出血は脳血管が破れることで発症する。そして両者の症状はよく似ている。したがって症状だけではウロキナーゼを投与するべきかどうかは決められず、CTなどによる鑑別診断を必要とする。発売当時この鑑別診断の必要性について添付文書には記載されていなかったため、脳出血例にウロキナーゼを投与するという事例が発生した。この事例を受けて、厚生省(当時)は企業に緊急安全性情報の発出を指示し、添付文書の改訂を行ったのである。
恐らく当時より現在では、脳出血と脳梗塞の違いは発症メカニズムとして違うものである、ということが一般人にも理解されているのではと推測している(これには、血液をサラサラにしないと脳梗塞などのリスクが高まる、というサプリメント広告の力もあずかっていると思うが)。私の母親は小脳の脳梗塞で亡くなり、父親も2度の脳梗塞を経験し入院中である。父親は母親が脳梗塞で死亡したことを理解可能であった。父親も自身が1度目の脳梗塞で入院したことを退院後に理解し、リハビリに励むことに納得した。
このように病名から、病状から最終的には予後までを理解できることは患者納得において非常に重要である。ヒポクラテスは、病人の出来るだけ的確な予後を見定めることを医師の重要な任務の一つとした(当時は環境諸条件を整え、温和な手当てによって自然治癒力を助長するのが治療の本旨であり、現代のように予後を大きく変える強力な介入手段がなかったから[3]、と言えばそれまでであるかもしれないが)。
一方で、病名は存在するが、患者には原因や発症メカニズムが理解できない場合に患者はどのような気持ちになるのであろうか?以下はコルク栓を抜くときの爆発によってビンの破片が手に刺さり、受傷した若い女性の経験である[4]。
皮膚移植を含め3度の手術を経たが、右手の中指、薬指、小指、手のひらに激痛があり、常に火にあぶられているよう、燃えているよう、電気が走るような苦痛が現在も続いている。ペインクリニックで鎮痛剤、漢方薬、神経ブロックの治療を受けたが、期待する効果は出なかった。診断名は医療機関によって神経障害性疼痛や複合性局所疼痛症候群(CRPS=Complex Regional Pain Syndrome)[5]であった。彼女の語りである。
今を受け入れようって思うんだったらいいんですけど、まだ頑張れるかなと思うんだけれどこれより悪くなるかもしれないとか、しかもそれが何年後になるかもしれないし、いつどうなるかわからないっていうのが…それがやっぱり考え出すときりがないですね。これよりまださらに悪くなるかもしれないというふうに思うと、まあ怖いというか、不安ですね。うん。でも、それがそのCRPSというののわからなさ、うん。
この語りにはCRPSという病名がついても、メカニズムはおろか、なぜ有効な治療法もなければ、(時間経過とともに)好転もしないのか、いつまで続くのかなどについて全く理解も納得もできない心境が吐露されている。彼女の取っている戦略は、「CRPSは考えてもわからないものである」、ということを自分自身に言い聞かせ、丸ごと納得(受容)することである[6]。医学の進歩により症状や病型の分類は精緻になり、定義も厳密になれば病名と病名の間に新しい病名を作る空白地帯が生まれる。しかし新しい病名をつけることと平行して有効な治療法が見出せるとは限らないし、患者が納得できる道筋が見つかるとも限らない。患者にとって最も重要なことは心理的な苦しみからも解放されることである[7]。身体的、生物学的修復が優先されるとき、患者の心理は分裂し、治療法とセカンドオピニオンを求め歩き、さらには公認された医療以外にも希望を見出そうとする行動につながってくる。それは現代医学、医療に依存する反面、現代医学をもってしても予後の見えない限界状況がもたらす帰結の一つであると同時に、新たな病を付加することになりかねない。病める人間が知識、理解、納得、受容と段階を経なければならないことは医学と医療の違いを考える上で極めて重要な分岐点ではないだろうか。
[1] 病名に発見者の名前が付くことが珍しくない。川崎病、ハンセン病、ヤコブ病などはその事例である。
[2] ウロキナーゼは古くからある薬であるが、以前は人尿を蓄積、濃縮して作られていた。キナーゼと言う通り本体は酵素であり、生物由来成分であるため生物製剤としてのリスクが常にあった。Abbott社はこれを腎細胞の培養法(Tissue culture法)によって純度の高い製剤に仕立て直したものである。いわゆるリバースエンジニアリングの一つである。
[3] 結核も近代まで転地療養、栄養を行い、自然治癒力に頼らざるを得なかった。
[4] この語りはDipex Japan(健康と病の語り NPO)が公表している一事例である。https://www.dipex-j.org/
[5] 病気の本態が分からない場合に、このように病態の部分、部分を現す(意味する)単語を連ねる病名が増えているように思われる。この傾向については別に論じる必要がある。
[6] もし長期にわたる理解不能な身体的苦痛を伴わない状況であれば、ここまで受容を困難にすることはないのではとも思われる。病気によって患者の受容のありようは異なると考えるべきであろう。
[7] 薬害のスモン病、公害のイタイイタイ病、子宮頸がんワクチンによる健康被害など、人工的に作り出された疾病において、被害者の語りは心理的解放や納得が特に重要であると教えている。