Limits to Medicine Medical Nemesis :The Expropriation of Health 脱病院化社会を読み直す(9)
7.政治的対策
15年前なら、医療そのものが健康を害することがあるという主張に耳を傾けてもらうことはありえなかっただろう。1960年代初頭、イギリスの国民保健サービス(NHS)は、特に米国の改革派の間で、まだ世界的な評判を得ていた。アルバート・ベヴァリッジによって創設されたこの医療サービスは、どの人口集団にも厳密に測定できる(疾病の)罹患率があり、それは公平な条件のもとで治療されれば、やがて減少するという仮定に基づいていた。
したがってベヴァリッジは、治療によって病気の発生率が減少すれば、保健サービスの年間コストは減少するだろうと算段していた。保健プランナーや福祉経済学者たちは、保健サービスによる健康の再定義によって医療の範囲が拡大し、医療な無制限な拡大を止めるには予算の制限措置だけになるとは思ってもみなかった。
地域社会におけるスクリーニングで、わずか1000人当たり67人だけが健康で、50%は医師に診察を受けるべき状況とされ、別の研究ではスクリーニングされた6人に1人が9つの重篤な病気の一つにかかっているとされるとは予見もされていなかった。また、保健政策の立案者たちは、人々が自己ケアの能力を損なうのと同じくして、日常の生活力が急速に低下し、無料の医療サービスを受診する人の4分の1が、治療することもないただの風邪で受診するようになるとは、予想すらしていなかった。
1943年から1951年にかけての調査では、対象者の75%が前月に病気にかかったことがあると答えた。1972年になると、ある調査では調査対象者の95%が質問前の14日間に体調が悪かったと回答した。別の調査では5%が何らの症状もなかったと回答したが、9%が直前の2週間に6つ以上の異なる何らかの症状に悩まされていたと回答した。これらの病気は、医療が限定的にしか有効でなかった状況下で風土病的に変化するものであったが、保健政策の立案者たちはこれらの新たな病気への備えをほとんどしていなかった。
(また)彼らは、通常、がんの根拠のない、あるいは効果のない手術を受けた患者が苦しむ末期の疼痛緩和に、特別な病院が必要となることや、医療が原因で病気になった人々のための病床が必要となることも予見しなかった。
60年代はまた、第三世界へ楽観主義を輸出する多国籍組織の隆盛が生じた時代であった。平和部隊、進歩のための同盟、中央アフリカへのイスラエルの援助、そして帝国医療に駆り立てられた手に負えない侵食の形態となって現れた。工業化されていない熱帯地域の風土病も、西洋の薬で治せるという信念は、当時最高潮に達していた。国際協力が蚊、微生物、寄生虫との戦いに勝利し、熱帯病に終止符を打つ解決に向けて踏み出すものとして喧伝された。経済と技術の発展が、眠り病、ビルハルジア症、さらにはマラリアの蔓延と悪化に果たすと期待された役割に疑問が向けられることはなかった。世界的な飢餓や新たな疫病の出現を予見した人々は、世界破滅の予言者かロマンチストのように扱われた。緑の革命はまだ、健康で公平な世界の幕開けの段階だと考えられていた。
10年以内に、2つのタイプの栄養不良が現代人にとって、最も重要な脅威となるとは信じられなかっただろう。また、貧困層におけるカロリー摂取過多が新しい形の栄養不良となり、栄養摂取過多が富裕層に流行する疾病の大きな原因となることも予見されていなかった。
米国では、官僚機構と競い合うことで新しいフロンティアが損なわれるということはまだ生じていなかった。健康向上への関心は、既知の病気を治してくれる医療施設へ公平に受診できるかどうかに向けられていた。医原性の問題は依然として誇大妄想の問題であった。
しかし、1975年までには、その多くに変化が生じた。一世代前、幼稚園の子どもたちは医者を、白衣をまとった父親のような存在として描いていた。しかし今日、子どもたちは躊躇なく医者を火星から来た男やフランケンシュタインと同じように描くようになった。医療カルテや医師の納税申告書をもとに(脱税などの)醜聞が横行し、患者の間に新たな警戒ムードが広がったことで、医療・製薬企業は広報にかける費用を3倍に増やした。ラルフ・ネーダーは、健康食品の消費者にお金と品質に対する意識を植え付けた。エコロジー運動は、健康は食品や労働条件、住宅などの環境によって左右されるという意識を生み出し、アメリカ人は、農薬、添加物、マイコトキシンや、環境悪化がもたらすいろいろな健康リスクに脅かされているという考えを受け入れるようになった。
女性解放(運動)は、自分の身体をコントロールすることが健康管理の鍵となることを浮き彫りにした。いくつかのスラムの共同体では、基本的な健康管理の責任を持ち、部外者への依存から共同成員を解放しようと試みた。身体をどう考えるか、言葉、概念、保健サービスへの利用、乳幼児死亡率、実際の、特に慢性病の罹患率など、階層に特有の性質に関して広範な記録が作られ、医師という階級に特有の起源と偏見も理解され始めてきた。
一方、世界保健機関(WHO)は、その創設に関わった多くの人が知れば衝撃を受けたであろう結論に向いている。WHOは最近発表した文書の中で、プライマリ・ケアを専門家の手から解放することが、国民の健康レベルを引き上げるための最も重要な一歩として提唱している。
医者自身が、己のやることに疑問を持ち始めている。ニューイングランドの医師たちに、自分の患者が他の医師から受けた治療をどのように見ているかを聞いたところ、ほとんどの医師が不満を持っていた。相互評価の方法にもよるが、患者自身が適切なケアを受けたと信じていたのは1.4%から63%の範囲であった。患者は医師から、以前の薬物治療でダメージを被っており、現在の治療はそれら好ましくない結果によって必要になっているのだ、と言われることが次第に増えている。それらの治療は救命措置のものもあるが、はるかに多い治療は痩身、軽度の高血圧症、インフルエンザ、あるいは蚊に刺された、などであり、あるいは医師の問診時にお互いが満足する結論に達するようなものでしかなかった。
1973年、退職する米国保健教育福祉省のある高官は、彼の省庁を通じて提供された全資金の80%は、健康に対して見るべき恩恵をもたらさず、残りの多くは医原病のダメージから回復させるために費やされたと言わんばかりであった。彼の後任者は、国民の信頼を維持したいのであれば、これらのことを何とかしなければならないだろう。患者たちは耳を傾け始め、改革を求める運動や組織も増え始め、組織自体が改革を要求し始めている。その矛先は、5つの主な批判に分類され、5つの改革目標に集約される:
(1) 治療薬とサービス活動は、利己的になっている。従って、消費者はロビー活動によって、また病院経営に対する消費者の監視によって、医師に医療の改善を迫るべきである。
(2) 治療の提供やサービスの利用が不平等で恣意的に左右される。患者の経済力や社会的地位、あるいは社会的・医学的偏見によって左右され、例えば、栄養失調への配慮よりも心臓病への配慮が優先される。医療の国営化をするならば、医療機関における見えざる歪を正さなければならない。
(3) 医療の職能団体は非効率性と特権を永続させ、専門医という職業免許は病気に対して、専門的ではあるが一層の狭い見方を助長する。患者の人数割にした分担金と医師免許制度を組み合わせることで、医師の統制と患者の利益を両立させるべきである。
(4)一つの医学に振り回されることで、社会は競合する医学がもたらす恩恵を失う。アルファ波、エンカウンターグループ、カイロプラクティックへの公的支援を強化することで、メスを使わず、患者の利益を補うことができる。メスや毒物に対抗し、補完するものとなるべきである。
(5) 現在の医学の主流は、病気の時であろうが健康の時であろうが個人に向けられている。公衆と環境の工学のために資源の多くを割けば、医療支出を十分活用することになる。
これらの改善政策案は、医療の過剰によって生み出される社会的コストをある程度抑制することができる。これらの政策を一つにまとめれば、消費者は支出に対してより多くのものを得る力を持つだろう。福祉を担当する官僚たちは不公平さを軽減する権力を持っている。すなわち許認可や資金調達の方法を変えることで、にせ医者からだけでなく、場合によっては専門家による濫用からも国民を守ることができよう。人体の各部の治療から産業的リスクの低減にお金が振り替えられれば、1ドルあたりより多くの「健康」が買えることになる。
しかし、これらの政策はすべて、慎重に評価・査定しない限り、医療の外部性を減少させる代償として、医療の本来目的とは矛盾する健康への悪しき影響を一層増大させるだろう。全ては医療化を一段と推し進める方向に向かう可能性を持つ。一貫していることは、医療サービスの改善を、セルフケアの機会、能力、自信を向上させ、平等にする要素の上位に置こうとすることである。それらは生きること、癒すこと、という市民の権利を否定し、専門家によるケアこそが社会的に信用のおけるものであるという、人目を引く約束で置き換えるのである。
続く以下の5つのセクションで、私はこれらの可能な対策のいくつかを取り上げ、それらの相対的な利点を検討する。