姫路空襲の語り部(2)
木村
今日は黒田さんが何百回も続づけてこられた、戦争のかたりべ(の活動)についてお話をお聞きしたいと思います。すでに金沢大学日本史学研究室が黒田さんに聞き取り調査をされた冊子が手元にありますので、これも参考としながら、戦争体験を語っていくことは黒田さんにとってどういうことなのか、そのあたりをお話しいただきたいと思います。黒田さんは過去30年に亘り、計320回ほども語り部をされてきた(2022年10月時点)。
黒田
金沢大学の聞き取り調査の時にもお話ししましたが(以下聞き取り調査)、35年間英語の教員をやっていて、その間に自分から戦争体験を話したことはなく、生徒に聞かれたときにだけ話をするにとどめていました。それは家も街も焼かれたという嫌な体験だったからです。ところが空爆の遺族会の会長をしていた私の恩師から、「黒田、お前も遺族だろう、遺族会に入ってくれんか?」と言われました。そういわれれば「いや」とは言えなかったんですよ。
遺族会に入りましたら、役員の一人に推されました。(姫路の)遺族会は年に一度慰霊祭を行っていました。また、年に一回、全国の慰霊式が姫路市の手柄山で開催されます。(毎年10月26日)全国の政令都市連盟の会長でもあった遺族会の会長が建てたものです。その後、その会長がガンで死にそうだというときに見舞に行きましたら、遺族会と慰霊祭を続けてくれと言われました。遺言ですね。遺族会の会長が亡くなられた後、役員会で私が会長に選ばれました。役員の経験は新しい方でしたが、私が会長の教え子であったということが大きかったと思います。
遺族会の会長として何をすればいいんだろう、と思っていたところ、兵庫県庁の福祉担当部署から、「空爆体験を語ってはどうでしょうか?」というお話が届きました。それは私の思案に対する一つの道でしたね。役員会で相談したら、二人、三人と手を挙げる人が出てきて、一緒に空襲のあった地域の小中学校に押し掛ける形で出かけて行きました。一人20分ぐらい話しました。そうしたしたら、子供たちの反応が大変良かったですね。一所懸命に話を聴いてくれて、質問もたくさんする。特に小学生は素直に反応しますから。話の後で一人ひとりの感想文がまとめて送られてきて、それには感動しました。これに励まされたというか、語り部は続けないといかんな、と思いました。その後、役員数人で続けるうちに、播磨地区全域の学校から申し込みが来るようになりました。頼まれれば絶対にNOとは言わず、YESという方針で続けているうちにだんだん回数が増えてきました。先週も機会があって310回までになりました(20、22年9月2日現在)。
木村
私は今年75歳になります。この歳になるとなにか自分が生きてきた証というかそんなものを遺したいという漠然とした気持ちになりますが、黒田さんも同じようなお気持ちですか?
黒田
それは意識しなかったですね。何より子供たちの反応が良かった、ということです。
木村
何百回も語り部を続けてこられて、今でも当初のような反応が返ってきていますか?
黒田
小学校、中学校、一般社会人ではそれぞれ反応が違います。310回の内、半分ぐらいは小学校です。小学6年生が対象ですが、規模の小さい小学校では5年生も参加します。子どもたちは自分たちが全く知らない話を聴くので、好奇心から一所懸命に耳を傾けてくれて、実体験を聞き、その感動を文章にしてくれます。文章を書くときに、先生の指導もあるのかもしれませんが、文章の共通点としては絶対に二度と戦争はやってはいけない、という結びになります。
木村
戦争の語り部を続けるということ自体、語る側として大変難しいと思いますが、戦争が風化してきている時代にあって、行政(また学校として)としてそういう機会というか、チャンスを作る、ということについてどう考えられますか?
黒田
これは大きく分けて、なるべくそういうこと(戦争とか空襲体験など)は子供たちに知らせない方がよい、という考えの人(学校)と、絶対教えるべきだという人の二通りに分かれます。私を呼ぼうとしない校長がおれば、他方で私を毎年呼んでくれる校長がいます。校長の考え方に大きく拠っていますが、校長が替わっても、私を呼んでくれる学校はやっぱりその後も呼んでくれます。学校行事に組み込まれているのでしょう。平和学習としてですね。
学校全体から見ると、今では私を呼ばない学校が6、7割でしょうか。しかし一回呼んでくれると2回、3回と続く傾向があるので、申し渡しということがあるのでしょう。
一回に集まる生徒さんは100人とか200人です。学校によって1時間(45分)与えられ、その中で話しますから、あまり細かいことは言えません。学校によっては2時間(90分間)くれるところもあります。
木村
いま平和学習という言葉が出ましたが、黒田さんを呼ばない学校というのはどういう形で平和学習をしているのでしょうか?私は薬の開発とか安安全性をずっとやってきて、薬害に対する関心が深いのですが、薬害肝炎事件をきっかけとして厚生労働省や文部科学省が薬害教育を推進し始めました。それも小学校から医学薬学の高等教育においてもです。薬害被害者を授業に呼ぶという所が増えています。薬害事件は戦争とは違いますが、人生が変わるほどの被害が生じたという意味では共通点があるように思います。薬害被害者の声を聴きたい、という声が増えています。
黒田
社会の教科書の(戦争についての)記述は2,3ページぐらいです。だからそんなに詳しくは記述しない方針ではないでしょうか?文科省は詳しく記述しない方針ではないでしょうか?
木村
今日本の社会とか歴史の教科は、縄文時代などから始まって近代に入る手前で時間切れになることが問題視されています。近代・現代社会の問題を理解するためには、現代から過去に遡って行く視点が必要なのに、その手前で学習が打ち切られるというのは問題でしょうね。
黒田
日本の高校での歴史授業というのはどちらかというと、近代以降の戦争を避けてきたことになるのでないでしょうか?あるいは授業が時間切れということもあるのでしょうが。教科書は検定がありますから、先生方の考えというより、文科省の方針ではないでしょうか。あと出版社は教科書を採用してほしいですから、結局は文科省の意向に沿う形になるでしょう。
木村
そういう風潮を非難するのがよいか、批判的に考えるのがよいか分かりませんが、現代の日本を語るうえで近代以降の歴史(特に戦争)学習を抜きにすることはできないと思いますね。
黒田
授業における時間の制約はあるにしても、検定教科書に書いてある戦争の記述は上っ面だけですよ。(学校における)歴史教育が明治までで終わってしまっている。
木村
原爆のことでも、被害者数がどれだけだったなど、数字や事実ベースで表現されることが中心ですね。
黒田
そうです、上っ面だけです。
木村
姫路の空襲を語るというのは、黒田さんの実体験がその基礎にあるわけですが、別の視点では、姫路が軍都として大きくなったこと、もう一段大きく見れば、日本が太平洋戦争を始めたこと、さらに言えば欧米に侵略されつつあったアジアの中での生存という枠組みにはまり込みます。歴史というのは、個人が歴史の総体を全て経験することは不可能ですから、語り部として個人の具体的体験を語ることとの乖離に、あるいは葛藤のようなものを感じられることはありませんか?
黒田
なぜ姫路が二回も空襲を受けたか、ということを聞かれることはありますが、何千人という部隊が常駐していました。それだから空襲されたとは直ちに断定できないですね。米軍の戦略は、まず東京大阪などの大都市を空爆して、それが一段落したら中都市を空爆したということですね。大都市を最初の標的にしたのは、いっぺんに大量破壊ができるということです。姫路が空襲を最初に受けたのは終戦の年の6月でした。大都市の空襲が終わって、中都市に向かったのでしょう。ですから明石がやられたときに、次は姫路だ、という噂が流れました。実際そうなったのですが、それは米軍の計画通りにことが進んだのであって、軍都だから、ということではなかったのではないでしょうか。
その空襲でも姫路城は空爆を受けずに無事であったことについて理由を尋ねられることもあったのですが、日本の文化財は残すという米軍の方針があったという説もあります。しかし姫路城があったから姫路市が空爆を受けたということも、文化財だから空爆に際して姫路城を狙わなかったということも違うと思います。戦後、米軍の姫路を空爆したパイロットをお城に案内して、話をする機会がありましたが、隊長はお城のことは知らなかったと言っていました。テニアンから出撃するときに配られた地図には、姫路城があるところは爆撃目標地区に入っていなかったということです(爆撃エリアからわずかに外れていた)。空爆は夜でしたので、お城のようなものは全然見えてなかった。パイロットは姫路城のお城のお堀の水は光って見えたらしく、それは単なる水路であるとして爆撃しなかったということです。突き詰めれば米軍あるいはアメリカ政府の方針は分かりませんが、その時の空爆命令には含まれていなかったというのが戦闘現場での実情だったと言えるでしょう。言ってみればお城が空襲を受けなかったのは、偶然であり、神の意思だったと言えるかもしれません。
木村
話は変わりますが、金沢大学の聞き取り調査がこのような一冊の冊子(本)になって一番良かったことはなんでしょうか?
黒田
私の体験談を聞いた人は記憶に残るでしょうが、他のクラスの子供や先生方は聞いていません。また6年生の時だけがある程度記憶することで終わってしまい、それだといつの間にか埋没してしまいます。この冊子の形ができたので、一人でも多くの人に読んでもらえて、戦争のことを再認識してもらえるのがうれしいですね。
木村
金沢大学日本史学教室の先生と電話でお話して、私のホームページにこの調査記録の冊子の掲載許可についてお願いしたとき、先生は姫路市立図書館と兵庫県立図書館に寄贈されたと聞きました。日本では国会図書館に納本する決まりがあるので、国会図書館に納本されてはいかがですか?
黒田
国会図書館の納本制度のことは知りませんでした。国民の義務なのですね。
木村
話を全国空襲被害者遺族会に戻してもう少し詳しくお話しお願いします。
黒田
戦後満州から引き揚げた石見(いわみ)さんが、戦後初の選挙で当選した姫路市市長でした。満州では土建業をやっていたそうですが、先見の明があって、空爆で破壊された姫路市を作り直すのに、姫路駅から姫路城まで間の道路を70m幅にしようとしました。名古屋や大阪の例に倣ったのでしょうが、名古屋より早く着手したようです。実際にはさすがに大きすぎるとの市議会の反対で50m幅になったのです。今では50mでも狭いと思えるぐらいですが。
木村
戦争の破壊は無残なものですが、国土の再建を一からやり直す機会でもありますね。
黒田
姫路城は本来、内堀、中堀、外堀と三重に囲まれていました。外堀は姫路駅の南側にありました。その一部は今も堀として飾磨(区)に残っています。池田輝政が替わった時に中止になりました。姫路駅からお城に向かって大通りを歩くと、途中で石垣があります(中の門)。そこが中堀のところです。私が戦後行っていたキリスト教会がそこらあたりにありました。
木村
遺族会ということから話は靖国神社のことに飛びますが、靖国神社参拝に賛成する人、反対する人それぞれいます。お国のために志願、徴兵された息子、夫、家族の戦死を無駄死、犬死とは決して思いたくない人達がいます。他方でA級戦犯が祭られたことで昭和天皇は参拝することを止められてしまったことはよく知られていると思います。そういう政治的な思惑とか対立というのは、全国空襲戦災都市遺族会の中ではなかったのでしょうか?
黒田
日本各地の空襲遺族会は毎年8月15日に、遺族会がある都市から10名ずつぐらいの代表を県庁の人が引率して靖国神社に参拝し、そのまま続いて武道館での戦没者慰霊式に参列していました。両方の式典参列は一つ流れでしたので、靖国神社に参ることには何の抵抗もなかったですね。私の兄は中国戦線で戦死しましたが、靖国神社に兄の霊が祭られているという感じは持っていません。いま全国の遺族会のほとんどは解散しています。それは政府からの補助金が打ち切られたからです。遺族会のメンバーは高齢でお金も自由ではありませんから、解散は止むを得ない流れでした。姫路の遺族会も12、3年前に解散しました。しかし毎年の全国慰霊式は続いています。
全国で空襲を受けた都市は200から210ぐらいだったでしょう。そのうち遺族会があったのは100ぐらいだったでしょう。それらの全国組織の長が、満州から引き揚げてきて姫路市長になった石見さんです。それで姫路市(手柄山)に60年前に全国慰霊塔が建設されることになりました。今年も10月26日に全国を代表として慰霊祭が開催されます。遺族会が解散した都市からはもう参加しません。しかし私は元姫路市の遺族会の会長として呼ばれるのです。代表として献花します。静岡などはまだ遺族会が存続しています。
空爆は日本の沿岸部のところはほとんどやられています。北海道など北の方は少なく、釜石は製鉄所がありましたからやられています。日本海側はあまりやられていません。どこの都市が空爆を受けて、何人死んだかという地図が毎年配られます。もちろん東京、広島などはダントツです。
木村
聞き取り調査の中で、昭和天皇の心情についてお話しされている部分がありますね。先ほど靖国神社のことをお聞きしたことを踏まえてもう一度お話を伺えますか?
黒田
私が靖国神社に参っていたのは、県の代表として集団行動として参っていたので、抵抗は感じなかったです。昭和天皇が靖国神社に参らなかったのは、元々戦争に反対であったからです。軍部が強すぎて、戦争はやめる、というようなことを言えなかった。立憲君主であり、当時は軍事政権でしたから、政府が決めたことに対して反対は出来なかった。昭和天皇の立場は弱かったと思います。天皇は非常に苦しまれたと思います。京大では滝川事件などが起こりました。東大では美濃部達吉の天皇機関説事件もありました。軍事政権というか、軍国主義の時代で、天皇はモノが言えなかったのではないでしょうか。
木村
黒田さんが昭和天皇に対するそういう思いを持たれたのはいつ頃ですか?
黒田
戦後、私の通っていた高等学校の社会科の先生で、非常に進歩的な方がおられました。、戦後の社会科の先生として非常に生徒に人気があり、授業では拍手などもありました。魅力的な先生でした。その先生にいろいろと教えてもらいました。戦争中とは正反対のことを教えてくれるのです。自由とか人権とか、それまで知らないことです。新憲法のこともよく話をされていました。その先生の話も、また新憲法に諸手を上げて賛成したことも影響したと思います。
木村
終戦というか玉音放送を境に、世の中の価値観ががらっと変わってしまったことについてどう思われましたか?
黒田
私は近所の大きな家でラジオを聴き、どうやら戦争に負けたらしい、ということを大人たちが言うのを聴いてほっとしました。やれやれ、と心から思いました。もっと早く終わったらよかったのに、とも思いました。町が焼かれ、家族が死ぬ前に終れば、良かったのにと思いました。
木村
戦争に負けて涙する人と、ほっとしてうれしく思う人との差は戦争をどの年齢で経験したかにもよるのでしょうか。
黒田
学校の先生方の言うことは、戦中と戦後では全然違いましたが、軍国主義から民主主義に変わったのだからその通りだと思いました。僕は新憲法になってよかったと。軍国主義から民主主義に変わったのだから、その変化は当然だと思いましたね。本当に良かったと思いますね。
木村
現代では何人かの政治家のなかには、今の新憲法はアメリカに押し付けられたものということを盛んに主張する人もいます。これについてはどう思われますか?
黒田
確かに憲法草案が部分的に、字句が修正されたということはあったとしても、人権尊重、平和主義、民主主義という根本精神、筋金が入っています。日本人がそれまで知らなかった人権とか民主主義をアメリカから教えられて、それを日本人が納得して受け入れたということでしょう。押し付けられたのではなく、日本にはそういった精神がなかったところに、アメリカから教えてもらったということでしょう。
木村
知らなかったことを教えてもらって、納得して受け入れたということですね。
語り部はどこにもおられますが、実体験をされた方の寿命もあります。後継者については何かお考えですか?沖縄戦跡でも広島原爆でも語り部は体験者でない人が継がなければならない時期になっています。そういう人たちは体験をしていないのに語り継ぐことに対してある種の引け目をお持ちのようです。
黒田
姫路空襲については、私の後継として語り部になりたいという二人の方がおられました。一人は高等学校、もう一人は中学校の教員です。60歳中頃ぐらいの年齢です。お二人とも私の話を8回から10回ぐらい聞かれています。残念なことに男性の方は最近ガンでお亡くなりになりましたが、もう一人女性の方は、今広島での語り部の研修を受けられています。空襲や原爆を体験してはいませんが、8月6日の記念日には何回も慰霊に行っています。この方は姫路にお住まいの方ですが、広島原爆と姫路空襲の両方の語り部を目指されています。私はその方に期待をかけています。長崎の方は後継者がいなくなって困っていると聞いていました。
姫路市の全中学校の修学旅行は長崎の原爆学習(被爆体験者の話)でしたが、語る人がいなくなりました。それで広島原爆を学習しようと、修学旅行先を長崎から広島に振替えています。以前は貸し切りの普通列車でしたが、今年から新幹線を借り切って広島まで行かせるようです。人数が多いので何回かに分けて聴きに行くと、中学校の校長先生から聞きました。
木村
よく姫路市の行政がそこまで支援することに感心します。トルストイだったか、幸福な家庭はどこもよく似ている、ということを行っています。戦争というのはどれも生じた理由や状況は違うでしょうが、人が無慈悲、無残にそれも大量に死ぬという意味ではどの戦争も共通していますね。
黒田
広島の語り部であろうと姫路の語り部であろうと、戦争の悲惨さを伝える資格は誰にでもあると思います。たとえ戦争を体験していなくても、です。僕の言いたいことは、戦争は大量殺人、すべての人を不幸にしてしまう人類最大の犯罪です。だから語り部は使命のようなものです。
木村
視点が少し変わるかもしれませんが、日本にとっての太平洋戦争はアジア諸国から見れば侵略の延長線にあった。いま起きているウクライナの侵略はロシアの言う歴史的正当性のことはさておき、ロシアが侵略した形ですね。そうなると戦争の引き金を引いた立場として、日本は戦争を二度としないということは言えても、侵略された場合の自衛の戦争はどうなるのか?ということについての整理は出来ていないような気がします。
黒田
今の話に関連しますが、今の政府や自民党は防衛力を倍増させるというようなことを言い出しています。攻めてこられた時に対応できるようにということです。自衛のための戦力、防衛の問題に議論がすぐに移ってしまっています。ロシアは確かにウクライナに一方的に攻め込んだのですが、今直ちに中国や北朝鮮が攻め込んでくるということは考えにくいです。
木村
日本が戦争を回避するために、どういう努力を優先しないといけないのか、という議論が抜け落ちているように思います。
黒田
防衛省は、防衛力だけでなく敵地攻撃力もつけなければならない、と言い出しています。防衛だけならまだしも、敵地攻撃力は戦争に繋がります。それは中立主義、平和主義というか、とことん話し合いで解決できないものか、と思います。戦争回避は防衛予算だけではないと思います。防衛力増強と言ってもそれはきりがないでしょう。日本は専守防衛ですね!
木村
ウクライナの抗戦はウクライナ国民の意識が決定的な力になっていると思います。日本の先の大戦では、政府や軍部が戦争を指導し、国民全体がその気になってしまったという形です。
黒田
国民がその気にならされた、ということです。
木村
そういう意味で、話はまた変わりますが、教育の力というのは怖いですか?
黒田
軍国教育というのは徹底していました。誰でも軍隊に行くのは当然だと思わされました。私自身が、将来は将校になりたい、早く戦争に行きたいと思う軍国少年に育てられました。例えば予科練の募集に、募集定員の9倍も10倍もの応募があった時代です。軍部からすれば、軍人候補は選り取り見取りでした。それで特攻隊で6000人もの命が失われました。
私の語り部としての結論は、理想論と言われても中立平和主義です。話し合いを解決の方法と考えます。現実の問題にどう対応して回避するかがベストなのですが、議論がすぐに防衛力の増強の方向に向かいます。人が話を聴いて納得していただくのが、語り部の理想ですが、現実と理想の折り合いをどうつけるのかが問題です。
自分の経験に基づいて戦争の実態を知ってほしい。平和憲法を大事にして二度と戦争をしない平和大国になってほしいと思います。次の戦争は核戦争でしょうから。戦争の無残な実態を知ってもらい、二度と戦争しない平和大国になってほしい、という思いです。
先日、山崎や新宮、たつの地区の20代の若い先生方40名が、姫路市立平和資料館(手柄山)の会議場に集まって、私の話を聴いてくれました。また、別の時には中年の女性団体が40名ぐらいが話を聴いてくれました。毎年10回ぐらいは私の話を聴いてくれて、今や、語り部は生きがいですね。私を呼んでくれる主催者は、業者に依頼してキチンとしたCDに残してくれています。
最初語り部を引き受けたときは、義務感で。それから使命感で。今は生きがいとして語り部をやっています。あちこちで語り部をしますと、主催者が業者に依頼して、話の内容を記録したものを頂いています。話の内容は与えられた時間によって取捨選択していますが、どうしても言いたい部分は空襲の実態として、町と家と家族が焼かれてしまったということですね。子どもたちが書いてくるのは、授業として書かされたような数行のものから、一所懸命にいっぱい書いてくる子もいますが、やっぱり戦争は二度としたらいかんという結論になっていますね。そういう感想文が来れば全部目を通します。150枚も来れば数日はかかります。一人ひとりには書きませんが、出てきた質問について主催者に返事を出しています。
木村
語り部は個人の体験した事実に基づいて、信念として戦争のむごさと戦争否定を語る。当然それは理念、理想にしか過ぎないという批判に曝される。しかし人は理念、理想を持たずしては現実に流されるだけであろう。日清、日露戦争の歴史的勝利で国民は戦争の悲惨さを学ぶことは出来なかった。二つの戦争では国土が焦土となり、一般国民が犠牲になることがなかったからである。戦争指導者は悲惨さから学ぼうとするどころか、太平洋戦争においては国民を欺き続けていた。空襲のむごさが現実のものとして広がり始めたとき、国はすでに後戻りできないところに来ていたのである。学校授業の歴史で教えなかった戦争のむごさと、一人一人が理想、理念を持つことの意義を語り部は説くのである。