姫路空襲の語り部(1)

昭和の戦争と姫路空襲[1] 

語り部 黒田権大

 

 私が生まれたのは1929年(昭和4年[2] )で、世界も日本も大不景気で、都会は倒産が多く、失業者があふれており、大学を出ても4人に一人しか就職できなかったそうです。農村はずっと貧しかったが台風や水害が続いて益々貧困でした。それで日本の政府と軍部は、領土と資源を手に入れるために1931年(昭和6年)、武力で満州[3] を占領支配しました。1933年(昭和8年)、日本は国際連盟[4] から脱退し、軍国国家になりました。そして1937年(昭和12年)、中国本土に攻め込み、日中戦争[5] を始めました。日本軍が中国の首都南京を占領したとき、神戸など都会では花電車[6] を走らせ、夜はちょうちん行列をして喜びました。私が小学校4年生になると、担任の先生から「お前たちは大きくなったら天皇陛下と国家のために喜んでいのちを捧げる強い兵隊になれヨ!」と言われました。

  小学校5、6年生の時は日露戦争の英雄にあこがれて、中学校を出たら、陸軍士官学[7] 校へ行きたいと思っておりました。小学生が読むのはヒーロー物語と戦争マンガでした。近所の兄ちゃんが軍隊に入るときには日の丸の小旗を振り、女性は千人針の腹巻を作りました。近所の青年は1年半後中国で戦死して遺骨になって帰ったので、村中で大きな葬式をして、名誉の戦死をほめたたえましたが、私は淋しく、悲しく思いました。

  日本が中国と戦争[8] をやめないので米国は(日本を)経済封鎖[9] しました。1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾[10] パールハーバーのアメリカ艦隊を攻撃して太平洋戦争を始めました。その日、陸軍はマレー半島[11] に上陸しました。

 

 私は1942年(昭和17年)に中学校に入学し、軍隊教育を受けました。週3回、プロの将校[12] からほふく前進[13] 、銃剣術、手旗信号、銃の使い方と軍人の心得を教え込まれました。校内では教師による体罰や上級生によるいじめもありました。中学2年の時に兄が20歳で軍隊に入り、そのまま中国大陸へ出陣したことは私の最大の悲しみでした。もう二度と会うことはないのではないか?と思って涙が止まりませんでした。兄は2年後、紙一枚になって届けられました。父と母は立ち上がれず、私は涙が溢れました。我が家の隣近所でも一人息子や二人兄弟の戦死者がありました。

 1943年(昭和18年)12月には20歳以上の文科系の学生に出陣命令[14] が出て、全国から十数万人の学生が陸海軍に入隊しました。戦死した学生兵は約5万人と推定されます。1944年(昭和19年)4月、政府の命令で全国の中学校と女学校の3年生以上は武器工場へ勤労奉仕[15] に行き始めました。私たち3年生は飾磨の工場で働き、私は飛行機の歯車に入れるボールベアリングを作りました。20代、30代の工員には赤紙が来て、次々と軍隊に入り、工場には強制的に集められた徴用工と学生が目立ちました。

 私たち3年生200人は、昼食時には大食堂に集まり、先生方の励ましの言葉の後、軍歌を斉唱しました。先生方は先輩を見習って海軍航空隊か陸軍戦車隊に志願するよう、ハッパをかけられました。個人的に呼ばれて説得されたヤンチャやゴン太もあったと聞きました。同期では約20人が海軍飛行予科に入隊しましたが、その頃には国内の航空隊にはボロな飛行機ばかりで、ガソリンもなく、飛行訓練はなく、陸上の訓練と防空壕[16] を掘る作業が多かったとのことでした。

 国内では農家の働き手が軍隊に入り、農作物の収穫が減り、農産物の半分以上は軍隊に出すため、食糧不足となり戦争が始まって4年目から都会では配給切符制度[17] になりました。コメは大人一日2合、子供は1合でしたがコメよりもムギなどが多くなり、分量もだんだん少なくなりました。また、武器を作る鉄が不足して、お寺の鐘や家庭の鉄鍋を出せ[18] という命令が出ました。戦争末期になると、銃や剣が竹や木で造られたとのことです。そういえば国内の中学校や女学校では竹やりとか木の銃でわら人形を敵の兵隊と考えて突く訓練を受けました。1944年(昭和19年)11月から大都市と工業地帯へのB29爆撃機[19] による空爆が始まり、大阪[20] や神戸[21] など大都市には次の年(昭和20年)2月から焼夷弾[22] 空爆が始まりました。3月10日には東京大空襲[23] があり、一晩で約10万人が焼け死にました。そしてその年の6月9日に明石[24] に初めて空爆があり、何百人もの市民が爆死したというニュースが入ってきました。

 

 そして6月22日、私たち中学生が飾磨の工場の現場に入って間もなく空襲警報のサイレンが鳴って、社内放送で「工員も学生も直ちに工場を出て、駆け足で避難せよ」という命令があり、私たちが非難する途中で空を見上げると、アメリカのB29 爆撃機の編隊がキラキラと銀色に光って飛んでくるのが見えました。それらのB29 が京口地区の川西航空機工場[25] を中心に250キロ爆弾[26] 1400発を投下し、甲子園球場の20倍の範囲に大きな損害を与え、死者・行方不明者351人、負傷者350人を出しました。遺族たちの話では約300メートル四方に爆弾の破片や爆風が飛び散って、人々の頭や胸、腹に当たって倒れていたとのことでした。首のない赤ちゃんもいました。私はその日の夕方、自転車で京口にいきましたが道の上に家が倒れており、見渡す限り大きな爆弾の穴だらけでした。遺族たちの話では、死体は荷車に積んで市川の河原へ運んで油をかけて火葬して、家族が骨を拾ったそうです。そして7月3日の夜11時50分ごろサイレンが鳴り始めたので、表の道に出ると姫路駅付近に照明弾[27] が落とされた数分後には、無数の焼夷弾が投下されて駅前全体が燃え上がり、赤い炎を煙が広がりました。

  その夜、父は出張中だったので、母と私は離れの祖父母のところに行って、「空襲やで、はよう逃げよう!」と言いましたが、78歳で寝たきりの祖母は「どこに居っても死ぬときは死ぬんじゃ!私はどこへも行かん!あんたら早よう逃げなはれ!」と言って動かなかったので、母は私に「権大、先に逃げなさい」と言いましたので、私は外に飛び出て80メートルほど走って、水田の周りの溝の中に逃げ込みました。それから間もなく焼夷弾の落ちる範囲が内町から四方八方に広がり、北の空全体が赤く染まりました。その数分後に突然目の前の田んぼに40本ほどの焼夷弾がシュッ、シュッという音を立てて落ちてきて水田に突き刺さりました。その中の1本が私の目の前30センチほどのところに落ちました。あっという間の瞬間でした。その近くの水田はどれも焼夷弾の林でした。

  そしてふと我が家の方を見ると、北隣の家が燃えかけていたので、慌てて家に走って帰ると祖父と母が帰ってきたので、井戸のポンプからバケツに水を入れて三人でリレー[28] をして家の玄関と居間の燃えかけている天井に水をかけましたが、水は届かず天井全部に燃え広がったので、母は「もうあかん!あきらめタンスの引き出しを抜いて畑に出せ」と言いましたので、タンスの引き出しを全部抜いて畑に運んだので衣類は残りました。

 そのうちに母屋は焼け落ちましたので、離れの焼け跡から祖母の遺体を掘り出しました。木炭のように黒い祖母の遺体は男か女かわからない物体でゾッとしました。そこへ帰ってきた隣のおじさんと私は祖母の死体をトタン板[29] に載せて、手柄駅[30] の近くの小さい丘に運んで穴を掘って埋めました。離れが燃えるまで祖父は祖母の傍に居ったようですが、大やけどをして4日後に亡くなりました。祖父の死体も祖母を埋めたところに穴を掘って埋めました。

  我が家は炊事場だけが焼けずに残りました。見渡す限り焼け跡だらけで、道には牛や馬が焼けて倒れており、猛烈なにおいでした。焼け野原の北の方には姫路城[31] が立っておりホッとしました。三の丸広場の上にあった私の中学校は本館と道場だけ残って大部分は焼けてしまい、西の丸の石垣の下には焼けた焼夷弾の燃えカスが10か所もありました。私たちの中学校が焼けたけれども、城も西の丸も残ってよかったと思いました。城の南側にあった軍隊の建物も全焼でした。この2回の空爆による死者は約180人。住宅や建物の約半数が全半焼したと記録されています。こんな戦争は早くやめてほしいと思いました。家を焼かれた人たちは、防空壕で寝たり、焼け残った木材でバラック小屋を作って暮らしたりしました。私は田舎へ疎開して、飾磨の工場へ行きました。

 

 その後、8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原爆[32] が落とされて、8月15日に昭和天皇の全国放送[33] で終戦が発表されました。私は小中学校の9年続いた戦争で兄と祖父母を失い、家も焼かれた戦争がやっと終わり、ホッとしました。9月になって軍隊の武器倉庫で半分が授業を受け、もう半分は町の中心部の焼け跡のガレキ撤去作業をしました。2部制で、2か月ほどで焼け跡整理を完了しました。9月から姫路にも、今の自衛隊のところ[34] にアメリカの駐留軍[35] が5千人ほど約5年間おりましたが、駐留軍の兵士がジープに乗って町へきて、子供たちにガムやチョコレートをくれたり、将校さんが放課後、学校まできて英語を教えてくれたりして、アメリカ兵は戦争中の鬼や畜生ではなく、「昨日の敵は今日の友」みたいになりました。そして1947年(昭和22年)に新憲法[36] が出来て、日本は戦争をせず、人権を守る平和国家になりました。戦後77年間、日本の自衛隊は一人も戦死しませんでした。

 

 昭和の戦争で日本は兵士230万人、民間人90万人、全体で320万人も犠牲[37] になったという被害の原因は、日本が武力でアジアを占領支配しようとした加害の結果でした。この歴史的事実[38] を知ると、どんな戦争も不幸と悲しみを招くのだから、日本も世界も二度と戦争をしてはいけない、国家と民族の紛争は平和外交に徹底してとことん歩み寄り、話し合うことによって解決するべきです。皆さんは中立平和大国の日本に貢献する社会人に成長してください。民主主義[39] と平和主義[40] こそわが国の生きる道です。

 

語りべ[41]    黒田権大

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