Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(5)
痛みからの解放
グローバルな医療文明が伝統的な文化を侵食するとき、痛みという体験を変質させる。痛覚は同じ神経刺激であっても、それぞれの人格だけでなく文化によって別物の体験になる。この体験は、痛覚とは異なり、苦しみという人間特有の営為を意味する。しかし、医療文明は、痛みを技術的な問題にすり替え、その結果、苦しみから極めて個人的な意味を奪ってしまう。
人々は、苦しみを現実に対処しなければならない必然の一つとして受け入れることを学ばず、すべての痛みを、何か詰め物をするとか、なだめすかしをする必要を教える指標として解釈することを学ぶ。伝統的な文化においては、痛み、障害、そして死を、緊張した状況の中でどのように対処するべき困難なものであるかと解釈することによって、それに立ち向かうことになる。
すなわち医療文明は、それらを(=痛み、障害、死など)、経済活動としての要求、つまり、管理することができるもの、あるいはそれ自体を解消することができる問題へと変えてしまう。文化は意味のシステムであり、グローバルな文明は技術のシステムである。
文化は痛みを意味のあるものに同化させることで耐えられるようにし、グローバルな文明は痛みを滅却させるために、あらゆる主観的あるいは内的な状況から痛みを切り離す。文化は痛みも必要なものであると解釈することで、それに耐えられるようになるのである。(逆に言えば)治るはずのものであると認識された痛みが耐えられないものになるのである。
数多くの美徳は、伝統的に痛みの感覚を己に挑戦してくるものと捉え、それに対処する術を獲得する不屈の精神の様々な本質を表現している。忍耐、我慢、勇気、諦観、自制、忍耐、柔和はそれぞれ、痛みを受容し、苦悩との共存に変換し、耐え忍ぶという反応の様々な色合いを具現している。義務、愛、魅惑、慣行、祈り、そして慈悲は、尊厳を持って痛みに耐えることを可能にする手段の一つであった。
伝統的な文化では、身体に及ぶ危害や悲しみの衝撃に対するに、誰もが自分の行動に責任を負っていた。痛みは、誰もが自分自身を発見し、それに対する意識的な反応によって形作られる、己の身体という主観的実体から逃れられないものの一部であると常に認識されていた。人々は、偏頭痛や足の不自由、悲しみを自分で治さなければならないことを分かっていたのである。
このような個人的な苦痛は、人間による人間に対する虐待を抑制する効果があった。搾取する(側の)少数者は、酒を売りあるいは、犠牲者を麻痺させるために酒を売り、宗教を説き、奴隷はブルースを聴き、コカを噛むようになる。しかし、搾取が臨界点を超えると、人の身体という資源を基盤としてきた伝統的な経済は崩壊せざるを得なくなる。不快感や苦痛の強度が文化的に「耐えられない」とされる社会は、終焉を迎えざるを得なかったのである。
今日、すべての痛みの大部分は人為的なものであり、産業拡大戦略の副作用である。痛みは「自然」あるいは「形而上学的」な悪という概念ではなくなったのである。痛みは社会的な呪いであり、痛みに苦しむ「大衆」が社会を呪うのを阻止するために、産業システムは医療用鎮痛剤を供給している。こうして痛みは、薬や病院、医療サービスなど、企業による非人間的なケアをさらに求めるようになり、人間的、社会的、経済的コストがどうであれ、企業のさらなる成長を政治が後押しするようになった。痛みは政治的な問題となり、麻酔の消費者は、人為的に引き起こされる無感覚、無自覚、さらには意識喪失を雪だるま式に求めるようになった。
伝統的な文化と技術的な文明は、真反対の前提から出発している。どの伝統文化でも、精神療法、信念の体系、最も苦痛に耐えるために必要な薬物は、日々の生活の中にあり、現実は過酷で死と不可避であるという信念を反映している。20世紀における暗黒とは、痛みという現実の内実であろうとなかろうと、それに耐えることができないのは、社会経済システムの失敗と見なされ、痛みは特別な介入措置を必要とする緊急事態として扱われる。
脳が受け取る痛みについてのメッセージから生じる痛みという経験は、それがどのようなものか、どれほどのものかという点において、遺伝的素質と、刺激の性質と強さ以外の少なくとも4つの機能的な要因、すなわち文化、不安、注意、解釈に依存している。これらはすべて、社会的な決定要因、イデオロギー、経済構造、社会的性格によって形作られる。文化は、子供が生まれるときに母親と父親のどちらか、または両方がうめき声をあげなければならないかを決める。状況や習慣は、苦しむ人の不安のレベルや身体感覚に向かう意識を決めるのである。
鍛錬と信念が身体感覚に与える意味を決定し、痛みの経験に影響を与える。効果的な魔法とまがう助けは、高度な宗教よりも世俗的な信仰によることが多い。痛みの経験から得られる予測によって、痛みにどれだけ耐えられるかが決まる。セックスのクライマックスや英雄的演技の最中に傷を受けても、多く場合は感じることがない。アンツィオ海岸で負傷した兵士たちは、その傷を理由として軍から除隊し、英雄として故郷に帰ることを望んだが、同じような傷を歯医者や手術室で負うならば、絶対に必要となるはずのモルヒネの注射を拒否したのである。
文化が医療化されると、痛みの社会的決定要因も歪んでしまう。文化が痛みを内在的なもの、個人的なもの、そして伝達不可能な「価値観」として認識するのに対し、医療文明は主に、検証、測定、規制が可能な全身的反応として痛みに焦点を当てるのだ。第三者が認識する痛みだけが診断となり、具体的な治療が必要とされる。このような痛みの客観化、定量化は、患者が痛みを感じないと言う場合でも、医学書には痛みを伴う病気、手術、状態と書かれているほどである。
痛みは、痛みを感じている人がその体験を自分自身で何とかしようとすることを助けるアプローチではなく、医師によるコントロールの方法を求めるのである。医学者は、どの痛みが本物か、どれが身体的でどれが精神的なものか、どれが想像に起因するものでどれが人為的に生じたものかを判別する。
社会はこの専門家の判断を受け入れ、公に認めるのである。思いやりは時代遅れの美徳と化すのである。痛みを抱えた人は、しばしば圧倒なその体験を意味付ける社会的文脈を、ますます失っていくのだ。医学的な観点からの痛みの知覚に関する歴史はまだ書かれていない。
過去250年の間に、痛みに対する医師の考え方が変化したケースを扱った学術的なモノグラフがいくつかあり、痛みに対する現代における考え方を扱った論文にも、歴史的な言及が見られる。
人類学としての医学の実存学派は、技術革新の時代における身体知覚の変化を追跡しながら、現代における痛みの変遷について貴重な洞察を蓄積している。医療機関と患者の抱える不安の関係は、精神科医によって研究されており、時には一般内科医によっても研究されている。しかし、本当の意味での身体の痛みと医療ビジネスとの関係は、いまだ未開拓な研究領域である。
痛みについて歴史家は、3つの特別な問題に直面する。第一は、人間が被る他の病気と痛みの関係が根本的に変化していることである。痛みは、悲しみ、罪悪感、罪、苦悩、恐怖、飢餓、劣化そして不安との関係でその位置を変えてきた。外科病棟で私たちが痛みと呼ぶものは、かつての世代には特に呼び名がなかったものである。今日では、痛みとは人間の苦しみのうち、医療関係者が説明、対応できるというものに限られているかのようだ。身体的苦痛の経験が、苦痛を鎮静するようにデザインされた治療プログラムによって形を成すという現代の(逆説的な)状況は、歴史的に前例がないのである。
第二の問題は、言語である。現代医学が「痛み」という言葉で表現している専門的な事象は、今日でも、日常会話の言葉では単純に対応するものがない。ほとんどの言語では、医師たちが受け継いだ言葉には、悲しみ、嘆き、苦悩、恥、罪悪感などが含まれている。英語の "pain "やドイツ語の "Schmerz "は比較的使いやすく、そのほとんどが物理的な意味を持っている。身体的な痛みは、"hard work" "toil" "trial" "torture" "endurance" "punishment"、あるいはもっと一般的には "affliction" "illness" "tiredness" "hunger" "mourning" "injury" "distress" "sad_ness" "trouble" "confusion" "oppression" として表されることがある。こうした長々しい列挙は完全とは言い難い。この列挙は、言語というものが多くの種類の「悪」を区別することができ、そのすべてが身体的な反映を表している。ある言語では、身体的な痛みには明らかな「悪」がある。フランスの医者が典型的なフランス人に、どこが痛いかと尋ねると、患者はその場所を指差して言うだろうJ'ai mal la頭が痛い."と。
一方 フランス人は "Je souffre dans toute ma chair私の全身が苦しい" と言いながら 同時に "Je n'ai mal nulle partどこも痛くない" と医者に伝えることができる。体の痛みという概念が医学的に進化してきたとすれば、それは単にある用語の意味の変化だけでは把握しきれない。
痛みの歴史に対する第三の問題は、その例外的な公理論的、認識論的状況である。自分が同じ頭痛に悩まされるなら、誰もが「私の痛み」を私の意味どおりに理解するだろうが、そんなことは不可能である。この意味で、「痛み」とは、生体と環境との間、および刺激と反応との間の明確な線引きが崩れさることを意味する。
それは、あなたと私の頭痛を比較できるような、ある種の経験を意味するものではない。ましてや、何らかの生理学的、医学的実体、ある種の病理学的徴候を有する臨床的状況を意味するものでもないのだ。それは、医学者にとって体系的な価値のないものとされている「胸鎖乳突部の痛み」でもない。
痛みは無価値なものとしては特別なものであっても、疑いなく明白なものである。ちょうど「私の痛み」が唯一無二の形で私だけが感じており、私は痛みを抱えたまま全く孤独なのだ。私はそれを(他者と)共有することはできない。私は痛みを現実に体験していることを疑うことはないが、体験していることが何であるかを誰かに伝えることはできない。
私は他人にも「彼ら」の痛みがあると推測はするが、他人が私にその痛みについて語るとき、私はその意味を悟るまでには理解できない。私が他人にも痛みがあることを確信できるのは、他人に対する思いやりが確かにあるという感覚が私にあってこそ、である。とはいえ同情の念が深まれば深まるほど、相手の経験との結びつきという点からは、相手が全く孤独であることを確信する。だが、私はたとえ相手が経験するものが私の助けや理解を超えている場合でも、苦痛を感じている人が発するサインを認めることはできる。この極端な孤独の自覚は、私たちが身体の痛みに対して感じる同情心の独特な性質であり、苦悩する者、悲しむ者、悲しむ者、異質な者、不自由な者に対する同情心など、他のどの感情とも異なるものである。極端な言い方をすれば、身体の痛みの感覚は、他の種類の苦しみに見られるような原因と結果の間の距離を欠いているのである。
身体的痛みを(他人と)コミュニケーションができないにもかかわらず、他の人の痛みを認知することは、非常に基本的に人間的なものであり、括弧でくくることはできない。患者は、自分の担当医が自分の痛みに気づいていないと考えることはできない。それは、拷問台の上に載せられた人が、拷問人は自分が痛むことを分かっていると考える以上に明白である。痛みという経験を共有するという確信は、人間性を共有するという確信よりも、非常に特別なものである。奴隷を家畜として扱ったが、家畜は痛みに苦悩する生き物として分かっていた人たちがいた。(他方)奴隷は犬以上の存在でありながら、傷つけられることはあっても痛みに苦悩することができない(ものとして理解した)のである。ウィトゲンシュタインは、他者の痛みについて私たちの特別で根本的な確信と、このような類例のない共有が成り立つことを説明する上での本質的な困難さが同居していることを示したのである。
身体の痛みは、(個人に)固有のものであり、心底から出てくるもの、他者と交感できない負として経験されるもので、次のようなものが含まれるというのが、私の主張である。
私たちは、苦しんでいる人たちが置かれている社会的な状況を意識している。社会の性格は、苦しむ人々の人格に幾分か影響する。その結果、己の身体の痛みを具体的な痛みとして体験するありようが決定される。その意味で、社会の医療化に伴って進行した痛みの体験がどのように変容してきたかを調べることは可能なはずである。受苦には常に歴史的な側面がある。
私が痛みに苦しむとき、ある疑問が投げかけられていることを意識する。痛みの歴史は、その問いに焦点を当てることで、最もよく学ぶことができる。その痛みが私自身の経験であろうと、他の人の様子が私に痛みを伝えてようとしていることを分かっても、この認識にはある疑問符がつくのである。このような問いかけは、孤独と同様に身体的苦痛に不可欠である。痛みとは、答えのないものを示すサインであり、次の瞬間に「これはどうしたことか?あとどれくらい続くのか?私がなぜ痛まなければならないのか?私は痛みに苦しむ必要があるのか?なぜこのような悪が存在し、なぜそれに私は襲われるのか?」
痛みについて自問する側面に気づかない傍観者には、条件反射しか残されていない。彼らはモルモットを研究しているのであって、人間を研究しているのではない。もし医師が、患者の訴えからこの価値観を含む問題を消し去ることができたとしたら、痛みをある身体的障害の症状として認識するかもしれないが、患者が助けを求めるまでになった苦しみには近づけないだろう。
このように痛みを客観視する能力が発達したのは、医師に対する過剰な教育の結果の一つである。末梢神経への刺激、伝達、刺激に対する反応、あるいは患者の不安の度合いなど、外部の人間が管理しやすい体の痛みに(医者としての)関心を向けるように訓練されている。その結果、身体という実体についての管理、つまり操作(=医学的・治療的介入)の検証が可能な事柄にのみ関心が限定される。
苦痛に対する個人の振る舞いは、このような実験的なコントロール(の要因)に含まれることはなく、苦痛についての実験では無視されるのである。薬学的あるいは外科的介入の「鎮痛」効果を検証するには、通常、動物が使用される。動物実験の結果が集計されると、その妥当性が人間で検証される。鎮痛剤は通常、モルモットとヒトで多かれ少なりとも同様の結果をもたらすが、ヒトを実験対象とした場合、動物の場合と同様の実験条件下で使用することが条件である。
しかし、実際に病気や怪我をした人に同じ治療を施すと、薬の効果は実験時のものとは全く違ってくる。実験では、人間はネズミと同じように(痛みを)感じている。自分の人生が苦痛に満ちたとき、人はよくも悪くも苦悩せずにいられない。ネズミのように反応したくても麻酔を重視する社会では、医師も患者も、痛みに対する本質的な疑問をもみ消すように再教育されている。直に経験した痛みから生じる疑問は、治療を受けなければならないという漠然とした不安に変るのである。ロボトミーを受けた患者は、苦痛を失った極端な例として、「家庭の病人やペット並み」の人格になるのである。ロボトミーを受けた人はまだ痛みを感じるが、それに苦しむ能力を失っており、痛みの経験は臨床的な名前を持つ不快感として矮小化されるのである。
痛みの経験が完全な意味での苦悩となるためには、それが文化的諸要素を満たしていなければならない。身体の痛みを個人的な経験に変えるために、文化には少なくとも4つの相互に関連した下位のプログラムがある。痛みは文化によって、言葉、叫び、身振りで表現できる問いという形をとる。それは往々にして、痛みによって経験する全くの混乱した孤独を(他者と)共有しようとする絶望にかられた試みである。イタリア人はうめき、プロイセン人は歯ぎしりする。
また、それぞれの文化には、薬物を摂取する状況やそれに伴う儀式を定める習慣があり、精神に作用する独自の薬物一覧を持つ。イスラム教のレイプト族はアルコールを好み、バラモン教の人々はマリワナを好むが、インド西部の村では(二つの習慣)が混在しているところもある。ペヨーテはナバホ族にとって安全であり、ホイチョール族にとってはキノコがそうであり、ペルーの高地の人々はコカで生き残ることを学んだ。人類は痛みを苦悩する能力を進化させたばかりでなく、それにどう対処するかということも進化させたのである。
石器時代の中頃には、ケシの栽培が穀物の栽培に先行していた。マッサージや鍼治療、鎮痛効果のあるお香などは、有史以前から知られていた。宗教あるいは神話においては、痛みには正当な理由があるということが全ての文化に見て取れる。イスラム教徒にとっては、神が決めた運命であるキスメット、ヒンズー教徒にとっては、過去の転生からくる重荷であるカルマ、クリスチャンにとっては、罪に対する聖別である。結局のところ文化は常に、痛みを覚える際の行動の模範となり得る事例を与えてきたのである。例えば仏陀、聖者、戦士、犠牲者(がモデル)である。
これらのモデルを見習うことで苦しむという義務は、痛みに没入してしまう感覚から注意をそらし、苦悩する者に拷問に対しても威厳をもって耐え忍ぶことを課すのである。文化的環境は、その特徴である「苦悩を受容する技術」に使われる文法や技法、神話や事例を与えるだけでなく、これらのことごとくを全体としてどのように受容するかという方法も与えるのである。これに対して、痛みの医療化は、技術的に操作しうる一つの方法だけを肥大化させ、他の方法を衰退させてきた。とりわけ、苦悩することに長けることが、痛みを最も効果的に、かつ普遍的に受容する方法になり得るという考えを、理解困難あるいは、受け入れがたくしてしまったのである。医療化によって、あらゆる文化から、痛みに向き合うためのプログラムを統合することはなくなってしまうのである。
社会は、医師と患者の関係性を決めるだけでなく、双方それぞれが痛みに何を思い、感じ、するべきかを決める。医師が自分自身を治癒者として認識している限り、痛みは健康回復のためのステップという役割を担っていたのである。医師が治癒させられない場合は、患者に鎮痛剤を使うよう伝え、避けがたい苦痛を和らげることに何の疑問も持たなかった。
オリバー・ウェンデル・ホームズのように、自然には薬よりも良い治療法があることを知っている良い医者なら、「例外ではあるが」アヘンは神ご自身が処方しているように思える、と言うことができたのである。というのも、トウモロコシ畑に緋色のケシが咲いているのをよく見かけるが、これはまるで、飢えが満たされるところには、癒されるべき痛みも、同じくあるに違いないと見抜いていたかのように思えるからである。
例外的ではあるが、医療技術が見つけてなかったワイン、それは食物であり、麻酔の奇跡を生む蒸発物でもある。私は、現在使われている医療に用いる材料すべてを海の底に沈めることができれば、人間にとっては良いことだが、魚にとっては悪いことになると固く信じている。"治癒者の倫理観は、宗教、民間伝承、さらに鎮痛剤が自由に利用できるようになったことで、一般の人々を鍛え上げたのと同じく、失敗の中にも威厳を保つ能力を医師に与えた。現代医学の専門家は異なる立場にある。つまり医師は最初から治癒ではなく治療を志向するのである。(現代の)医師は、痛みによって苦しむ人が持つ疑問を分かろうとするのではなく、痛みというものを、記録にまとめられるような主訴のリストにまで貶めるようにするのである。痛みのメカニズムに精通していることを誇りとし、患者が同情されたいという願いを避けて通っているのである。
ヨーロッパにおける、痛みに対する態度の源流の一つは古代ギリシャに求められる。ヒポクラテスの弟子たちは、多くの種類の不調和を区別し、それぞれが独自の痛みを引き起こすとした。こうして痛みは、診断のための有用な道具となった。痛みは、患者がどのような調和を回復しなければならないかを医師に教えたのである。
痛みは治癒の過程で消えるかもしれないが、それが医師の治療の第一の目的でないことは確かである。中国人は非常に早くから痛みを取り除くことで病気を治療しようとしたが、西洋の古典文化ではこの種のことは何ほどのこともなかった。ギリシャ人は、痛みを受容せずに幸福を享受できるとは考えもしなかった。痛みは魂が進化するための経験だった。アリストテレスは、人間の感覚的な魂は、肉体と完全に共存するものであり、人間の肉体は回復不能な宇宙の一部であるとの前提を置いた。この思考の枠組みの中では、痛みの感覚と経験を区別する必要はない。
肉体はまだ魂から分離されておらず、病いもまた痛みから切り離されてはいなかった。肉体の痛みを示す言葉はすべて、魂の苦しみを表すものとされた。このような歴史的な見方から、痛みに対する諦観がユダヤ教やキリスト教の影響によるものだと考えるのは大きな間違いである。紀元前2世紀の200人のユダヤ人が旧約聖書をギリシャ語に翻訳したとき、13の異なるヘブライ語の単語が一つのギリシャ語で「痛み」と訳された。ユダヤ人にとって痛みが神性な罰とみなすかどうかは別として、それは常に呪いだった。
特定の臓器が痛みによって影響を受けることは確かであるが、その臓器は非常に特殊な感情の、言葉にならないうめきとして考えられていたのである。それに引き換え、現代の医学における痛みはヘブライ語のテキストとは全く趣を異にする。新約聖書では、痛みは罪と密接に結びついていると考えられている。古典時代のギリシャ人にとって、痛みは快楽に伴うものであったが、キリスト教徒にとって痛みは(宗教的な)歓びを求道する結果であった。どのような文化や伝統であっても、現実の諦観すべてを尽くすことはできない。
ヨーロッパ文化における痛みの歴史は、こうした古典やセム語に源流を求める以上に、痛みを個人的に受容し、助けとなるイデオロギーを見つけなければならないだろう。新プラトン主義者にとっては、痛みは天界に何かしら不都合が生じた結果だと解釈された。マニ教では、痛みは邪悪な宇宙の創造神や創造主の意志による懲罰の結果であるとされた。キリスト教では、アダムの罪がもたらした、世界の始まりにおける道徳性を喪失したことにあった。しかし、これらの宗教が教義や道徳律でどれだけ対立しても、すべての宗教は痛みを宇宙悪の苦い味、自然の弱さの現れ、極悪非道な意志、そうでなければ褒めたたえるべき神の呪いとして捉えていた。このような痛みに対する考え方は、17世紀まで続いた地中海周辺国の古典期以降の文化に通底し、特徴的なものである。16世紀に錬金術の博士が言ったように、痛みとは「世界の種子の輝く醸造に加えられる苦いチンキ」である。人はそれぞれ、痛みの谷で生きることを学ぶよう命じられて生まれてきたのだ。
新プラトン派は苦味を完全性の欠如として、カタリ派は美を損なうものとして、キリスト教徒は責任を負うべき傷として解釈した。生命を充足しようとすることは、苦痛に対して多様な表現の一つを見出すことであり、人々は英雄的に立ち上がることも、緩和することをかたくなまでに否定することもできた。人びとは浄化され、懺悔し、犠牲となる機会を喜んで受け入れ、痛みを緩和しようとしながらも避けがたいものとすることもできた。
アヘン、鍼治療、催眠術は、常に言葉や、儀式、神話と結びついて、痛みに苦悩するという人間特有の行為に応用されてきた。とはいえ、思いもよらないであろうが、ヨーロッパの伝統には、痛みは苦悩するべきものではなく、緩和されるべきものでもなく、また痛みを持つ人によって解釈されるものでもなく、聖職者や政治家、医師の介入によって痛みは駆逐されてしまうものであるという信念もあることは少なくとも痛みに対する一つの態度である。
専門的、技術的に痛みを消すという考えが、すべてのヨーロッパ文明にとって異質であった理由は、3つある。第一に、痛みは人間が経験する傷ついた宇宙であり、宇宙のサブシステムの一つ(=人間)であるメカニックな機能障害ではないのである。痛みの意味は宇宙的、神話的なものであり、個人的、技術的なものではない。第二に、痛みは自然界における腐敗の兆候であり、人間自身も自然の一部であった。
一方は他方なしには拒絶できない。つまり、痛みは病気と明確に区別して考えることはできないのである。医者は痛みを和らげることはできても、(患者が)苦悩する必要性をなくすことは、患者を失うことにほかならない。第三に、痛みは魂の経験であり、この魂は身体の至る所に在る。痛みは悪を媒介としない経験であった。痛みの源は、苦悩する痛みとは別に存在することはありえないのである。
デカルトによって肉体と精神が別物であるとされたとき以来、痛みは理解し、苦悩するべき個人的な問題であるとする動きが始まった。デカルトは、幾何学、力学、あるいは時計製造といった観点から、技術者が修理できる機械として身体のイメージを作り上げたのである。身体は、魂が所有し、操作する装置となったが、両者の距離は無限と言えるほどかけ離れている。フランス人が「la chair(椅子)」、ドイツ人が「der Leib(体)」と呼ぶ生きた身体の経験(=痛み)は、魂が点検することのできるメカニズムに還元されたのである。デカルトにとって痛みは、自己防衛として身体の機械的な完全性を守るために応答している信号となった。危険に対するこれらの反応は魂に伝達され、魂はそれを痛みとして認識する。痛みは有用な学習装置になり、肉体のさらなる損傷を避ける方法を魂に教えるようになったのである。
ライプニッツは、デカルトの弟子であるレジスの「宇宙の偉大な技術者(=神、創造主)は、人間を可能な限り完璧に作ったが、人間の営為のためには痛みの感覚以上に優れた装置を発明することはできなかった」という文章に賛同して引用し、この新しい視点を要約している。この文章に対するライプニッツのコメントは示唆に富んでいる。彼はまず、原理的には、もし神が負の強化(=痛み)ではなく正の強化を用いて、人が自分を滅ぼしかねない業火から目をそらす度に喜びを与えるようにすれば、さらによかったと言う。しかし、神は奇跡を顕すことによってこの戦略を成功させることができたはずであるが、それだからこそ奇跡を顕すことはしなかったのだ、と結論している。「痛みは人が人として生きることを確たるものとする、必要かつ素晴らしい企みなのである。」デカルトによる科学的人類学の試みから2世紀のうちに、痛みは有用なものとなった。
痛みは存在の不安定さを体験するものから、何ものか特定の不調を示す指標に変わったのである。前世紀の終わりになって、痛みは自然法則に従った身体機能の調節装置となり、形而上学的な説明は不要となった。痛みは神秘として尊敬に値するものではなくなり、排除を可能とする経験的な研究に組み込まれたのである。1853年、痛みが生理的な安全装置に過ぎないと認識されるようになってから、ようやく1世紀半が経とうとする頃、ある薬物が開発された。それはウィスコンシン州ラクロスで販売されたもので「鎮痛剤Pain killer」のラベルを貼られていた。
世の中に不満が渦巻くのは、悲惨だからでも、罪深いからでも、悟りがないからでも、蛮族に脅かされているからでもなく、苦悩と痛みに満ちていたからだという新しい感性が発達してきた。文明の進歩は、苦悩の総量を減らすことと同義になった。それ以来、政治は幸福を最大化するのではなく、苦痛を最小化するものであると考えられるようになった。その結果、痛みは絶望する人々が言いなりにならざるを得ない、降ってわくものであると考える傾向が生まれたのである。というのは医療機関の道具(=医療技術)が、痛みに際悩まされる人々が望むようには使われてはいないからである。
こうした状況から今や、懸命に生きること諦めてでも、痛みと向き合うよりも痛みから逃れることが合理的に思えるようになった。自立性を失う代償を払っても、痛みをなくすことの方が理に適うように思われる。それが、たとえ患者をペットに変えることになろうとも、痛みがもたらすいろいろな非技術的な問題を遠ざけることは、賢明なことのように思われる。痛みに対する感性が鈍るにつれて、人生の素朴な喜びや楽しみを味わう能力もまた低下している。
感性が麻痺した社会に生きる人々に、生きているという感覚を与えるには、より強い刺激が必要となる。薬物、暴力、恐怖は、次第に強力な刺激となっていき、自己の体験を発露させることができる。麻痺が社会に広がれば、騒音、スピード、暴力による興奮への欲求は、それがいかに自滅的なものであっても、ますます増大していくのである。
医学化された社会の特徴である、身体を通じた経験の閾値が上がっていくことにより、現在では、苦悩するという力が健康への潜在的な徴を持つことを認めることが極めて困難になっている。苦悩とは責任ある営為であることを思い起こすと、快楽と産業生産物への依存が重なり合う消費者にはほとんど耐え難いことである。避けがたい苦痛に(敢えて)向き直ろうとすることを「マゾヒズム」と見なすことで、一般の消費者は受け身の人生を正当化しているのだ。なおかつ、そのような人々は苦悩の受容を一種のマゾヒズムとして拒絶する一方で、より強い刺激感覚に現実感を求める傾向がある。
ビジネスエリートの多忙な生活、小賢しい競争の果ての自己嫌悪、映画やテレビの中の暴力やサディズムに過度に曝されるなど、診断のつかない痛みや解消できない不安に耐えることで、人々は己の人生の意味や、他人に対する優越性を求めようとするのである。このような社会では、"苦悩の技術 "の新しいスタイルが提唱されるものの、それは必然的に痛みへの病的な欲求として、誤った解釈がなされるのである。つまりそれは、反啓蒙主義、ロマンチシズム、疼痛を動機の源泉とする主義、はたまたサディズムである。究極には、痛みを操作しようとすることは、苦悩に代わる新しい種類のぞっとする嫌悪感、すなわち人工的な無感覚の体験となるのかもしれない。
リフトンは、広島の爆心地の近くにいた人々を対象に、大量死が被爆者に与えるインパクトについて述べている。彼は、負傷者や死者の間を行き来する人々は、まったく感じることを止め、無感覚の状態に陥り、感情的反応がないことを見出してしている。その後に、この行き所のない感情はうつ状態と結びついて、原爆投下から20年経った今でも、爆発の瞬間の痛みを経験せずに生き残ったというはっきりとした罪悪感や、恥辱となっていると彼は信じている。被爆者たちは、爆死から生きのびたという果てしない相克の中で生きており、一人ひとりの命を支える源への信頼が大きく崩壊していることに苦しんでいるのである。被爆者にとって、この出来事は爆死した周囲の人々と同じように、怪物的なものとして、立ち向かうことも苦悩することもできない、あまりにも陰鬱で、圧倒的な痛みであり、無感覚に陥ったまま生き延びるという経験をしたのである。原爆が広島にもたらしたものは、痛みが医学に「収奪」された社会に蓄積した影響を理解する指針になるかもしれない。痛みが鈍化するとき、痛みは形容する言葉を失い、意味のない、問うべきこともない残滓だけが残るという恐怖が生まれるのである。
伝統的文化が耐え忍ぶことを育んできた苦悩は、時に耐え難い苦悶や呪い、狂気に満ちた冒涜を生み出したが、それはまた自己を抑制するものであった。尊厳に満ちた苦悩に代わる新しい体験は、人為的に引き延ばされ、光明の見えない、非人格的な営為である。苦痛を失うことで、人々はますます己が朽ちていく自分に対して無感動な傍観者になっていくのだ。