研究ノート2:インフォームドコンセントとリスク認識
20200526
E.キャシュダンはリスクに関する研究を「処方的リスク研究」と「記述的リスク研究」とに大別した。処方的リスク研究はいわゆるリスク・マネジメントであり、確率・統計的数値によって測定された未来の可能性としてリスクを把握しその管理と統制を目指す。他方記述的リスク研究は経験的知識を蓄積し、その知識に基づいてどのような対応をしているかの事例解釈を行う(市野澤潤平.2014.リスクの人類学. 世界思想社)。
現代医療はその根底に不確実性を持っている。それはリスクである。サリドマイド事件を契機に米国で生まれたインフォームドコンセントという、医療者と患者を繋ぐコミュニケーションのの形態は、医療者によって統計的言語で行われているものである。しかし、医療者は医療の場面で統計学的言語が用いられていることの本質を十分には理解していないし、他方、患者は医療者の言語が本質的に理解できないものである、という理解も持ち得ていない可能性がある。
一例として薬物療法(医薬品)を承認あるいは治療のために選択する場合を考えてみる。医薬品の有効性と安全性が示され、承認される根拠は最終的にはヒトにおける臨床試験の成績である。臨床試験では試験に組み入れられる患者(被験者)をそれなりの厳密さでもって選別する。一つは試験のエンドポイント[1]観測の適格性から考慮される組み入れ基準Entry criteriaであり、もう一つは患者の安全性に配慮して除外する除外基準Exclusion criteriaである。
臨床試験は多数の被験者を対象として行われる[2]。いわゆる第三相試験では二重盲検法による多施設群間試験の形をとることが多い。すなわち臨床試験の有効性の成績は多数例について統計的処理を行う過程が不可欠である。100%有効でない限り、有効性が認められなかった被験者は必ず存在する。医薬品の承認にあたって、有効性が認められなかったことの理由はほとんど審査で追及されることはなく、有効性が既存薬より統計的に有意に高ければ有効性の観点からは承認しうるものとなる。すなわち処方的リスク研究なのである。
他方、安全性は事情が異なる。健康被害(副作用)の可能性は有効性検証に必要な症例数ではまったく不十分である。それは健康被害を発現するメカニズムがほとんど分かっていないということに尽きる。健康被害の重要な事例は審査において個別に因果関係を含む評価が行われ、それらのリスクについて添付文書に使用上の注意、禁忌、重大な副作用などとして反映される。つまり記述的リスク研究である。しかし添付文書には臨床試験の成績の一部として集計表記されるために安全性についても有効性についての「処方的リスク表現」と同一視されることになる。インフォームドコンセントに用いる文書(被験者同意書あるいは添付文書)は治療の複数の選択肢について、回復への期待値と健康被害の危険度を両論併記することで患者に処方的リスク情報として開示し、選択させるという機能を持つ。そこには最も深刻な状況についての発現確率(あるいは事例)も記載されているが、その時に主治医がどのように責任をもって、対処する能力があるかの(記述的リスク)の説明はほとんどなされない。すなわち医療における統計的言語を患者が理解できる一般言語に翻訳されることがないまま、プロセスとしての役割は被験者同意書の統計的記述が代行するのである。
インフォームドコンセントは医師のパターナリズムを緩和、軽減し、また医療の透明性を高める役割を担ったと考えるが、今では医師の説明責任を代行する手段、場となっている。さらに重要なことは、患者の医療の不確実性について警戒心を減少させ、医療への接近と利用に不必要な安心感を醸成してきたのかもしれない。セカンドオピニオンの容認はインフォームドコンセントの限界を補うものなのかどうか、考察が必要である。
[1] 病状のある指標がどのような状態になる(エンドポイント)か、を薬効判定の目標とするかは、現代医薬品開発の出発点である。したがってエンドポイントの改善が治癒と直結していないことがあるのは当然であるが、そのことは患者には基礎知的知識として普及していない。
[2] 二重盲検試験が科学的方法として一般化する前は、いわゆる「三た」主義がまかり通っていた。権威者あるいは専門家によって「使った、治った、だから効いた」という論法である。ここには自然治癒力による回復ということが全く考慮されていない。